前回の記事で述べた通り、6/27に投稿した↑この記事は私の姉から高い評価を得ている。姉は実際に田舎に移り住み、地方創生を実際に行ってきた実務家であり、その姉からの高評価はネット上での万バズよりはるかに価値がある。この見解の妥当性を確信した次第である。
一方で私はだからこそ、たとえばド田舎に新幹線を引いてそれが地方創生だと主張するような者達に与することはできない。私が思うのは
「地域間公平性なる概念は地方創生の敵である」
ということだ。東京に必要なものと北海道に必要なものは違うのである。そしてその違いは差別ではなく適材適所というものである。よく誤解されるが、交通手段が需要を創出するわけでないことは国鉄の歴史を見れば明らかである。さも創出したかのように見えることもあるが、それは「潜在需要を顕在化させた」ということであり、それはあるところにはあるがどこにでも眠っているものではない。
当然、公共交通の果たす役割は大きいのですが・・。小林一三翁が遺した”乗客は電車が創造する”という言葉も、本来は潜在的な需要を掘り起こすという意味と理解しています。
— pom@department_store (@pomdepartments1) 2023年5月24日
今の県都未満の地方都市は多くが車社会化が進み過ぎていて、その潜在需要はかなり小さい。そうなると、
公共交通の役割は当然に変化して、まさに高齢者向けのデマンドタクシーだとか、そういう方向に舵をとっていくべきだと思うわけです。
— pom@department_store (@pomdepartments1) 2023年5月24日
そこの議論がなかなか噛み合わず、大砲巨艦主義のような交通政策こそが正しい、公共交通は赤字で当然といった主張がまかり通る昨今に疑問を感じますね。
↑全く仰る通りであり、たとえば昨今公共交通整備の成功事例として喧伝される宇都宮などもあくまで県都クラスの都市の話なわけである。私は宇都宮LRTなどは公共交通整備は東京や大阪などの大都市でのみ効果があるものではなく、スプロール化の進むいわゆる車社会の都市であってもある程度の人口集積がありまた交通流動に適合していれば効果があることを立証したという意味において偉大な事例であると認識しているが、しかしだからと言ってどんなところでもという話ではなく、実際のところ新設LRTが有用なのは宇都宮くらいではないかとも思うところである
これもよく言われるように思うが、しかしその意味を真に考えたことのある者は特に非専門家では非常に少ないのではないかと思うが、実に交通網とは血管と同じである。幹線ルートには太く短い動脈が必要なのであり、そしてその周囲には無数の毛細血管が伸びているべきなのである。動脈が細ければ毛細血管がいくらあっても血液が循環せず、それは動脈が無駄に曲がりくねり長くなっていても同じであるだろう。逆に毛細血管は太くても意味がなく、細くとも多数存在する必要があるのである。
これはすなわち交通網に当てはめれば、幹線は十分に太くてかつ可能な限り最短ルートで拠点間を結んでいるべきであり、また支線は低コストな規格で多数存在するべきなのである。なぜ支線は低コストでなければならないかと言えば、それは高コストな支線は数を確保できないからである。これが世にごまんと居る自称地方創生論者が勘違いしているところである。彼らは往々にして幹線もなしに支線を張り巡らせようとしたり(※1)、あるいは支線であって然るべき区間に幹線を敷設しようとしたりする(※2)が、それは結局地方創生の足を引っ張るだけなのだ。
※1 「リニアよりローカル線を」的な言説がそれ。実際にはローカル線だけ存在しても無意味なのであり、ローカル線を駆逐してでもそれより圧倒的に輸送人員が期待できる中央新幹線にヒト・モノ・カネを回すべきだろう。中央新幹線を取りやめるのならば、それはローカル線ではなくさらに必要な幹線にヒト・モノ・カネを回すためであるべきである
※2 整備新幹線推進派によくある考え方。実際にはフル規格新幹線よりも在来線の方がより多くの町を結べるのであり、また事業期間も少なくなってB/Cも向上するわけである。一方でフル規格新幹線は最短ルートであればこそより長距離において効果を発揮できるのであり、その方がより多くの町において利便性を向上できる。あえて最短ルートを放棄するのならば、それはより建設が容易でB/Cが向上する場合のみに限られるべきだろう
私はかつて掲げられた「国土の均衡ある発展」は、結果として東京一極集中をより加速させたのではないかとさえ思っている。あの結果行われたことはと言えば無秩序に山野を切り開き、環境破壊を引き起こしただけでなく地方都市の健全な都市化をも阻害したということだろう。自家用車の普及・商業施設の郊外移転は歴史的必然ではあるが、しかしそれはもう少し統制的に出来なかったのかとは思うところだ。「国土の均衡ある発展」は領域国家(非都市国家)においてはある程度は必要な概念だと私も思うが、しかしそれはあくまでも非常にマクロ的な話に限定されるべきなのであって、ミクロ的には都市化・集積化を推進し、限界集落はもちろん場所にもよるが基本的に山野に返していけば良いものと思う(※3)。
↑「無駄な公共事業」と聞いて私が思い出すものの1つに高速道路のバスストップがあるが、これがとりわけ初期の名神や東名においてはいかにも需要のありそうな場所ほど設置されておらず、需要のなさそうな場所にこそ設置されているのは「国土の均衡ある発展」の結果である。これらが結局停車するバスも無くなって使用されず、一方で近年真に交通需要の多い場所に設置された京都縦貫道の高速長岡京停留所(→阪急京都本線西山天王山駅併設)のような場所はある程度利用されているのは、まさに「リニアよりローカル線を」の末路と本来あるべき交通網整備とはいかなるものであるかを物語っている
※3 ただ一般に居住地の集約・都市の縮退と集積化という話になると「農村からの撤退」がすぐにイメージされているように思うが、実際には最も撤退を促進されるべきなのは吉川祐介さんが回っておられるような限界分譲地であることは強調しておきたい。農村集落は元々農林水産業の基地なのであって、現在でも住んでおられるような方々は現在でも農林水産業で生計を立てておりその地に居住する必然性の高い方々も多いためその撤退判断はあくまでも慎重になされるべきだと思うが、限界分譲地は吉川さん自身が言っておられるようにもとよりその地に住む必然性も何もなかった場所であり、国土形成史においては農村集落とは比較にならないほど罪深い存在である。ただこれも吉川さんが言っておられることであるが、実際にはそのような分譲地にあえて住もうという方々もおられるのであり、また場所によっては周辺からの転入が相次いでいるところもあるため、たとえば都市の集約においては場所によっては旧市街に拘らず郊外の分譲地にあえて街を移転するというような対応も考えられるべきであり、またそもそも早く手を付けるべきなのは現在でも人々の居住する土地の集約ではなくまずは土地の権利関係の問題をどうにかすることだろう
地方創生は往々にして西暦1970年代に登場した「文化的リベラリズム」の観点から言及されるようことが多いようにも思われるが、それもまた地方創生の敵であると思わざるを得ない。文化的リベラリズムとは田中拓道「リベラルとは何か」(中公新書2621、2020年)によれば「経済発展よりも個人の自由な選択を優先した」考え方であり、今一般に左派と聞いて連想されるであろう脱経済成長、脱進歩主義、脱都市化というような私に言わせればまさにこれこそ反動主義であろうと思わざるを得ない思想のことである。この思想が罪深いのは神話によくある下降史観に立脚していることであり(※4)、それにより前近代をともすればユートピアであるかのように喧伝してその時代の労苦を糊塗しており、実際には近代化による経済成長・都市化によって人類の様々な問題が解決したことを「無かったこと」にしてしまうことである。そもそも経済発展と個人の自由な選択は二者択一ではなく、むしろ経済発展こそが個人の自由な選択を可能にした面が極めて多いのである。だからこそ私は田舎に居住しながらも、あくまで現代的な消費社会を肯定し、都市化を肯定し、そして田舎でも消費社会に当然参画できる程度には都市化されなければ田舎に未来などないと確信している。
もっともこれはだからと言って田舎に東京と同じものを作れと言っているのではない。これは6/27の記事からの繰り返しであるが、東京と同等を目指すべきなのは物理的なものではなく実質的な利便性によるものであるべきである。
※4 つまり人間は元々下降史観に生きる生き物なのであって、意識的に進歩主義を心の中に植え付けなければすぐに下降史観が鎌首をもたげて来るのだろう。「今日よりも明日が良くなる」というのは近代化以後の事象であるわけだが、しかし今我々が生きる世の中は近代化以後の世の中なのである
↑何度でも貼るが、近代化・経済成長が様々な問題を解決したことはヨハン・ノルベリ氏のこの本が何よりも物語っている。しかしそれでもなお人類は「昔は良かった」と思い込みたい生き物なのだ。それはまさに知性によって克服されるべき宿痾であるだろう
↑前近代をユートピアとする思想の果てにあるものは、まさに地獄としか言いようのない破壊と殺戮なのである
そもそも都市の縮退のような話は人口減少の文脈で言及されることが多いが、私は人口が減少していようが増加していようが国土政策の基本は不変であるべきだとも思っている。人口増加時においては、都市への集住は無秩序な環境破壊に対抗する手段として推進されるべきであり、新たな居住地を切り開く場合でも既存の都市の外縁に付け足すような形で開発されるべきであり、そして新規居住地は人口減少時には速やかに放棄することを前提とすべきだろう。もちろん実際には机上論通りにはいかないものであり、あくまでも重視されるべきは人々の自由と尊厳、そして安全であるべきだが、とりあえず私がこの記事で述べたいことは一般に地方創生と称して推進されているような事象は実際にはむしろ逆効果ですらあると考えられるものも多く、まさにそれが地方創生の足を引っ張っていると考えられるということだ。そしてそれは乗合交通・公共交通の維持・整備の文脈にも通じるものである。
↑近年の都市開発と言えばタワーマンション批判も根強いが、私はこのような代物を山野に作るよりはタワーマンションの方がよほどマシだと思えてならない。そもそも人は元々群れを成す生き物なのであり、都市公害問題が解決されるまでは都市は極めて住みにくいところであったがそれでも万難を排して都市に集住してきた生き物なのだ。都市化批判なるものは結局、クジラに陸に住めと言うに等しい言説なのだろう
島根1区の亀井亜紀子が主要公約に地域医療と公共交通の重視を掲げてるのもまさにそういう過疎地事情を反映してのものですhttps://t.co/EFi7zkTpgI https://t.co/hQEwO2wS7u
— masa @もっと良い未来へ (@masa_CDP) 2024年7月23日
↑近年は民主党政権からの逆噴射により「立憲民主党が勝てないのは高速道路整備を推進しないからだ」などというような主張が左派からなされることも多いが、実際のところ選挙で勝利しているのはこのような主張を行う政治家であることは確認しておきたい。亀井亜紀子氏は山陰新幹線を批判して山陰本線に高速蒸気機関車列車を走らせるべきだとも主張しておられるが、山陰のような地域においては在来線重視・新幹線批判の姿勢は私としても支持したいところである。もっとも高速蒸気機関車列車は技術的問題点も多いため、実際のところは普通列車の増発、特急「スーパーおき」の再改良、観光列車の運行あたりに予算をつけていただければと思う。
またそもそも民主党政権はたとえば小泉内閣が止めた新名神の草津~高槻についてもB/Cを再計算し建設続行とされた高槻~神戸よりもむしろ効果が高いことを突き止めた上で着工認可を出すなどしており、少なくとも道路整備という意味においては結果としては悪くなかったとも付言しておきたい。
【余談】
どうにもとっちらかった記事であるが(汗)このブログはあくまでも私の現時点の思索を強引にでもまとめたというか吐き出すためものであり、かなりの部分において思いつくままに書いており、また読者の存在はあまり想定していないのである。その点ご容赦頂きたい。