今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

世界観を作り直す(2)

 前回の記事はどうも取っ散らかった内容になってしまった(※0)。なぜならばあの記事は私の思考を整理した結果それを他者に提示するために書いているのではなく、記事を書くことによって私の思考を整理する、というものだからである。それはこの公開ブログのすべての記事、Twitterのすべてのツイートも同じなのであるが、ただ流石に「世界観を作り直す」などという大きな目標となると従来の方法には限界があったようだ。

 

 ただ、ブログの目的は変わっていないため今回以降もこのまま継続することにする。

 

※0 たとえば私は高校では世界史を選択したような人間であり、シュメール人都市国家が世界最古の都市国家である、などというのは別に「国土学再考」を見ずとも当たり前の話なのであるが、そこで無理矢理「国土学再考」と絡めたためにあたかもそれを見なければそんなことも知らなかったかのような書き方になってしまった。「世界史の窓」を参照したのもあくまでも確認のためである。

 

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 そもそもなぜ私が世界観を再構築しなければならないのか。そしてそこになぜ国土学が絡むのか。

 それは「鉄道趣味者としての私」と「社会人としての私」に折り合いをつけるためである。私はどこまで行っても鉄道趣味から離れることはできない(※1)。当然それは社会人としての私の在り方にも強く影響する。それは良いとしても、しかし私は同時に日本の主権者でもあるわけであり、この国の政策を注視し、その在り方を私自身も考えていくのは国民としての義務である。そしてその場においても鉄道最優先を貫き続けることはできないし、やるべきことでもない。

 それは鉄道のためでもあるのである。鉄道は交通機関であり、その繁栄のためには当然人々に支持され、利用される必要がある。社会は否応なく変化し、それは鉄道にとって追い風にもなれば向かい風にもなるが、だからこそ追い風を活かし向かい風に立ち向かえるようでなければ、たとえ鉄道路線自体は残ったとしても人々から支持されなくなってしまうし、支持されなくなっても無理に残したり支持され続けるよう無理に社会構造をモータリゼーション前の状態で温存しようとしたりすれば、当然他の場所において別の問題を発生させることになる。そしてそれは鉄道の進歩を止めることにもなるのだ。

 

※1 最近は乗りバス旅にも精を出しているが、ただこれでも私の趣味の基軸はあくまでも鉄道であるつもりである。たとえば京都市内の路線バスは京都市営バスよりも近鉄グループと京阪グループを優先しており、近鉄グループ京都市内に持っている路線バス(近鉄バス奈良交通向島線)は空2年(西暦2022年)に早々と乗ってしまったため現在は京都バス・京阪京都交通を含む京阪グループの各線に乗っているわけであるが、これらを優先しているのはまさにこれらの各社が鉄道事業者の系列であるからであり、さらにその中でも鉄道網を補完する路線に最優先で乗っているつもりである。

 

 「鉄道趣味者としての私」が鉄道に対するスタンスとして守りたいと思うものは、「鉄道の進歩を促進し、それを妨げないこと」である。私が好きな鉄道とは、進歩し続ける鉄道なのだ。おそらく私は日本の鉄道が未だに蒸気機関車を使い、「鉄道黄金期」の面影を色濃く残す一方で人々からは交通手段として見向きもされない前時代的な代物であれば、鉄道趣味者になることはなかっただろう。私の趣味の原点は鶴舞駅を通る中央本線である。毎時5分に通過していく長野行き特急「しなの」、名古屋都市圏では最長の編成長を誇る普通列車、春日井・多治見に行くコンテナ貨物列車と南松本行きの石油貨物列車、それらが「現に利用されている」という状態が私の趣味の原点であり、私が趣味者として鉄道に求めるのはその方向での発展である。別に保存鉄道がこの世のどこかに走っているのは一向に構わないし機会があれば私も乗りに行きたいところであるが、ただすべてが保存鉄道になってしまったら私の関心は大きく削がれることになるだろう。まただからこそ”鉄道は単なる交通機関ではない”的な言説には違和感しかない。むしろ単なる交通機関として、人々に当たり前に利用される存在であってこそ鉄道は私の趣味の対象になり得るのである。それには当然、時代に合わせた変化が必要なのであり、私は趣味者としてその変化を追いたいと思うものである。

 

↑三崎亜紀の小説「只見通観株式会社」は通勤用観覧車という特殊な鉄道を運行するとある事業者を追ったものであるが、そこにはその社長のセリフとして「路肩の石のように気に留められない存在になりたい」という言葉が出てくる。これは鉄道の理想であるだろう。

 

 その上に日本の政策を審判しその在り方を決める主権者の1人としての「社会人としての私」が築かれるわけであるが、そこに国土学が絡んでくるのである。

 

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 路肩の石のように、とはいっても、事実として鉄道は巨大な装置産業であり、本当に路肩の石のようにただ転がることはできない。社会による支援が必要であり、その上で鉄道の進歩を促していくともなれば、当然のように公共事業を推進する立場、ということになる。

 とはいえ、当たり前だが公共事業は無限にできるわけではないし、こちらもまたやるべきものでもない。鉄道を維持するために税金が際限なく上がったり、非効率な社会構造を温存することにより経済機構にゆがみが生じたりすれば、当然その負の影響は私の生活にも跳ね返ってくる。そこで社会人としての私はどうしても経済効率を重視しなければならなくなる。その上で必要な公共事業を、ということになるわけであるが、当然その「必要な公共事業」は往々にして鉄道に並行する幹線道路の建設であり、鉄道の競争力を削ぐものでもある、ということもあるわけである。それは費用対効果分析において正便益が出るか否かで判断すれば良いとしても、そもそも根本的に支出全体から見たときにどのくらいの割合を公共事業に回すか、ということも重要な論点となる(※2)。そこで登場するのが、国土学の視点である。

 

※2 たとえ費用対効果分析において正便益が出たとしても、実際にそこに割かれる予算がなければ事業は進まないため。実際事業着手したにも関わらず一向に竣工しない公共事業は予算が制約条件となっていることも多い。さらには費用対効果分析では正便益が出ているにもかかわらず政治の後押しがないが故に止まっている事業も存在する。具体的には大阪市高速電気軌道長堀鶴見緑地線の鶴町延伸や高松空港鉄道など。北陸新幹線敦賀~新大阪も、費用対効果分析では米原ルートが最高値と出たにも関わらず政治力で京都小浜ルートとなった経緯がある。私としてはかつて民主党が掲げた「コンクリートから人へ」とはまさにこのような費用対効果の悪い事業から良い事業への予算の付け替えであるべきであったし、またJR東海が自己負担をしてでも作ろうとしている中央新幹線についてはJR東海に先駆けて民主党政権が公共事業として着手することで国がグリップを握るべきであったと思っている。

 

(続く)

→前回の記事は長さも無駄に長すぎた。私は旅もブログも労力を減らして数を増やしていきたいのである。