霧笛

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

諸畑へ

https://maps.app.goo.gl/6Jp2KBY8U5izfCQg6

 

  長く近畿の拠点は八木本町であったが、12月から本町より徒歩1時間の諸畑へと移った。公共交通は平日昼間にデマンドバスがあるだけであり、大変不便だが景色は良い。当面私の生活の場は基本的に名古屋となるが、しかし諸畑の拠点も活用し、南丹との関係は維持したいものである。

 


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諸畑と八木本町を最短で結ぶ道路は長らく未成たったが、西暦2023年夏にようやく開業した。


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ここで貨幣経済の下にあるものは自販機のみと言っても過言では無い。そもそも農村は生産の場であって消費の場ではない。そこが都市との違いである。昨今米価が高騰しているが、農業が産業として復活すればこの地域には大変な追い風となる。インフレには私も悩まされるが、しかし農業の復活には期待せざるを得ない。

 

  それにしても交通の不便はいかんともし難いが、しかし本町との間に峠越えがあるわけでもない。府道25号に山陰本線接続の自動運転バスでも走らせればかなり便利になるだろう。

 

(委・委員長)

回り道の終わり

   昨春の対現実大反攻から1年が経った。あれは相当な無理をした行動だったが、私はあれから1年をかけてあれを日常とすべく最後の模索と調整を進めてきた。去る1月には空想委員会の組織について、組織体制そのものの構築を目的とした組織数抑制の段階を終え、本格的行動に向けた組織数の拡充と鉄道派生趣味所管部局の建設局への集約を行い、いよいよ本来の姿へと移行した。そしてこの3月には、全国乗合交通巡りその他の行動を行いつつインターネットでの言論閲覧・発信体制の大幅な刷新を行い、長きに渡り私のインターネット生活の中心にあったTwitterからの脱却を開始した。

 

  この1年、私が考えていたのは、空想委員会とは何か、なぜ【対現実大反攻】なる行動を行わなければならないのか、そもそも私は何者であるのか、ということである。その点について、まずはこの記事でまとめて行きたい。

  私は鉄道趣味者である。私のバックボーンを記述すると結局ここにたどり着く。私の目的は趣味の永続であり、そのために空想委員会が存在する。空想委員会には鉄道趣味そのものの遂行を目的とする建設局と、鉄道趣味を可能にし得る社会を実現・維持・存続するための教務局・情報局があり、前者は派生趣味も含む鉄道趣味そのものを遂行し鉄道の実態を解明しつつ運輸業界の過剰縮小を緩和するための社会活動をも模索し、後者は鉄道趣味の遂行に不可欠な自由・平和・繁栄を地球全土に拡大し、どこでも鉄道趣味を遂行し得る社会の実現を模索するわけである。

  空想委員会が「空想」を冠するのは、現実世界に立ち向かう組織であるからである。私の認識では現実世界とは積極的に我らを押し潰す脅威そのものであり、平穏な生活を欲するのであればそれと戦うより他無い。このとき人類は己の価値観や思想性をなるべく維持しつつ、しかし客観的事実に基づいて行動しなければならない。一方で、同時代を生きる人類は価値観や思想性が異なっても本来は共に現実と戦う存在であるはずであり、本来は味方となり得る存在であるはずである。これが空想主義思想の根幹であり、空想委員会はこれに立脚する組織である。

 

  空想委員会では対外的行動を総称して「広報活動」と呼称しているが、このインターネット社会にあっては我らも効果的なインターネットの活用を推進しなければならない。一方で空想委員会は私1人の組織であり、できることには限りがある。そこで空想委員会のインターネット広報活動はかつて中華人民共和国を成立させた毛沢東の遊撃戦論に従い、利用人口の多いX(旧Twitter)とスレッズ(インスタグラム)を【敵主力】に見立て、これらに対しては安全圏からの攻撃に徹すると共に(→クソリプや曲解RTの危険のある一般投稿をせず、公開ブログ更新報知とリプライ・RTに徹する)、我が方の主力はコメント欄を封鎖したこのはてなブログと利用人口の少ないブルースカイ、さらに閲覧用アカウントであると共に今後の必要に応じてサブブログとして運用し得るnoteへと散開し、インターネットの問題点である同調圧力や曲解、罵詈雑言や吊し上げを回避しつつ我ら独自の分析と発信を継続する。私はこの行動を通し、インターネット言論の多様性を確保し、蔓延る【解りやすい非事実】を批判して【解りにくい事実】を解明・拡散し、さらには社会各所で分断されつつも絶対数としてはそれなりの数が居るであろう私の同類(→私と同様の思想性を持ち現実世界に抗う者達)と私とを接続し得る回路を確保したい。

  一方で、昨今は世界的に社会の分断が問題となっている。これは情報革命以前より存在した分断を可視化したに過ぎない側面もあるだろうが、一方で各所で指摘されている通りSNSを政治的対立の場として使う者達の存在、そしてそれを拡散し積極的に炎上を発生させるSNSアルゴリズムもまた問題であることは空想委員会としても事実として認めざるを得ない。そこで空想委員会では委員長であり唯一の構成員であるこの私の個人的な生活や純然たる趣味活動のみを発信し、私もまたこの社会に存在する一市民であり憎めない側面があることを政治的に対立するような人々に対しても発信し得るアカウントを確保することにした。この用途のアカウントとしては現在はミクシイ2でかつてTwitterで行っていた旅の模様の速報を、またウェザーリポートで天気報告を行っているが、今後は通信容量確保を兼ねたマイネ王への再進出、及びさらなる拡充も考えている。

 

  それにしても、長きに渡った私の回り道がついに終わったことを実感せざるを得ない。この回り道の原因は、結局のところは戦い方を知らなさすぎたからである。私は漠然と現実世界との戦いの必要性を認識しつつも、それを成し得る方法論を持ち得なかった。ここまでの迷走はそれを獲得するための旅であったと結論付けたい。世界を見渡せば、日本と人類が絶頂を極めた時代が終わり、今人類は進歩した科学技術の下でストレス耐性を低下させ、価値観や見解の異なる者達の暴力的排除や気に入らない科学的事実の否認等を通して産業革命以来格段に向上させてきた危機対応能力を減退させ、本来は21世紀における人類最大の脅威であるはずの気候変動問題はそっちのけで人類相互の対立に明け暮れている。私が確信しているのは、これからの数十年間は回避可能な悲劇に全人類が自ら突入していくという、人類史上最も愚かな時代となるであろうということであり、そしてその中で十中八九人類は滅ぶだろう。確実に幸福を手に入れたいのならば、今すぐ死ぬことである。これからの時代は生きていてもバカバカしい悲劇に苛まれるだけである。そう思いながらも私がまだ生きているのは、悪化しているのは私の力の及ばない外部環境のみであり、私の力の及ぶ内部環境は改善しかしていないからである。そして私が生きる限り、空想委員会が現実からの解放を成し遂げる可能性は存在し続ける。その可能性だけが私の希望である。

 

【空想委員会組織図 空5年3月18日】

中央会議

 委員長

 統合本部

  広報課

  信用課

  厚生課

  図書課

 教務局

  教学部

  哲学部

   社会思想学課

   歴史学

   経済学課

   心理学課

   自然哲学課

  平和学部

  創作表現部

   現代文化課

   制作課

 情報局

  中央情報本部

   第一課(報知)

   第二課(情報機関)

   第三課(新領域安全保障)

  第一部(アジア・太平洋)

   第一課(日本・韓国・台湾)

   第二課(中国・ロシア・北朝鮮

   第三課(アメリカ)

   第四課(東南アジア・南アジア・オセアニア

  第二部(ヨーロッパ・中東・アフリカ)

   第一課(ヨーロッパ)

   第二課(中東)

   第三課(アフリカ)

  第三部(国内)

   第一課(国政)

   第二課(地方自治

   第三課(治安)

  第四部(防災)

   第一課(気象)

   第二課(地象)

   第三課(防疫)

   第四課(環境)

  第五部(経済)

   第一課(経済総合)

   第二課(労務

   第三課(企業統治

   第四課(情報産業)

 建設局

  中央建設本部

   建設言論課

   交通整備課

   交通産業課

   国土史課

   都市観光開発課

   産業資源開発課

   通信課

   金融課

   宇宙開発課

   環境課

  北海道地方建設部

  東北地方建設部

  関東地方建設部

  東海地方建設部

  北陸地方建設部

  近畿地方建設部

  中国地方建設部

  四国地方建設部

  九州地方建設部

  沖縄地方建設部

 

【広報体制の現状】

1.空想委員会公式アカウント

1-1.公開ブログ(ここ)

1-2.note(予備ブログ・当面は閲覧のみ)https://note.com/kazetosoratokumo

1-3.ブルースカイ(短文時評・公開ブログ報知)

https://bsky.app/profile/atorsm.bsky.social

1-4.X(閲覧・リプライ・RT・公開ブログ報知)

https://x.com/AtorsM1?s=09

1-5.スレッズ(公開ブログ報知のみ)

https://www.threads.net/@jiujingkong9

2.趣味・日常アカウント

2-1.ミクシイ2(日常速報)

https://mixi.social/@AtorsM

2-2.マイネ王(趣味長文)

https://king.mineo.jp/my/0f03d205da99245b/profile

2-3.ウェザーリポート(天気報告)

https://wxrepo.weathernews.jp/report/

 

(委・委員長)

観光立国と地方創生【学習ノート】

digital.asahi.com

 

→この記事に対するTAKA Kawasaki氏の反応

 

→なぜ地方創生が必要なほど地方は衰退してしまったか、と言えば「モノカルチャー経済の基幹産業が失われたから」なんですよね。そのモノカルチャー経済からの脱却を目指した一つの選択肢として、観光振興というものはあるのだと理解しています。

 

 なお個人的には、ニセコや白馬のような「観光モノカルチャー経済」はかつて炭鉱や農林水産業で栄えた地域のような末路になりはしないかと危惧している。地球温暖化で雪は希少資源になりつつあるのは事実ではあるが、羽幌炭鉱や夕張炭鉱もまた往時は”希少資源”だったはずなのである。

 

【追記、というかメモ書き】

kazetosoratokumo.hateblo.jp

 上記記事において地方創生の目的を国土の維持のみに置いているのは、私の思想性から言ってもただただ違和感しかない。自分で書いたはずだがなぜこんなことになっているのか不思議である。削除するか書き直すかしたいところ。

 

(委・建設局中央建設本部)

→テーマを絞り込んだ記事については空想委員会における所管の部署を記載させていただきます。これは私の脳内を整理するための措置です。

21世紀の知性

・空想委員会に何ができるか

【中央会議】

 先の公開ブログで我ら空想委員会は空想主義思想の実行機関となったことが明らかになったが、それを前提として我々に何ができるか。

 まず原理原則論で言えば、我々は空想主義思想の実行機関である、ということは委員長の願望の実行機関であるわけである。我らは委員長の持つリソースを元に、それを分配し、または拡大し、「現実からの解放」へと結び付けていくことこそが使命である。

 一方で我らはマンパワーに乏しく、実空間に存在できるのは委員長ただ一人である、という究極の制約がある。そのため我らはいかなる組織形態を目指そうとも、結局は委員長の「頭脳」を拡張する存在でしかないわけである。

 

 そう考えると、結局空想委員会の活動は「生活管理」と「趣味遂行支援」の他は「知的活動」しか存在しないわけである。そしてそれを遂行していくことこそが空想委員会の役割というものだろう。

 上記3者は分割できるものではないが、あえてわけるとすれば資格取得のようなものは「生活管理」の方になり、一方で趣味活動については具体的な趣味の実行以外の基礎的・学術的調査の部分は知的活動に分類するのが妥当だろう。そしてこの知的活動は「空想大学」と総称されるわけである。空想大学は公開ブログを活動拠点とし、あらゆるメディアを駆使し、また全国乗合交通巡りに代表される実空間での主に趣味活動を通して実地検分も行いつつ、知の偏在を解消し、知の検証を行っていくべきだろう。そしてそれを社会に還元し、自由・平和・繁栄の維持拡大に貢献することこそが空想委員会の社会活動であるべきであり、それこそが「現実からの解放」である。

 

・21世紀の知性

【教務局】

 前記中央会議決議の末尾「知の偏在を解消し、知の検証を行っていくべきだろう」は教務局が織り込んだものである。教務局は席次第一位の内部局でありながら直接的な趣味活動にも、また社会活動にもコミットしにくいが故に昨今は窓際部署と言っても良い存在であったが、今回の決議により空想委員会が「空想大学」にまい進していくならば教務局はその中核となって然るべきである。

 

 では21世紀の知性とはどういうものだろうか。それはつまり現代の歴史的意義を考えることと同義であるが、それは一言で言えば「神話代の終わり」であるだろう。人類は今まさに、事実の世界に移ることによって更なる平和と繁栄を獲得するか、あるいは神話に引きこもることにより破滅の道へと突き進むかの分岐点に立っているのではないかと思われる。

 神話代の終わり、というのは従来は産業革命の時代に訪れたと考えられてきた現象であるが、教務局としてはもちろん産業革命期の転換も大変大きなものであったと我々も認識しているが、ただ神話世界から事実世界への移行というのはそもそも先史時代において、それこそ人類の祖先がチンパンジーの祖先とわかれたときから始まったものであり、それが徐々に進行してきたのだと考えている。先史時代から中世においては神話そのものが事実を把握するための道具だったのであり、近代になってそれが批判されるようになったわけであるが、とはいえ近代化(産業革命)から21世紀の情報革命までの期間というのは中世以前よりは事実認識(科学的分析)が進んでいたものの、一方で情報革命以後の現在から見ればまだまだ情報技術の未熟もあり、実際のところはオールドメディア(マスメディア)と知識人(インテリ)が新たな神官として新たな神話を語り、それを中心にして社会が形成されてきたという、「後期神話代」とも言える状態でもあったと考えるのが妥当かと思われる。一方で神話そのものは人間の認知能力の限界もありこれからも完全に消え去ることはないだろうが、しかしスマホSNSの普及に代表される情報革命によって従来不可視化されてきたものが可視化されたことにより、アメリカの状況に代表されるような「近代的神話の動揺」が世界に広がっているのは、まさに現在進んでいる情報革命が恐らく最終的には産業革命以上に神話という存在を過去のものとし、人はますます事実の世界に生きなければならなくなったことを表しているものと思われる。そしてそれは地質時代的必然でもある。というのも人類は産業革命以後の近代科学技術の発達により、今や地球の地質時代は「人新世」へと突入し、地球と直接対峙しなければならなくなったのであり、この時代に人類社会の中ではどれほど絶対的な権威があろうとも所詮は人類が脳内で構築した代物に過ぎない神話の世界へと居直ることは、まさに自殺行為以外の何物でもない。

 即ち人類は可能な限り事実の世界へと移行すべきなのであり、そのためには産業革命期において中世以前の神話(宗教・迷信)が批判的に検証されたように、情報革命期においてもオールドメディア(マスメディア)と知識人(インテリ)という「近代の神官」達が紡いできた物語(ナラティブ)が真に妥当なものであったのか、検証されなければならないのである。一方でオールドメディア、特に総合的なマスメディアと、知識人、特に人文系の進歩的文化人が世のあらゆる知性を総合し代表する存在である、という「近代の神話」のまさに根幹部分が既に崩壊しその非事実性はもはや一般常識の領域にある以上、知性というものは各界の専門家(研究者・実務家・活動家)に「偏在」していることも認めなければならないだろう。人類は従来語られてきた近代の神話に惑わされず、偏在する知性(≒科学的事実)を繋ぎ合わせ、より事実に即した世界観の下に生きなければならない。それが情報革命以後の世界における「神話」となり、人類社会の新たな紐帯となるだろう。

 

 つまり空想委員会は情報革命以後の人類社会の紐帯となるような、次世代の神話を形成していく活動を展開するべきであり、またそれに貢献するべきなのである。それが空想委員会の知的活動たる「空想大学」の目指すものであり、それを成し遂げることが知的活動における「現実からの解放」となるわけである。

 

・紐帯を目指す

【統合本部広報課中央作戦室】

 「つまり空想委員会は情報革命以後の人類社会の紐帯となるような、次世代の神話を形成していく活動を展開するべきであり、またそれに貢献するべきなのである」という教務局の提言はそっくりそのまま社会活動の指針にもなり得るものである。空想委員会は「現実からの解放」を目指し社会の平和的変革をも目指す組織として政治活動へと接続する回路の形成を模索してきたものであり、だからこそ現在でも公開ブログ・SNSでは支持政党の明記までやっているわけであるが、その政治活動において「紐帯」という概念はまさに我らの目指すものとするべきであるだろう。

 先の都知事選とアメリカ大統領選挙を受けて今巷では左派・リベラル派批判が喧伝されているが、委員長の意思と中央会議の決定の下立憲民主党を支持する立場である我ら空想委員会としては、その批判される左派・リベラル派をも排除せず、少なくとも形式的には左派の伝統とも地続きの勢力をも社会の内に受け入れる社会を目指すべきであり、その必要性を訴えるべきだろう。そもそも昨今は左派というものがあまりにも「舐められすぎ」である。日本においても今なお日本共産党破壊活動防止法に基づき公安警察公安調査庁の監視下にあることに代表されるように、そもそも左派は極めて暴力的で危険な存在なのであって、彼らを平和的な隣人として社会の内に留め置くことができているのは、日本においては立憲民主党野党第一党であり、またアメリカにおいては民主党が二大政党の片方であるというように、彼らをもある程度は包摂する政党が巨大政党として君臨しているからである。委員長の考えでは、そもそも「左翼思想」なるものはそれそのものが人類発祥以来の伝統的思想なのであり、そしてそれは近代科学(→近代科学はデカルトの「我思う故に我あり」が出発点であるように、本質的に自己批判を伴う「右翼的な」ものである)によって克服されるべきものなのであるから、左翼勢力が減退していくことは大いに結構でありまた歴史的必然でもあるだろうが、それはそれとして左派が担ってきた社会的機能は何者かが引き継がなければならないのであり、それは少なくとも形式的には伝統的左派勢力と地続きの存在である必要がある、ということになっており、だからこそその始まりにおいて左派とされた政治家を救済するために発足し、また日本共産党社民党とも連携してきた(→が、左派そのものではない)立憲民主党を支持するのだということで今日までやってきたのであり、これからもそうであろうが、今回の教務局の提言はその委員長の宿願にもかなうものである。

 

・解説

 この記事は西暦2024年11月8日の非公開ブログに書いたものを転載したものである。昨今の私が画策しているものがいかなるものであるのかがよくわかる内容かと思う。

 先月発表されたノーベル経済学賞ではマサチューセッツ工科大学のダロン・アセモグル教授が受賞者の1人に選ばれたわけだが、倉本圭造氏の記事によればアセモグル教授は「国家の力と社会の力が拮抗した状態こそが自由で繁栄した国家を持続させる」ということを論証しているのだそうで、それは国家を解体し小さな政府にすることこそが人々を自由にするのだというナラティブにかねてより疑問を持ち、むしろ民主的合意を前提としつつ各種規制や社会保障公共投資等を広く展開する「強い国家」が強固に人々の社会権を守ってこそ人々は「実質的な自由」を享受できるのではないか、と考えてきた私としては、実に腑に落ちる話である。

 

「おいおいどうすんねんこれ?」状態の選挙結果を希望に変えるノーベル経済学賞研究の話|倉本圭造

→上下巻とも昨日(11/15)楽天ブックスに発注した。

 

 一方で日本の衆院選でもアメリカ大統領選挙でも「右派ポピュリズムの拡大」がその結果として示されたわけだが、それに対してキール世界経済研究所は興味深い研究結果を発表している。

inods.co.jp

 内容は表題の通りであるが、つまり「公共投資が右派ポピュリストを減らす」ということである。これを読んで私が思ったのは、

「日本の右派ポピュリズムが現状程度で未だ収まっているのは、自民党政権民主党政権を通し、公共投資削減論が喧伝されながらも何だかんだと過疎地含め公共投資が行われてきたからではないか?」

というものだ。日本において右派ポピュリズム政党の代表格と言えば維新の会だが、これについてはShin-ya Ohnishi氏が指摘する通り、維新成立の背景には小泉内閣下においてとりわけ近畿地方公共投資が削減されたという側面は確かにあるのであり、そしてその維新の勢力拡大がほぼ大阪府内で食い止められているのも、維新成立もあり近畿地方にも公共投資が再び行われるようになってきたからこそではないか、と思われるところは確かにあるわけである。

 

↑立憲は先の衆院選でも東北での強さが明らかであったが、それも東日本大震災後の三陸道(E45)全線事業化を始めとする民主党政権時代の公共投資の結果なのだろうか。公共投資というものは、やはりバカにはできないものである。

 

 もし本当にこの通りだとすると、土木利権を叩き公共事業削減を主張してきた左派こそが右派ポピュリズムの生みの親である可能性まで出てくるわけである。このように、過去に目指された理想が真に理にかなったものであったのかどうか、これを検証していくことこそが「21世紀の知性」となるだろう。

 そもそも人類は20世紀に大きく躍進を果たしたが、一方でその結果数多の歪みを生み出したのもまた事実であり、しかも近代化の歪みを批判したはずのポストモダンは極めて稚拙な発想で構築されてしまい、その結果近代の歪みは解消するどころかさらにその歪みを大きくして我々に今降りかかっている。おそらく21世紀は、20世紀の躍進の「尻ぬぐい」に費やされることになるだろう。私はこの尻ぬぐいを21世紀中に終わらせ、22世紀を真の人類の繁栄の世紀とすることにどうにかして貢献していきたいものだ、と思うものである。

空想委員会組織図 空5年11月16日

【建制組織図】

中央会議

 委員長

 統合本部

  広報課

  信用課

  厚生課

  図書課

 教務局

  哲学部

  平和学部

   環境学

   安保学課

   安保技術課

  創作表現部

   現代文化課

   制作課

 情報局

  中央情報本部

   第一部(政治)

    第一課(アジア・太平洋)

    第二課(アメリカ)

    第三課(ロシア・中国)

   第二部(防災・治安)

    第一課(自然)

    第二課(情報)

    第三課(社会)

   第三部(経済)

    第一部(経済総合)

    第二部(商業)

    第三部(労働人権)

 建設局

  中央建設本部

   交通整備課

   交通史課

   都市観光開発課

   通信課

   産業資源開発課

  北海道地方建設部

  東北地方建設部

  関東地方建設部

  東海地方建設部

  近畿地方建設部

  中国地方建設部

  四国地方建設部

  九州地方建設部

  沖縄地方建設部


 

【非建制部署の見取り図】

 

統合本部

 広報課

  中央作戦室

  文書係

  社会係

 信用課(空想信組)

  編成監督係

  決済係

  資産係

 厚生課(空想生協)

  庶務係

  補給係

  保健係

  企業局準備室

 図書課(空想図書館)

教務局

 平和学部

  環境学

   気候変動係

   宇宙開発係

   資源エネルギー係

情報局

 第一部(政治)

  第一課(アジア・太平洋)

   一係(東アジア)

   二係(アメリカ)

   三係(南アジア)

  第二課(ヨーロッパ・中東・アフリカ)

   一係(ヨーロッパ)

   二係(中東)

   三係(アフリカ)

  第三課(ロシア・中国)

   一係(ロシア)

   二係(中国)

 第二部

  第一課(自然)

   一係(気象)

   二係(地象)

   三係(防疫)

 第三部

   第二課

    一係(商業開発)

    二係(通信)

    三係(販売促進)

 

・解説

 人生回復に伴う活動本格化に対応するため、空想委員会では非活動部局のさらなる廃止と共に縦割りの官僚的組織から迅速な意思決定と行動を可能とする機動的な組織への脱却を図っている。

 とはいえ問題はどのような組織を作るかではなく、どのような活動を行うかだ。人生回復は成し遂げられたとはいえ、4月に熊本から戻って以降活動は停滞気味であることが否めず、またそもそもの話として私の能力的限界は如何ともしがたい。9月以降はSNSの事実上の休止を伴う徹底的なストレス低減を行い、それは功を奏しているが、とはいえそれは積み重なった問題の一つを、解決したというよりは「これ以上の悪化を阻止した」に過ぎない。これから何ができるかは未だ模索中である。

空想主義の旗の下に

 15年間の非常事態が、今ようやく終わりを告げたことを実感している。私はこの15年間、より正確には空0年(西暦2019年)から遡ること10年間、「内発的ストレスによる行動不能」という非常事態の中にあった。この5年間は実社会での活動を最低限に抑え、私の人生を「正道」へと回帰させることに専念してきたが、それがついに成し遂げられたのである。

 「正道」とは、外発的ではなく内発的な動機に基づき、私の願望を科学的事実と普遍的正義の下に実現させていくことである。私の願望とは、端的に言えば私の趣味活動の持続であり、そのための自由・平和・繁栄のある社会を維持・拡大・発展させることである。そのような活動を展開するためには、とにもかくにも内発的ストレスを低減し、行動不能状態を終わらせることが必要だった。

 そもそもなぜ、私は行動不能に陥ったのか。要因は様々であるが、内発的かつ根本的な要因を挙げれば、私の人生の中核たる趣味が「鉄道趣味」であることを挙げざるを得ない。鉄道趣味は多様な分野に接続可能な趣味である(※1)。そのため宿命的に1人の人間でありながら興味関心が多岐に渡ることになったが故に、活動は分散的にならざるを得ず、一方で私は多様な活動を複数同時に展開できるほど器用でもなく、根本的にリソースが少ないため、そのリソースを奪い合う形で私の内に内戦が勃発してしまったのである。

 

※1 だからこそ、その多様さを理解しきれず、己の見解に閉じこもり、己の偏見に居直る者もまた多いのである

 

 それは私としても全く不本意な状態であった。そもそも私が戦うべき相手は、私自身ではなく現実世界でありこの実社会である。私の趣味を通し、趣味を活用し、今を共に生きる人々と協力し、この社会が直面する様々な課題を解決していくことこそが、まさに私の人生の「正道」であるはずである。たとえ実際には誰とも協力できなかったとしても、何の課題も解決できなかったとしても、少なくとも私の命ある限りは趣味活動に邁進することこそが、私の人生の「正道」であるはずである。それを取り戻すべく、私はこの5年間社会的活動をあえて最小限に抑え、まず第一に自己満足で良いから趣味に邁進できる状態となること、第二にそれを前提として社会的活動を展開できる状態になることを目指し、人生再興に専念してきた。そして内発的ストレスの低減、趣味活動の再編、空想主義思想の編纂と空想委員会の官僚制組織化を通し、今私はついに第一段階を完了し、第二段階の入り口に立ったわけである。

 

 10年も続いた内戦を終わらせ、私の全てを調停し、対立ではなく協力関係を築き上げるためには、根源的な糾合点として「空想主義思想」を明らかにし、そしてその実行機関として「空想委員会」を築き上げることが必要であった。実際には空想委員会の方が先に存在し、「現実からの解放」を合言葉としてこの5年間の活動を展開してきたわけであるが、この春から夏にかけて空想主義思想が明らかになったことにより、この15年の非常事態を終わらせることになったことは、まさに空想主義思想の重要性を表している。

 空想主義思想とは、多様かつ分散的な私の糾合点として、私の認識と願望を前提としつつ自己批判の視点を常に持つことにより、科学的事実と普遍的正義の下に社会的活動を展開していくことを目的として、私の内に「発見」されたものである。この思想は人間社会に対する私の主観的な認識や分析を総合したものであり、

人間の主観的認識は、その人物の欲望の投影に過ぎない

という、私が高校2年のときにたどり着いた結論を出発点としている。私はこの見解にたどり着いたとき、

現実は虚構である

という言葉でこの認識を表し、そしてだからこそ人々は決して相互理解には至らず、この世は無限の対立と無意味な闘争が続くだけであることを悟り、私はついに自殺願望を抱くまでになった。空想主義思想とはそれに続く形で科学的事実と普遍的正義の下に「ファクトの希望」を見出すものであり、主観的認識(=現実世界)が欲望の投影に過ぎないことを前提としつつもそれを乗り越え、またはそれを活かすことを模索するものである。具体的にどうするのか、ということは私自身が模索している面が多く、その模索が終わることは無いだろうが、現時点でできることは自己の主観的認識が科学的事実から著しく乖離している可能性が常にあることを認め、自由主義リベラリズム)の精神に基づき自己批判の視点を常に持ち、全人類の対等性を前提とし、科学的事実と普遍的正義の下に社会を構築していくことを目指していくことであるだろう。

 

↑空想主義思想について「編纂」「発見」という言葉を使っているのは、元外交官の佐藤優氏がこの本の中で語っていることに合わせたものである。曰く「国体とはその国家の内に【発見】するしかないもの」ということであり、佐藤氏が「国体の本義」の中に日本国の神髄を見出したように、私も私の内に空想主義思想を「発見」したというわけである

 

 空想主義思想が明らかになったことにより、空想委員会はその実行機関となった。現在の空想委員会の存在意義は、空想主義思想の下、「現実からの解放」を継続的な目標として、私の趣味活動を安定的に遂行しつつ社会活動をも実行していくために、私のリソースを分配し、また増大させることにある。現在は現時点における近畿(京都府南丹市八木)での拠点を使用できるのが11月末までとなったこともあり、近畿地方、特に南丹地域での乗合交通巡りを推進し、また「艦これ」の遂行も推進しつつ、財政状況の改善と実社会での活動拡大を模索している。そしてそれらの活動をより安定的に推進するため、この公開ブログについても改めて活用することとなった。

 そもそもこの公開ブログ、そして私のSNSアカウントについては、この人生再興の5年間については「橋頭保」としての役割を担ってきたものである。つまりはある程度の発信を行いながら他の人々の言動の閲覧をしていくことにより、私の「今後の身の振り」を模索してきたのである。そしてそれについては空想主義思想が明らかとなったことにより、その役割は終わったと言える。正直なところコメント欄を閉じているこの公開ブログはともかく、SNSアカウントについてはストレス源になっていたことも否めず、ここしばらくは旅の実況すらも取りやめとして実質的に運用を休止してきたものであるが、今後は主にこの公開ブログを私の知的活動の核としていきたいと思う。空想主義思想の下、空想委員会による選択の結果、私という人間が具体的に何を成し遂げ、何を考え、何を知り、そして何について未だ無知であるのか。このブログはそれを明らかにしていくことになるだろう。

 

↑例えば「国土利用と地方創生」シリーズについては、このような学術的研究と見解の対立を踏まえた上で書くべきであった、と今思っているところである。ただこのような、「私が何について無知であるのか」という点については一度まとめてみないと案外わからないものであり、それを知ることができた時点でこの公開ブログにも存在意義があったというものである。

 

 とはいえ、インターネットはあくまでも実社会のバックグラウンドであり、実社会での活動を支援していくものである。今後私は「全国乗合交通巡り」を主軸にフィジカルな実社会での活動を拡大していくつもりである。それは既に始めているものもあればこれから始めようと思っているものもあるが、いずれにせよそれらが軌道に乗ったとき、私の人生は完全に私が目指したものになるわけである。

国土利用と地方創生(4) 地域間公平性はいかなる水準において確保されるべきか

kazetosoratokumo.hateblo.jp

 

 前回の記事を公開したことにより、とりあえず私がこのブログでやりたかったことは一区切りついた感がある。もちろん書きたいことはまだあるが、そもそも私の趣味の中核たる鉄道は結局のところケースバイケースとしか言いようのない代物であり、端的に言って東京と北海道では必要なものも取るべき政策も何もかも違うし、北海道の中でも札幌と根室ではやはり違うし、たとえ同じ人口密度・同じだけの交通流動のある区間でも他の路線・他の政策との兼ね合いで違う答えが出て当然である。その他の比較においても、例えばバスと鉄道では交通体系上担う役割もコスト構造も違い、また新線建設と赤字路線の補填でも意味合いが全く違ってくる。私はこれでも住む市町村によって生活水準に著しい差が出るのは問題だと思っており、実際私の生活の中においても名古屋市京都市の違いだとか、亀岡市南丹市の違いだとかは批判的に見ているが、さりとて東海道筋には新幹線があるのに○○には新幹線がないのは差別だとか、「○○にはx億円投じられているのに××にはy円しか投じられていない」とか言われても私は基本的に賛同することはできない。そのような比較言説は結局は「足の引っ張り合い」でしかなく、また一般に”優遇されている”とされる方は何らかの理由により一見すると優遇されているようにも見えなくもないような公的支出のなされ方がされている例が結局は多いのであり、さらに言えばそれらは必要性が高い一方で膨大な予算も必要とするため他の政策に比べれば”優遇”されていてもなお実際のところは不足しているという場合も多いのであり、結局は”優遇”を批判した方に分の悪い戦いになってしまうものである。「人を呪わば穴二つ」とはまさにこのことで、他人の足を引っ張るような言説は結局自己に破滅をもたらすのであり、結局自己の望む政策を実現するには足を引っ張るのではなく、他と相補的に高めあうような論を展開した方が良いだろう。これは他人を批判するなだとか、そういう話とは違う話だと認識している。また一方で生活水準の差に著しい差が出るのは問題だとも思っているため、生活交通の維持のような基礎的な政策において「地元の努力」だとか、「自治体の独自予算による独自政策」のようなものを過度に賞賛することもできず、非常に地域的・局地的な事例を除いてはそれはむしろ全国レベルでの政策に穴があるのだというような方向で捉えざるを得ない。

 

 ところで私は何度も言及しているように立憲支持者であり、それはつまり旧社会党の系譜を受け継ぎ、比較的分配政策の推進も支持する立場だということだ。だからこそ公平性の問題には敏感にならざるを得ない。ただここまで述べてきたように地域間公平性を振りかざして中央新幹線をこき下ろしつつド田舎に新幹線を走らせるような言説にはさっぱり賛同することはできず、それはむしろ地方創生や様々な社会問題解決の足を引っ張るものだとさえ考えている。またこの私は目立った専門分野を持たない代わりに多様な学問をわずかにかじった経験はあり(※1)、経済学・財政学もその入り口の門の前くらいには立ったことがあるため、現在の経済学の主流である新古典派の見解についてもある程度はその妥当性を認めており、たとえば公的支出の方向性として出血を止めるような政策よりもパイを拡大するような政策を重視すべきだというような言説にもある程度までは賛同している(※2)。

 

※1 そのため学術的な話については様々な分野において、「過度な期待をすると失望するが、無知だと思ってバカにすると火傷する」くらいの存在ではあるかと思う

※2 たとえばTwitterリスト6番でフォローしているデービッド・アトキンソン氏についても高く評価している。こなたま氏等が度々批判を挑んでおられるが、批判者の方に対してまず経済学を学ぶべきだと思わされることが多い。ただ新古典派経済学はかつてのマルクス経済学と近代経済学の対立のような真っ向から対抗できる主要な学説は特にない一方で、その批判的見直しは世界中の経済学者によって試みられており、MMT論者叩きに見られるような現在の学説を絶対化して振りかざすようなやり方はいずれ足元をすくわれるだろう、とも思っている。

 

↑分配政策を重視すればこそ、このような事実は直視すべきである。交通分野は社会保障と生産性的支出のどちらともいえるが、一般に赤字路線への補填は社会保障的側面が強く、一方で新線建設は生産性的支出としての側面が強いのであり、そして社会保障への過度な支出は経済の過度な萎縮を招くのだ

 

 果たして国土政策・交通政策における「公平性」とは何か。「国土の均衡ある発展」とは実際のところいかなる均衡を目指すべきなのだろうか。それは「国土利用と地方創生」の(1)に戻ることになるが、物理的なものではなく実質的側面において追求されるべきだ、ということになるだろう。たとえば「自家用車に乗らずとも生活できる」「自家用車に乗るという選択肢も認められる」は、国土のいかなる場所でも自由に選択できて然るべきであり、行政の責任においてその自由が確保できない場所においては住居の建築確認申請を受理しないというようなやり方もあって然るべきだろう。一方で自家用車に乗らずに生活することを選択された方々が乗る乗り物は、場所によっては鉄道になり、それがバスになったりライドシェアになったりあるいは船になったりすることもありうるだろうが、運行頻度・運賃・乗り心地(※3)の面を含むある程度の利便性が確保されるのならばいかなる乗り物でも可とすべきであり、何としても新幹線でなければまかりならぬというような話はまともに取り合うべきではない。

 

※3 乗り心地は現在政策的に重視する見解を全くと言って良いほど見かけないが、これも本来は非常に重要な要素であるはずである。たとえば現在主流のノンステップバスはおおむね30分程度の都市型路線においてはさほど問題なく乗車できるが、より長距離の路線においてはもっと長距離利用に適した車両とするべきであるだろう

 

kazetosoratokumo.hateblo.jp

 

 これも過去の記事に戻る話だが、国土の均衡ある発展や地域間公平性は従来あまりにも物理的側面を重視しすぎたが故に、実質的には失敗したと言わざるを得ない状況に追い込まれているのだろう、と思う。これは国土政策・交通政策に限らず社会の様々な問題に対して言えることであるが、今後は物理的・形式的なものを目指すのではなく、より実質的な方向を目指す政策にシフトすべきである。現在の国政政党の中でこのような話が最も通りやすいのはやはり立憲民主党であるだろうと思われ、だからこそ私は立憲支持者をやっているわけである。