今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

旅客幹線鉄道整備から考える平成改革とこれから

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscejipm/71/5/71_I_629/_pdf/-char/ja

 

 大阪産業大学工学部都市創造工学科の波床正敏教授との出会いはもう15年ほども前、Google検索で「紀勢新幹線」と検索したらブログ「鉄道で国づくり」の前身「本気でCO2削減するならレイルウェイ」が出てきたことに始まる。そのときに進路を定めて猛勉強を開始するくらいの行動力が私にあれば私の人生も相当マシなものになったのだろうが、なぜかそうなることもなくたまにブログ記事を読んで満足するくらいの関係性を維持して今に至る。思うに私という人間は空1年(西暦2020年)に「現実からの解放」を掲げるまでは自説への拘泥があまりにも強すぎ、客観的な学術研究の場には特に趣味の中核たる鉄道の話においてはあまりにも適合的ではなさ過ぎたように思う。そうした性向が私の人生の迷走の要因ともなり、またこの私をして鉄道整備の工学的・定量的研究という方向性に行くことができなかったのは、いささか誇大的であることを承知で言わせてもらえれば私のみならず日本社会の最適な人員配置という意味においても大変不幸なことであったように思う。平成という時代には全く間に合わなかったが、今からでもこの遅れを少しでも取り戻し、せめてこれから始まるであろう、いや始まらなければならない日本社会の本格的改革にはほんのわずかでも貢献したいものである。

 

 冒頭の論文は波床教授の西暦2015年の論文であるが、この研究は西暦1990年以降の日本の旅客幹線鉄道整備が妥当なものであったかどうかを遺伝的アルゴリズムを用いて事後的に検証したというものである。この結果明らかになったのはこの間に推進された事業は必要なところに必要なものを作らず、不適当な場所に不適当なインフラを整備したということであり、まさに平成改革が確かに必要なものであったことを浮き彫りにするとともにそれが見事に失敗したこともまた浮き彫りにするものである。この研究はあくまでも西暦1990年当時の人口予測に基づくものであり、現在の状況とは相違するものであることには十二分に留意する必要があるが、とはいえここで示された高速鉄道網は現状からかけ離れたものであるばかりではなく、今まさに与党自民党を始めとする政治の場において議論されている方向性からも、またSNSなどで一般の人々が意見している方向性からもかけ離れたものであることに私は強い関心と問題意識を持たざるを得ない。すなわち日本は単に平成改革に失敗したのみならず、これからの社会運営のあるべき方向性からも明後日の方向を向いてしまっており、このままでは今後ますますこの国はあるべき方向から遠ざかり、没落の一途をたどっていくのではないかと思えてならない。

 

 この論文の結論によればフル規格新幹線とはあくまでも太平洋ベルトとその周辺に適合的なインフラであり、その一角をなす四国(瀬戸大橋区間)や場合によっては鳥取県内や小倉~大分と言った区間にも適合的である一方で現在現にフル規格新幹線が整備され営業運転を行っている岩手県盛岡市以北や長野県長野市新潟県上越市と言った区間には、実は適合的であるとは言い難いことが示されている。一方で中央新幹線については前提条件の相違により超電導リニアで整備すべき場合と従来型の鉄輪式で整備すべき場合とにはわかれるものの、いずれの前提条件においても全線フル規格で整備すべきである、ということになるわけである。そしてそれ以外の各地域においては、ミニ新幹線を含む在来線の高速化改良(時速160km/h以上)が妥当であるようである。

 これを読んで私が思ったのは旧国鉄官僚・角本良平氏の見解の妥当性である。角本氏は新幹線は地方開発的な目的ではなく本来の輸送力増強策としてのみ建設されるべきものであり、具体的には東海道筋に2本と首都圏通勤新幹線が必要なのであってそれ以外は建設すべきではないとしている。この見解は国鉄の自立経営の維持という側面から出されたものであり、当然のように地方開発的な方向性で主張する人々(多くの交通研究者・鉄道趣味者を含む)からは槍玉に挙がっているものであるが、私は事実として国鉄が多額の負債を抱え分割民営化という結末に至り、さらにその国鉄債務も未だ完済できていない状況を踏まえれば角本氏の見解も一理あるものだと以前より考えていた。今回の波床教授らの論文は、さすがに山陽新幹線上越新幹線まで建設すべきでなかったということにはならなかったものの、地域開発的側面を加味しても新幹線が妥当なのは太平洋ベルト周辺のみであり、その周囲にミニ新幹線を含むネットワークを形成すべきものであって、北日本などのへき地には別の交通整備事業又は振興策を用意すべきものであることを確認するものであり、角本氏の見解のある程度の妥当性を裏付けるものである。

 

「100km通勤が常識」になるはずだった? "限界状態"首都圏の救世主「通勤新幹線」6路線とは | 乗りものニュース

"TX級"高速新線があちこちに? 国鉄が何度も挑戦した「開発線」構想とは 「通勤新幹線」のなれの果て |

↑首都圏通勤新幹線については小久保せまき氏の記事の通りである

 

 思うに交通インフラ整備とは、強いリーダーシップが求められることも多い一方で全国一律での整備は妥当ではないものなのだろう。ごく最近のSNSにおいても、これからの時代に必要なのは鉄道か道路かみたいな論争(?)が見られるところであるが、実際にはこの春には根室本線富良野新得が廃止になった一方で北大阪急行箕面萱野まで延伸されたように、あるところでは鉄道が必要であり、またあるところでは不要(道路交通のみで良い)なものなのだ。自動車が発達し普及した現在においては、概ね自動車が満足に走行できる道路網が日本国憲法第25条に定める社会的生存権を充足するための最低限のインフラであり、これに加えて交通需要の大きいところでは鉄道がSDGsターゲット11.2を充足する「すべての人々に、安全かつ安価で容易に利用できる、持続可能な輸送システム」として整備されるべきものなのである。

 

sdgs-support.or.jp

 

 ではこのような、あるべき方向性のインフラ整備を推進していくにはどうすれば良いだろうか。それはやはり、トップダウンではなくボトムアップの国づくりをしていく必要があるように思う。そしてありもしない夢を追い続ける保守政党でもなく、革命ですべてを破壊しかねない左翼政党でもなく、自由・人権と持続可能性を本来価値とするリベラル政党が国政を担うべきなのである。アメリカ民主党を見ればわかるようにリベラル政党は今世界的に迷走とも言える状態にあることもまた事実ではあるが、とはいえこの理想に少しでも近づくべく、私は少なくとも当面の間の選挙においては立憲民主党に投票し続けることにしたい。そしてまたその一方で私自身虚妄ではなく事実を学び、繰り返される間違った啓蒙活動を批判し、この社会をあるべきものにしていく活動に微力ながら貢献していきたいと思う。

人生の回復

 3/28以降定時乗合交通の旅(全国乗合交通巡り 通称「のりのり旅」)をさらに加速させている。私自身会心の出来だったと思っているのは3/28の名古屋から京都への移動で、夕方から翌朝にかけて雨の予報だったため午前中から昼過ぎまで名古屋近辺でのりのり旅を行い、夕方発の高速バス(名神高速線)で京都に移動、翌朝から再び旅を開始するという、要は雨の時間をのりのり外の移動及びその他の時間に充て晴れている時間はすべてのりのり旅に費やすというプランを立てたわけである。結果として名古屋駅名神安八を走る高速バスに2度も乗ることになったが、天候の方は完全に狙い通りとなった。

 

↑28日の旅は拡充と模索が続く名古屋~海津の乗継連絡ルートを探る旅であった(事業件名「のりのりバス名古屋+海津」)。安八~平田支所を結ぶにしみのライナーリレーバスは残念ながら3/31を以て廃止となるが、代わって4/1からは現在実証運行中の海津市コミュニティバス海津津島線が土休日限定で平田支所まで延長運転されるようになる。運行日は減り輸送力も小さくはなるが、とはいえこの変更で新名神(E1A)が出来てなお渋滞続く名神(E1)東海区間の宿痾・一宮JCTを通らないルートとなり運賃も値下げとなるため改善であるとも言えるだろう。運行の継続・拡大に期待したい。

 

↑29日は西日本JRバス園福線へのお別れ乗車と、福知山~綾部~草山温泉~丹波篠山のローカル路線バス乗継ルート開拓を行い、最後は園福線の元々の「本線区間」であり西暦2002年に一足早くJRバスが撤退した園篠線ルートで帰宅する旅とした(事業件名「のりのりバス南丹+園福線」)。

 

↑両者を結ぶのが日本の都市間高速バスの先駆け「名神高速線」である。私の鉄道趣味の原点が中央本線ならバス趣味の原点は名古屋市営バス基幹1系統と名神高速線であり、この路線は何度乗っても飽きることはない

 

 さらに今日、3/30も朝から小浜方面に出かけていた。明日もできることならば出かけたいと思う。もう完全に狂気である。だがそれもやむを得ないだろう。なぜならばこの狂気は、私がずっと求めていたものだったからだ。

 

↑30日は31日まで実証運行中の若狭メモリーライナーと京都交通舞鶴地区各線を乗り継ぎ、バスだけで敦賀→大江(京都丹後鉄道宮福線)を移動するという旅であった。全体的な目的としては小浜線を補完するバスに乗車する、というものであり、また京都交通大江線についてはかつて阪鶴鉄道・北丹鉄道が結ぼうとした由良川に沿って舞鶴宮津)~福知山を結ぶルートを偲ぶという意味も込めた(事業件名「のりのりJR+若狭」)。

 

 西暦2019年(空0年)からの私は人生の回復・再興に注力してきたわけであるが、その結果実現するものは他者から見れば狂気と呼ぶより他ないものになるだろう、という漠然とした予感はかなり前からあったように思う。いつかどこかで書いたと思うが、全国乗合交通巡りを「のりのり旅」と称しているのはただ乗るだけではなく、気の狂うほどに乗るという意味を込めたものであり、そしてこの名前は西暦2019年(空0年)の人生再興開始当初より使用されているのである。つまり遅くともその頃にはもう今後は狂気で行くのだ、という考えがどこかにあったということである。

 私の人生が本当の人生ではない、という漠然とした思いは中学2年だった西暦2009年頃には既にあったが、人生再興までの人生において何が足りなかったかと言えばやはり狂気であるだろう、と今は思う。私の人生にはあまりにも狂気が少なすぎたのだ。その背景には時代的背景の存在も指摘しなければならないだろう。私は平成という時代は日本の絶頂期であると同時に停滞した時代であり失敗した時代だったと思っているが、あの時代に何が足りなかったかと言えばやはり狂気であるように思う。バブルという経済学的には異常事態としか言いようのない時代を日本の二度と戻らない絶頂期であると捉え、その崩壊(=経済機構の正常化)を衰退だと思い込み、バブル以前の高度成長の回復かもしくは衰退の受容かというどちらも過ちとしか言いようのない幻想に政治が振り回され、ありもしないものを追い求めた結果あるべき改革が行われず結果として日本を衰退の道へと追いやったあの時代。あのまさに最高と最悪が共存した時代において、こと迫害を受けたのが「狂気」という概念であったように思う。あの時代の日本に蔓延っていたものは

「この国を間違った方向へ推し進める【悪い奴ら】を排除し、合理的で客観的で正しい俺らにみんなが盲従すれば世の中は良くなるんだ」

という幻想だろう。そこに産まれてしまった私を含むあの時代の子ども達は、とにかく権威に服従することを期待され、強要されていたように思う。自発的な創意工夫は「余計なこと」であり、余計なことを考えずに教師の提示した正しい行動に盲従すること。あの時代の家庭を含む教育現場が成文化された教育政策とは無関係に集合的無意識のうちに推進していたものは概ねそのようなものだったように思う。それで現に世の中が貧しければ子どもの側に反骨精神が芽生えることもあっただろうが、あの当時はGDP世界第2位の紛れもない経済大国であったわけであり、そのような豊かさの中では反骨精神など芽生えようもなかった。結果として世の中全体が無思考・無批判・権威主義の方向へと突き進み、日本は滅びへの道を歩み始めることとなったわけである。私もその時代の空気に飲まれていたし、あれはもう飲まれるしかないものだったとも思うが、とはいえ結果として日本も私も停滞していたのは全くの事実であるだろう。

 狂気とはダイナミズムである。何事かを極めるということはすべからく狂気の沙汰なのであり、狂気の沙汰こそが世の原動力となるのだ。前の段落ではああは言ったが、とはいえいつの世であったとしても上手く人生を乗りこなす者達はその狂気を上手く使いこなしているのだろう。あいにく私はそこまで器用ではない。器用ではないが、一方で「やりたいことを、いかなる困難を乗り越えてでも実行する」という点においては私にも秀でたところがあるかと思う。確か私は9月辺りにTwitterで「半年くらい旅に出たい」だの「これからは死ぬほど乗ってやるんだ」だと言ったように思うが、あれを見た人々にはどこまで本気かわからなかったかと思うものの、私自身はかなり本気だったのである。その結果が今である。もはや私の人生史においては不可能にひざを折るフェーズは終わり、不可能を可能とするフェーズに入ったように思う。この流れは止まることはないだろう。

 

 翻って日本を見れば、この国も令和の世となってまた動き始めたように思う。それも当然だろう。本来国家とは動き続けるものであり、停滞した平成時代こそがおかしな時代だったのだ。まずはこの30年の停滞の清算をしなければならない。そして次こそ虚妄ではなく事実を学び、あるべき改革を成し遂げなければならないのだ。

 

 それにしても今のフォロワー諸氏は今のこの私をどう思っているのだろう。これから私はますます狂気の存在となっていくかと思うが、それに口を出したくなるような人々は私のアカウントなど覗いていないだろうとも思っている。ただ見守って下されば幸いである。

世界観を作り直す(2)

 前回の記事はどうも取っ散らかった内容になってしまった(※0)。なぜならばあの記事は私の思考を整理した結果それを他者に提示するために書いているのではなく、記事を書くことによって私の思考を整理する、というものだからである。それはこの公開ブログのすべての記事、Twitterのすべてのツイートも同じなのであるが、ただ流石に「世界観を作り直す」などという大きな目標となると従来の方法には限界があったようだ。

 

 ただ、ブログの目的は変わっていないため今回以降もこのまま継続することにする。

 

※0 たとえば私は高校では世界史を選択したような人間であり、シュメール人都市国家が世界最古の都市国家である、などというのは別に「国土学再考」を見ずとも当たり前の話なのであるが、そこで無理矢理「国土学再考」と絡めたためにあたかもそれを見なければそんなことも知らなかったかのような書き方になってしまった。「世界史の窓」を参照したのもあくまでも確認のためである。

 

1

 

 そもそもなぜ私が世界観を再構築しなければならないのか。そしてそこになぜ国土学が絡むのか。

 それは「鉄道趣味者としての私」と「社会人としての私」に折り合いをつけるためである。私はどこまで行っても鉄道趣味から離れることはできない(※1)。当然それは社会人としての私の在り方にも強く影響する。それは良いとしても、しかし私は同時に日本の主権者でもあるわけであり、この国の政策を注視し、その在り方を私自身も考えていくのは国民としての義務である。そしてその場においても鉄道最優先を貫き続けることはできないし、やるべきことでもない。

 それは鉄道のためでもあるのである。鉄道は交通機関であり、その繁栄のためには当然人々に支持され、利用される必要がある。社会は否応なく変化し、それは鉄道にとって追い風にもなれば向かい風にもなるが、だからこそ追い風を活かし向かい風に立ち向かえるようでなければ、たとえ鉄道路線自体は残ったとしても人々から支持されなくなってしまうし、支持されなくなっても無理に残したり支持され続けるよう無理に社会構造をモータリゼーション前の状態で温存しようとしたりすれば、当然他の場所において別の問題を発生させることになる。そしてそれは鉄道の進歩を止めることにもなるのだ。

 

※1 最近は乗りバス旅にも精を出しているが、ただこれでも私の趣味の基軸はあくまでも鉄道であるつもりである。たとえば京都市内の路線バスは京都市営バスよりも近鉄グループと京阪グループを優先しており、近鉄グループ京都市内に持っている路線バス(近鉄バス奈良交通向島線)は空2年(西暦2022年)に早々と乗ってしまったため現在は京都バス・京阪京都交通を含む京阪グループの各線に乗っているわけであるが、これらを優先しているのはまさにこれらの各社が鉄道事業者の系列であるからであり、さらにその中でも鉄道網を補完する路線に最優先で乗っているつもりである。

 

 「鉄道趣味者としての私」が鉄道に対するスタンスとして守りたいと思うものは、「鉄道の進歩を促進し、それを妨げないこと」である。私が好きな鉄道とは、進歩し続ける鉄道なのだ。おそらく私は日本の鉄道が未だに蒸気機関車を使い、「鉄道黄金期」の面影を色濃く残す一方で人々からは交通手段として見向きもされない前時代的な代物であれば、鉄道趣味者になることはなかっただろう。私の趣味の原点は鶴舞駅を通る中央本線である。毎時5分に通過していく長野行き特急「しなの」、名古屋都市圏では最長の編成長を誇る普通列車、春日井・多治見に行くコンテナ貨物列車と南松本行きの石油貨物列車、それらが「現に利用されている」という状態が私の趣味の原点であり、私が趣味者として鉄道に求めるのはその方向での発展である。別に保存鉄道がこの世のどこかに走っているのは一向に構わないし機会があれば私も乗りに行きたいところであるが、ただすべてが保存鉄道になってしまったら私の関心は大きく削がれることになるだろう。まただからこそ”鉄道は単なる交通機関ではない”的な言説には違和感しかない。むしろ単なる交通機関として、人々に当たり前に利用される存在であってこそ鉄道は私の趣味の対象になり得るのである。それには当然、時代に合わせた変化が必要なのであり、私は趣味者としてその変化を追いたいと思うものである。

 

↑三崎亜紀の小説「只見通観株式会社」は通勤用観覧車という特殊な鉄道を運行するとある事業者を追ったものであるが、そこにはその社長のセリフとして「路肩の石のように気に留められない存在になりたい」という言葉が出てくる。これは鉄道の理想であるだろう。

 

 その上に日本の政策を審判しその在り方を決める主権者の1人としての「社会人としての私」が築かれるわけであるが、そこに国土学が絡んでくるのである。

 

2

 

 路肩の石のように、とはいっても、事実として鉄道は巨大な装置産業であり、本当に路肩の石のようにただ転がることはできない。社会による支援が必要であり、その上で鉄道の進歩を促していくともなれば、当然のように公共事業を推進する立場、ということになる。

 とはいえ、当たり前だが公共事業は無限にできるわけではないし、こちらもまたやるべきものでもない。鉄道を維持するために税金が際限なく上がったり、非効率な社会構造を温存することにより経済機構にゆがみが生じたりすれば、当然その負の影響は私の生活にも跳ね返ってくる。そこで社会人としての私はどうしても経済効率を重視しなければならなくなる。その上で必要な公共事業を、ということになるわけであるが、当然その「必要な公共事業」は往々にして鉄道に並行する幹線道路の建設であり、鉄道の競争力を削ぐものでもある、ということもあるわけである。それは費用対効果分析において正便益が出るか否かで判断すれば良いとしても、そもそも根本的に支出全体から見たときにどのくらいの割合を公共事業に回すか、ということも重要な論点となる(※2)。そこで登場するのが、国土学の視点である。

 

※2 たとえ費用対効果分析において正便益が出たとしても、実際にそこに割かれる予算がなければ事業は進まないため。実際事業着手したにも関わらず一向に竣工しない公共事業は予算が制約条件となっていることも多い。さらには費用対効果分析では正便益が出ているにもかかわらず政治の後押しがないが故に止まっている事業も存在する。具体的には大阪市高速電気軌道長堀鶴見緑地線の鶴町延伸や高松空港鉄道など。北陸新幹線敦賀~新大阪も、費用対効果分析では米原ルートが最高値と出たにも関わらず政治力で京都小浜ルートとなった経緯がある。私としてはかつて民主党が掲げた「コンクリートから人へ」とはまさにこのような費用対効果の悪い事業から良い事業への予算の付け替えであるべきであったし、またJR東海が自己負担をしてでも作ろうとしている中央新幹線についてはJR東海に先駆けて民主党政権が公共事業として着手することで国がグリップを握るべきであったと思っている。

 

(続く)

→前回の記事は長さも無駄に長すぎた。私は旅もブログも労力を減らして数を増やしていきたいのである。

世界観を作り直す(1)

「人は事実なき生き物である」

 このフレーズは前回の記事にも現れたものであり、人生再興(空0年【西暦2019年】~)以後の私の世界認識の根源を形作るものである。

 だがそれは良いとしても、では我々が日々それを事実であると錯誤して認識している「現実」なるものは一体どこから出てきたのだろうか。私はそれは「欲望」から生じるものだろう、と思っている。世界はこうなっていてほしいと思う「欲望」が我らの現実を作り出すのだ。そこで「現実からの解放」を成し遂げるための一つの方法として、その抗体として己の欲望から解放された「世界観(物語)」を、あらかじめ脳内に構築しておく、という方法が一つ考えられる(※1)。

 

※1 これは公教育の根源的意義にも結び付いてくるだろう。日本国憲法第26条第2項に「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務」がなぜ明記されているのかと言えば、それはやはり人生の最初期において珍妙な世界観を構築してしまっては後々の人生に悪影響を及ぼすためである。残念ながら私が空想委員会などという組織を作り「現実からの解放」などということを言い出さなければならなくなった背景にはその普通教育(初等及び中等教育)の過程で受けた負の影響も多分に含まれるものであり、また今後は情報化の進展によって初等及び中等教育が人生に及ぼす影響は徐々に小さくなっていくものと思われるが。

 

 そこで今私が取り組んでいるのが「世界観の再構築」である。かつてTwitter旧アカウントにおいて、私がバイブルとして挙げたものが2つあった。1つは狸先生の「新しい新幹線路線の今がわかるページ」であり、もう一つは大石久和「国土学再考」(毎日新聞社、2009年)である。旧アカウントの時代には狸先生からの影響を存分に受けていたものであるが、決して狸先生は悪くないものの私の方が上手く使いこなせるだけのリテラシーを持ち合わせて居なかった。今の私は「国土学再考」の方を基礎として、世界観の再構築を試みている。

 

www.tanukiacademy.com

tanukiacademy.com

↑随分とさっぱりしたものだが、かつては狸先生の多方面にわたる分析・批評に満ち溢れていたものである。Twitterを始めてからは私の旧アカウントをフォローして下さったのも懐かしいが、しかしそれによってこちらのページの内容はかなり整理されてしまい、また先生ご自身もごく普通のTwitter知識人になってしまったというのが失礼を承知で申し上げる正直な感想である。

 

↑「国土学再考」は楽天市場への出品はないようであるから「事始め」の方を貼っておく。「再考」はAmazonには中古品が出品されている。

↑今から読むのなら中公新書もおすすめ。

 

 「国土学」とは今学際的分野として創設が目指されている学問分野であり、人類がこれまでに行ってきた「国土への働きかけ」を歴史的あるいは国際的に対比しながら考えてみよう、というものである。この分野は人口減少と都市一極集中、地球温暖化による異常気象の常態化が進む今の時代にあって特に求められるものであるだろう。当然交通の未来を考える上でも全く無視することのできないものであり、私が地理学的分野にも広く関心を持たざるを得ないのは方面からの影響もその背景にあるのである。

 

https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t250-7.pdf

↑西暦2017年には日本学術会議による提言の取り纏めも行われている

 

 「国土学再考」が西暦2009年に出版された背景にあるのは、あの当時に吹き荒れていた行革ブーム・平成改革ブームの嵐の下、特に公共事業が「無駄なもの」として殊更に槍玉に挙げられていたことが挙げられるだろう。実際「コンクリートから人へ」を掲げて民主党が政権与党の座に就いたのがまさにこの西暦2009年である。今では立憲民主党支持者をやっている私であるが、あの政権交代時の民主党のマニュフェストは全くおかしなもの、出鱈目なものだとしか思えなかった。私がこのマニュフェストを読んだのは政権交代選挙の直前であるが、これが今度の選挙で政権与党になろうとしている政党の公約であるとは、はっきり言って日本の大人はバカだらけなのではないかと、当時中学2年だった私は真剣に思ったことを鮮明に記憶している。それが空想委員会を発足させるきっかけの1つにもなったのである。そしてそれから15年の年月が経ったわけであるが、その中で私が学び経験したことを総合すれば、結局2009年に私が思ったことは全くの事実であったと、そう結論付けざるを得ないというのが私の結論である。ただ今では私もそのうちの1人に加わった「日本の大人達」の名誉のために言っておけば、決して日本の大人達が世界的に見て特段にバカなのではなく、そもそも人類そのものが事実なき生き物なのであり、全世界で人類は極めて頓珍漢なことばかりやっているものであり、相対的に見れば日本は相当まともな方の国である。ただそれはあくまでも相対的なものでしかない、というところは強く釘を刺しておきたいところであるが(※2)。

 

※2 ただ様々な不満点はあれど私が日本から出ていかないのは、相対的に見て日本という国は他国と比べれば相当まともな方であり、「現実からの解放」にも比較的近いところに居ると評価しているから、というところももちろんある。

 

http://archive.dpj.or.jp/special/manifesto2009/pdf/manifesto_2009.pdf

 

 このマニュフェストの特徴は何と言っても「負担軽減ばかりをうたっており、様々な政策を実現すれば当然発生するであろう費用負担については【埋蔵金の活用】等曖昧に済まされている」、というところだ。たとえば交通分野では高速道路無料化とガソリン税減税が目に付くところであるが、その財源はどこから持ってくるのだろうか。前者は2.5兆円、後者は1.3兆円を要するとされているが、合計で3.8兆円にもなるこの政策を賄える財源になりそうなものは庁費等・委託費・施設費・補助金の見直しで得られるとされる6.1兆円と、「埋蔵金」の活用で得られるとされる4.3兆円の2つしかない。この2つはそれほど継続的かつ大量の財源として期待できるものなのだろうか。さらに言えば4ページにおいて埋蔵金のすぐ下に記載されている「政府資産の計画的売却」(0.7兆円)は明らかに一過性の財源でしかなく、継続性には全く乏しいものである。平成25年度に実現するとされている16.8兆円の財源確保はその一過性の財源も含んだものであり、一方で所要額の方の16.8兆円は明らかにそれ以降毎年かかることになる支出である。一体このギャップはどう埋め合わせるつもりなのだろうか。今見ても不思議である。

 また公共事業については川辺川ダム・八ッ場ダムについては「中止」と明記されているものの、道路整備については「費用対効果を厳密にチェックしたうえで、必要な道路を造る」とされており、これ自体は至極真っ当なことであると言えるが、ただ費用対効果分析は自民党政権下でも行われており、それをどう変更するというのだろうか。そしてまた気になるのは高速道路無料化・ガソリン税減税は必然的に交通分担率における自動車の増大を招くことになるが、その弊害はどう埋め合わせるのだろうか。何も対策をしなければたとえば地球温暖化対策には明らかに負の影響をもたらすことになるが、そちらの方では環境対応車の購入補助を進めるとされているものの、それでどこまでの対策効果が見込めるものだろうか。世界で取り組まれている乗合交通の利用促進とは異なる方向を向いているのは一体なぜなのだろうか。疑問は尽きない。

 

 交通の話で言えば面白いのは、民主党自民党より左派であるとされているものの、世界的に見れば左派が進めるとされる乗合交通の整備推進とは違う方向を向いていることだ。もちろん日本の左派がすべて乗合交通に不熱心かと言えばそんなことはなく、たとえば辻元清美氏が国交副大臣に就いたときの会見では乗合交通(公共交通)にも割と熱を込めて触れられている。

www.mlit.go.jp

 ただ全般的に見れば、日本左翼は乗合交通の整備には不熱心であると言わざるを得ない。そればかりか彼らは時代の変化にもかかわらず、乗合交通については旧態依然のままでの維持存続を主張する傾向にある。これは民主党よりも日本共産党においてより顕著であり、彼らは整備新幹線や宇都宮LRTの建設には反対する一方でそれらよりも明らかに需要量が低く社会的役割を期待し得ないローカル線については現状のままでの存続を主張する。そしてそのローカル線である近江鉄道の存廃問題を契機として、まさにそのローカル線を維持するための財源として滋賀県が導入を検討している交通税の創設にも彼らは反対しているのだ。一体彼らの論理構造はどうなっているのだろうか。私自身立憲民主党支持者として、安倍政権下では(これでも)日本共産党を含む野党共闘を支持した者として日本左翼を観測した結果から言わせていただくと、日本左翼には「原理主義者」が多いと感じる。たとえば車趣味者なら交通手段は自家用車さえあれば良いのだと言い放つ「車原理主義者」に、鉄道趣味者(→左翼には懐古趣味者が多い)ならどんなに利用の少ないローカル線でも無限に予算を投入すべきであるとする「鉄道原理主義者」になってしまうのである。そして彼らの一致点は「弱者の救済」であり、そしてその弱者には「時代に取り残された人々」が多分に含まれるが故に、まさに時代に取り残された人々が使うであろう交通機関の維持存続を目指すという点では良くも悪くも一致してしまうのである。またもう一つ挙げられることとしては、今の日本左翼は日本において左翼勢力が幅を利かせた1980年代の「動態保存」のような状態にもなっており、あの時代に肯定的に喧伝された「より良い未来」を、それからの時代の変化にもかかわらずほぼ再検証もすることのないままに今なお実現させようとあがいているのである。この傾向も鉄道政策へのスタンスに如実に表れており、だからこそ彼らにとって「より良い未来・輝かしい未来」を担うのは自家用車と飛行機なのであり、鉄道は時代遅れで終わりゆく乗り物なのであるからそれに投資するなどという「退廃的なこと」は決して認められてはならないのであり、しかしローカル線は高校生と高齢者という社会的弱者の足であるからそれを守れ、ということになるわけである。この発想で超電導リニア新幹線まで語っているのが日本左翼の現状であり、世界的な再整備の流れも知らなければローカル線は高校生も高齢者も居なくなって運ぶもの自体が消滅しつつあることも知らないのではないか(※2.5)と思わずにはいられない。

 

※2.5 さすがにインターネットをやっているような人々はある程度はアップデートされてはいるが、しかしそのアップデートの方法がまた恣意的なのだ。この辺りの本質は(ネット)右翼も陰謀論者も変わらない。結局ネットの世界においても左派が知識人面をしていられるのは学者・研究者も多く専門分野とその周辺分野ではある程度確かなことを語ることができるからでしかなく、その点を含め左派であれ何であれどの陣営も本質的には何も変わらないと思わざるを得ない。全体的なバランスにおいて最もマシなのは左派が”ほんのりウヨ”と称する穏健自民党支持層だろう。

 

 私自身政治的には左派ではあるが、しかしこのような日本左翼の明後日の方向への過激さと前時代性は強く認識しており、だからこそ私は日本の”右傾化”や自民党の支持率の高さが必ずしも愚かなこと、批判すべきことだとは思っていない。ではなぜ私が立憲民主党支持者をやっているのか、私自身不思議に思えても来るのであるが、それもそれで様々な事情があるのだと今は言葉を濁しておく(※3)。

 

※3 その点については多分この記事を読めば朧げに見えてくるはずである。そしてこれはまた朧げにしか語ることのできないものでもある。

 

 ここまで長々と書いてきたのはこの記事の目的が国土学についての解説ではなく私の世界観の再構築であるからであり、それは今後も変わらないことは今更ながらお断りしておきたい。ただそろそろ国土学の話というか、民主党を引き合いにして進めたかった公共事業の話を始めようかと思う。

 私はどんな事業であれ費用対効果分析において正便益が出た事業は推進すべきである、というのが基本的な立場であり、また日本においては土地所有の問題等により社会的に公共事業が進めにくくなっている側面もあるため、その点についてはある程度人々の自由を制約してでも公共事業を進めやすい法整備を行うことも検討すべきであると考えている。基本的人権には自由権社会権があるわけであるが、私は文明の成熟した先進国においては、自由権よりも社会権を重視すべきであると考えている。

 なぜ社会権なのか。それは文明というものが、国家というものがいかにして発生し必要とされているかを見れば明らかである、というのが私の考えである。トマス・ホッブズは「リヴァイアサン」の中で人類は万人の万人に対する闘争を終わらせるために暴力を独占した「国家」を形成したのであるとしているが、社会を考える上で重要なのは都市国家の歴史(≒都市の歴史)であるだろう。「国土学再考」によれば、人類最初の都市国家は5500年前にシュメール人が築いたものだったということである。シュメール文明はチグリス川とユーフラテス川に挟まれた河口地帯、今のイラク南部で発生した文明であるが、この地域は肥沃な平原が広がる土地柄であったが故に、農耕には適している一方で他民族の侵入も受けやすいところだった。そのためシュメール人が築いた人類最初の都市国家は、人類最初でありながら既に外敵の侵入を防ぐための城壁に囲まれたものだったのである。それを見ればホッブズの論も全くの空想とも言えないだろう、と思えてならなくなってくる。

 

 

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↑念のため歴史学の研究も参照するため「世界史の窓」も参照したが、確かに都市国家は紀元前3000年紀のシュメール人の都市が最初であるとされているとのことである。

 

 つまり都市、そして国家というものは、人々が団結して外敵の侵入を防ぎ、生存権を確保することをその起源とするものなのである。そのために現在においても国家は軍隊を持ち、安全保障上極めて重要な役割を果たしているのである。もちろん現在においては都市が物理的な城壁に囲まれることはなくなった。また現在でも世界各地で戦争が起きているとはいえ、歴史的に見れば戦争は減少傾向にある。とはいえ都市と国家の役割が衰えることがないのは、文明の進歩により「生存する」ということへの要求水準が高まる一方だからである。シュメール人都市国家を築いた時代においては、「生存する」ということはただ生きることと同義であっただろう。しかし現在においてはそういうわけにはいかない。生存権日本国憲法においても第25条で規定されているが、それは「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とされており、またそれを実現するために「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」ともされている。つまりただ呼吸をしているだけではもはや生存権を担保されているとは言えず、真っ当な医療や福祉が受けられてはじめて生存権が担保されていると言えるのである。これはつまり都市及び国家が戦う相手が他の人類のみならず、経済危機や各種の病気、自然環境にも拡大されたことを意味する。我らの今日の暮らしはこのようにして確保されたものなのである。

 この生存権に対する要求水準の高まりは、一方で各種のコスト増大をも必然的にもたらすものである。たとえば人がどんな時でも円滑に医療を受けられるようにするためには、自宅から医療施設まで通院することができ、いざという時には救急車が走ることができる道路が必要である。人々が全くバラバラに居住していたのでは、その道路を建設し維持するだけでも膨大なコストがかかってしまう。そのコストを軽減するためには、やはり都市への集住が効果的であると言える。もちろん都市というものは一方で集住に伴う様々な問題を抱えた存在であり、その解消のために都市に対する批判も根強くあるが(※4)、とはいえ人類は都市を築くよりさらに以前から群れを成して生きてきた生き物であり、様々な困難を乗り越えながら都市を築きそこに居住してきた歴史があり、そして現代においては都市問題は少なくとも日々の居住という観点で見ればかなり解消されてきたものであり、今後もこの傾向は止まることはなく止めるべきでもないだろう。

 

※4 反都市政策を強硬に推し進めた例としてはカンボジアにおけるポル=ポト政権の事例が挙げられる。原始共産制への回帰を掲げた同政権は首都プノンペンを始めとする都市住民の農村への強制移住を行い、この当時都市はゴーストタウンと化した。

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 ここまで過激な例はそう多くはないが、しかし都市の否定・農村回帰の主張は特に1950年代~80年代にかけて、日本では高度経済成長期からバブル崩壊にかけてよく喧伝されたものであり、ジブリ映画「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」の中でもその思想を垣間見ることができるものである。また昨今においても社虫太郎氏が「日本の衰退は【都市化】が原因である」などという主張を行う等、日本では特に左派においてよく見られるものである。

 

 もちろん自由権社会権は共に必要な権利である。だが実際的なコスト等の問題からどちらかを諦めなければならないとしたら、人はどちらを選択するだろうか。私の推測では、おそらくアンケートを取れば自由権を取る人の方が多いだろうと思っている。だがそれは医療や公衆衛生を始めとする各種の社会的サービスが、今日においては空気のように当たり前になり、たとえ自由権を重視し社会権を軽視してもそれらサービスは当然受けることができるのだと、人々が暗に思い込んでしまっているからである。実際には今日の我らの暮らしは自然に発生したものではなく人為的に確保されたものであり、相応のコストを負担せずに放置すれば我らの生活水準は容易くシュメール人の時代にまで戻ってしまう。よく経済学的には自由が良いのだなどと喧伝もされるが、しかしまともな医療や福祉が受けられなければ人は働くこともできなくなってしまう。またどんな大金持ちも1人辺りの財・サービスの消費量が他者より2倍も3倍も多いわけではないのであるから、富の偏在も結果として経済規模の縮小を招くのである。結局は社会権を重視するより他はないのである。歴史を振り返れば、急速に経済が発展した時代は平等性が高かった時代であり、格差の少なかった時代であり、貧乏人が金持ちになり易い時代であった。ジャパニーズドリームもアメリカンドリームも、その担い手は貧しい一般市民だったのである。もちろんだからと言って共産主義が正しいわけでは全くない(※4.5)が、しかし日本が高度経済成長を遂げた時代は同時に日本が世界一成功した社会主義国だと言われた時代であったことは謙虚に受け止めるべきである。またその後世界の先進国は新自由主義の下で経済成長を遂げたのだとも言われるが、とはいえ社会福祉を放棄したわけではなく、その新自由主義発祥の地であるイギリスでも公共医療サービスは今でも無料である。先のパンデミック下において私が主にTwitterで医療関係者のツイートを漁ったところによると、日本以外の先進各国は救急医療の整備に力を注いでいるようであり、たとえばニューヨークの救急車の台数は東京よりも多いようであり、また救急病院の病床数も多くを確保しているようである。一方で削減されているのは一次医療であり、日本のようにちょっとした熱ですぐに町医者にかかることはできず、そうしたところは薬局に行って自分で薬を買って飲む、というような対応が行われているようである。全般的に見てメリハリの利いた投資が行われており、そして浮いた予算で交通網の整備等経済成長をも促す公共投資を行い、結果として経済成長をし続けている、というのが世界の先進国の現状であるようである。

 

※4.5 共産主義は少なくとも従来行われた方法では商売の芽そのものを摘み取ってしまい、結果として経済成長を構造的に不可能にしてしまう。言うまでもないが社会政策の推進には原資が必要なのであり、その原資とは経済的豊かさに他ならないのである。私はマルクスの論理そのものはある程度正しかったと思っているが、もし今後マルクスの予言通りに共産主義社会に移行していくとしても、それは自己を含む生産手段の棄損にも結び付きかねない労働者達の暴力革命によるものではなくより平和的な移行となるだろう(→資本主義社会はたとえ建前だけでも未来永劫守られていくだろう)し、そうでなければ最後に待っているのは悲惨な破滅しかないだろう。

 

 翻って日本を見れば、昭和の時代には社会主義国だと言われた時代もあったようではあるが、少なくとも平成以後の日本においては社会権は軽視されていると感じている。日本は他の先進各国とは違い、自由主義でも全体主義でもない「ムラ社会」であるためその分析は慎重さを要するのであるが、全体的に見て日本は資源の集中やメリハリの利いた投資が苦手であり、そのために社会的に見て必要な事項に戦略的に資源を分配することが難しく、結果として社会の基盤を形成するはずのものの供給の多くが人々の自由意志や自発的良心、自由競争市場に委ねられてしまっている。前述の医療が典型例であり、日本では国民皆保険等は整備できたものの、しかし医療の担い手を救急病院に集中させる、救急車の台数を増やす、などと言ったことができていない。そのため日本では熱を出したらすぐに町医者にかかることができる一方で、パンデミックが起こればすぐに救急医療がパンクしてしまうことが先のパンデミックにおいて明らかになった。結果として世界的に見れば少ない感染者数でも緊急事態宣言を出さなければならなくなり、社会に様々な影響を及ぼしたことは記憶に新しいところである。またあの緊急事態宣言とてほぼ”出しただけ”に終わった感は否めず、その間に臨時の医療体制を整えるというようなことは満足に行われたとは言い難く、結局は従前からの医療体制のままで対応できるように人々の自発的良心により外出の自粛を期待するというような、精神論を喧伝した先の大戦をも想起させるようなことが繰り返された(※5)。いわゆる2024年問題によるこの春の路線バスの大幅な廃止と言った事態も、こうしたことに通じる話であるだろう。

 

※5 もちろん医療現場でもそれ以外の場所でも様々な対策が行われたことは承知しているが、しかし私はと言えば第五波が来るまでは名古屋の街中を平然とノーマスクで歩き回っていて何らの咎も受けなかったし、それ以降もマスクをつけろと言われたことすらついになかった。

 

(続く)

まともなことを言える自由

 今私がいかなる自由を追求するか、ということを考えると、それは「まともなことを言える自由」へとたどり着くのではないか。

 

 人は事実なき生き物である。真理の発見ではなく己の偏見への居直りに喜びを見出し、真理を求める対話の相手ではなく己の偏見を肯定する詐欺師を求め、そして偏見(=現実)と事実が著しく乖離し認知(思い込み)によってその差を埋められなくなったとき、人は武器を取り破壊的な暴力によって強引に己の現実を事実にしようとするのである。真理(=事実)は誰も求めておらず、せいぜい己の偏見に権威付けを行うための道具として、他者をぶちのめすためのこん棒として、都合よく切り取られた形で求められることもある程度である。職業的に真理を求める人々、すなわち学者やジャーナリスト、各種の職人とて人間の根源的欲求から逃れることはできない。彼らは自分の専門分野では真理を求めるにしても、それ以外では往々にして彼ら自身がデマゴーグになり果てるものである。ネットのデマは一般には”オタクやニート”と言った社会的に劣後しているとされている者達(※1)が発していることになっているが、実際には大学教授等の権威ある知識人がその発端となっているか、あるいはそのような人物がデマに賛同することで権威を与えさらに増幅している場合が実は大多数なのではないかと私は思う(※2)。

 

※1 ただこの内特にオタクについては、そのような社会的偏見を逆用する形で弱者を自称する強者になり果てているのもまた厄介である。彼らは同様に自らは弱者なのだと思い込んでいる強者である中高年男性層と密接に結びつき、さらに勢力を拡大している。

※2 この分野については既に学術的研究があるのだからそれを参照すべきであることは承知しているが、私は現状そこまでは参照できていない。ただ私が見聞きしたものを挙げれば、例えば先日の暇アノン騒動も名もなきネットユーザーのみによってあれほどの騒ぎになったのではなく、多くの社会的地位を有する者達があれに乗ったからこそあそこまでの騒動になったことは記憶に新しいことである。

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中央新幹線を巡るJR東海静岡県の対立も、大阪産業大学の波床教授が自身のブログで「東海道新幹線静岡空港駅の建設を見返りとして勝ち取ることが静岡県の本来の目的である」とするメッセージを繰り返し発している。これが事実かどうか私には判断がつかない。

 また古い話を挙げれば「ソクラテスの弁明」にもよく似た話が出てくるし、さらには結果としてソクラテスが処刑されるに至ったことも暇アノンの騒動と本質的に同じ事象であると言えるだろう。

 

 

 この中にあって私は、せめて私が事実だと思うこと(※3)くらいは守りたいものだと思う。そしてただ閉ざされた空間の中でそれを守るだけではなく、何らかの形で発信も行うことにより、真理を求める対話を求めたり真理を拡大したりする(※4)糸口は掴みたいものである。そのために私は様々な困難がありつつもこの公開ブログとTwitterという橋頭保を維持しているのである。そしてリアルの世界においてはのりのり旅が本格化し始めたという形で私の現実に対する「大反攻」が始まったように、そろそろこの仮想現実の世界においても公開ブログとTwitterから何らかの形で「大反攻」を始めたい、と思っている。その大反攻の先駆けとして今確保するべきことは、それは「まともなことを言える自由」の確保ではないかと思うわけである。

 

※3 当然だが私も人間であるから、私が事実だと思っていることが本当に事実であるかどうかは不明である。それは対話の中にしか存在しない。

 余談だが、私のこうした信念がこの私をして陰謀論等に与することなく、立憲民主党支持者という極めて穏健な立ち位置に私を押しとどめているのであり、それは私の誇りとしても良いのではないかとも思っている。

※4 これを空想委員会では「現実からの解放」と呼ぶわけである

 

 思うわけである、というか、空0年(西暦2019年)からの人生再興をあとから振り返れば、少なくともネット上の行動においては結果としてこの自由を求める行動であったと、そう総括することができるのではないかと思う。この間にネット上で私が起こした行動の中で一番大きなことはTwitterを旧アカウントから新アカウントに作り直したことであるが、それによって何がどう変わったのかと言えば、それは旧アカウントのフォロワーにおいては一大勢力を築いていた鉄道趣味者を、新アカウントではほぼ締め出したことが一番大きな変化であると言える。

 あらゆるネット言説において私が一番ストレスがたまるのが鉄道を取り巻く各種の言説である。趣味者の発言もそうでない人の発言も、はっきり言ってイライラさせられることがあまりにも多い。なぜそうなるのかと言えば、それは鉄道という存在が今大きな転換期を迎えているからだろう。世界的に見れば、鉄道は「再整備」の時代に入ったと言える。それは同じ陸上の交通機関として自動車が普及しそれに合わせて社会構造も変化する中で、鉄道の役割もまた大きく変化しているからである。しかしその変化への対応は、日本の鉄道は非常に遅れていると感じている。そして再整備の機運も非常に低い。それはなぜかと言えば、日本においては旧来の鉄道にも今なお多くの利用者があり、旧態依然のままでもそれなりに社会的機能を果たすことができるからだろう(※4.5)。そしてまたそうであるが故に、国民の側も鉄道への認識が旧態依然のままで更新されず、そしてだからこそ政治も動くことができないというわけである。ただこれでは鉄道の存在意義は狭まる一方であり、そしてまたそのために今現在現に利用されている旧来からの鉄道についても社会的機能を果たすことが今後困難になり、結果として多くの人々の生活が脅かされる事態が発生するのではないか、日本の衰退をさらに助長することになるのではないか、と思えてならない。世界的なモータリゼーションの中で日本がこれほどの規模の前時代からの鉄道を残すことができたのは日本の財産であり、またそうすることが今を生きる日本国民の責務であると私は考えているのであるが、このままでは結局財産どころか「負の遺産」にすらなり果てるのではないかと思えてならない。この状況を打破するため私は新幹線の整備に期待したこともあったが、それとて結局は極めて前時代的な発想の下に建設されてしまい、北陸新幹線も西九州新幹線もとてもいびつなものになりこれもこれで「負の遺産」になり果てようとしているのは何とも残念な限りである。

 

※4.5 もう一つ厄介なのはその「旧来の鉄道」をそのままで残すことを前提に、運営事業者によって過剰なほどの合理化が図られていることも挙げられる。現在の日本の鉄道、特にJR各線の現状は80年代末期の国鉄分割民営化当初の状況への最適化とその延長線上にある各種の施策が行き着くところまで行った姿であり、それによりこの30年間赤字額を減らしある程度は黒字も出して維持することができてきたわけであるが、またそれにより変化への対応がより難しくなってしまっている感も否めない。よく言われる日本は鉄道が独立採算を前提としているから云々という話はこの辺に深く関わってくる。

 

 誰かがこの状況を批判し、社会の流れを変える必要がある。そうでなければこの国の未来が大きく損なわれる可能性が高い。だがしかし、今現在それを望む者はほぼ存在しない。人々はやれローカル線を残せ駅を残せ新幹線は東海道と同じでなければ嫌だ嫌だと前時代(平成)どころか前々時代(昭和)の発想で意見を垂れ述べ、そのために国鉄の復活などという明らかに間違った政策(※5)が一定の人気を得てしまっている。鉄道趣味者はそれに輪をかけてさらに酷く、やれ道路を作るな郊外型SCを作るな道路予算を鉄道に回せと化石のような主張(※6)を繰り返している。関西大学経済学部教授の宇都宮浄人氏が西暦2012年(平成24年)に出した「鉄道復権」という本は世界的な鉄道再整備の事例に関する優れた報告であると高く評価しているが、この本に「自動車社会からの「大逆流」」などという鉄道趣味者のミスリードを誘うサブタイトルがつけられてしまっていることがまさに日本の現状を、平成という停滞した時代を象徴しているかのようである。

 

 

※5 正確に言えば、新幹線や貨物幹線を始めとする幹線鉄道網を国有化することに関しては私も一つの有力な選択肢であると考えている。そのときに参考になるのは明治時代の鉄道国有法の目的と考え方であるとも考えている。だが、一般に蔓延る”国鉄復活論”は東京オリンピック大阪万博と同じく単なる昭和の再生産でしかなく、そのようなものに賛同することは全くできない。国鉄復活論において一般に思い浮かべられているのは西暦1987年まで存在した「日本国有鉄道」だろうが、あれは明治時代の鉄道国有法の本来の目的からは極めて遠ざかった存在であり、あくまでも第二次世界大戦直後の日本の状況に合わせた存在であって今のこの21世紀の状況には全く適合的であるとは思えないものである。

※6 私はと言えば、これほど鉄道をはじめとする定時乗合交通機関を愛好しておきながら幹線道路網の整備についてのネガティブな発言を少なくともTwitterを新アカウントに移行させてからは言ったことがない(と記憶している)のはこれも誇って良いことではないかと思う。なぜそれを言わないのかと言えば、それは高速道路をはじめとする各種の幹線道路網は費用対効果分析において正便益を出したからこそ建設されていること、そのために各種の工夫と努力がなされていることを承知しているからである。またさらに言えば道路整備と鉄道整備を対立的に捉えること自体、極めて前時代的なことであると思っている。

 

 ややこしいのは旧来の鉄道がある程度の社会的機能を果たしているが故に、旧来の鉄道をそのまま維持することに関しては合理性を越えた力が働くこともあることである。只見線名松線の復旧が代表例であり、今も肥薩線が復旧されようとしているが、私もそれに尽力した関係者の努力と苦労にはただ頭が下がるばかりであり、また一鉄道趣味者としては大変嬉しい話ではあるのだが、しかし一方で一社会人としては、このような形で多額の税金が費やされるのは「無駄な公共事業」ではないか、とどうしても思えてしまう。「このままでは結局財産どころか「負の遺産」にすらなり果てるのではないかと思えてならない」と書いたのはまさにこういうところであり、お金のみならず労働力の分配等の観点で見ても、これらの路線に多大なコストを費やすのは正当であると言えるのか、復旧させるのならただ旧態依然に復旧するのではなく現代的に再整備した方が良いのではないか、と思うわけである。

 

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↑もっともそれらの路線に関しては沿線自治体がその機能を発揮させるべく様々な活性化策を打ち出しているのも事実である。たとえば名松線については終点の伊勢奥津駅より津市が観光シーズン毎に臨時路線バスを運行しており、その注力具合が伺えるというものである。こうした地道な活性化策については私もできる限り応援したい。

 

 だがこんなことを公衆の面前で発言すれば全方面から吊し上げを食らうことも承知している。ある者はローカル線や新幹線に対するネガティブワードを切り取って反鉄道論者・車社会推進論者だと決めつけ、またある者は鉄道の「再整備」辺りの言葉を切り取って現実を知らないバカな鉄道マニアがありもしない妄想を垂れ述べていると決めつけ、私は全く別の方面から別の角度での猛攻撃を食らうのがオチである。だからTwitter旧アカウントは閉じることにし、そしてとりあえずは鉄道趣味者をほとんど締め出した新アカウントを構築したわけであるが、またこの公開ブログにおいてもコメント欄を閉ざしているのはその対策という意味が大きいのであるが、とはいえこれからいかにして「大反攻」を行っていくかは、全く道筋が見えないのが現状である。だがそれでも最低限、「まともなことを言える自由」くらいは何とかして確保していきたいものである。

 

日本道路公団東京建設局長を務めた武部健一氏は著書「道路の日本史」の最後で道路法上の道路のみならず、道路運送法上の道路や港湾道路、農道、林道に至るまでのあらゆる道路を総合する「総合道路法」の必要性を訴えている。私も賛同するものであるが、さらには氏の主張の趣旨からは外れてしまうものの鉄道もまたこれら道路網と共通の目的を担う存在として、それら多種多様な道路の一種として何らかの位置づけを行うことができないかと思う。そして道路整備と鉄道整備は同じ陸上における交通整備として、一体のものとして進めていくべきであるだろう。幸い、昨今は両者の一体整備が少しずつ成されるようになってきたところであり、この流れは今後も加速させていきたいところである。

公開ブログの記事拡充に向けて――あるいは今という時代の話

 今の公開ブログの問題点は目的と目標が不明瞭なことである。

 

 では何が目的かと言えば

1.アウトプットによる学習効率の増大・思考整理による行動の加速化

が第一に挙げられる。また

2.自己紹介カード的機能(→私が何者であるかを洗いざらい表示しておく)

も開設目的である。

 

 一方で目標としては「空想委員会の社会活動の足掛かり」と「知性の砦」の2つが挙げられる。前者は個人的機関にとどまっている空想委員会を社会活動も担う機関へと昇華させるため、その足掛かりとして言論活動を行うというものである。後者は正誤入り乱れるインターネットの世界において、私自身がそれに飲まれないこと・客観的事実と学術的根拠に基づいて世界観と論説を構築していくことを最たる目標とし、ネット上に蔓延る出鱈目を批判して本来我々が今何をなすべきかを考えていく場所にしたい、という私の欲求を反映したものである。

 

 そもそも空想委員会のユニークなところは私の人生の諸問題を社会の問題と完全に連続したものとして捉えているところであり、それ故に空想委員会は私の自己統治において重要な役目を担いつつ社会活動をも模索するのである。そうして私と社会とが共に歩み寄ることによってこの社会を私にとってより暮らしやすいものにしていくこと、それこそが空想委員会の最も根源的な目標なのである。空想委員会が組織目標として掲げる「現実からの解放」というのも、これは私が既に現実から解放されているから社会もそれに合わせよと一方的に言っているのではなく、まず第一に私自身がありもしない「現実」に囚われているという認識を前提として私自身を客観的事実に基づいて解放するというものであり、そしてその手法を応用して社会もまた解放しようというものなのである。一方で重要なのは「共に歩み寄る」という点であり、私はこの社会そのものを含む他者への一方的な恭順は完全に拒絶するものである。ありもしない「現実」に囚われているのは私だけではなく人類すべてがそうなのであり、だからこそ事実は対等な対話の中にしか存在しないのであって、一方的な恭順には決して存在し得ないのである。私はネット上にたまに存在する「事実主義者」(→私は事実に基づいて行動する人間であると自己主張している人物)については基本的に警戒対象としているが(→例えば社虫太郎氏も私にとっては警戒対象でもあった。実際相互フォロワーとして氏の限界もまた強く感じていた)、これは自称事実主義者には自分自身が「現実」に囚われている、という発想がないため、彼らは結局自分が事実だと思うものを事実であると強弁して他者に押し付けているに過ぎないからである。もちろんこうした自己への懐疑の欠如は自称事実主義者に限らずそこら中で見られるものであり、特にこの日本社会においては「目で見たことを信じること」がなぜか理性的なことであるとされているため、おそらくは世界的に見てもその傾向がかなり強いのではないか、と思わざるを得ないのは残念な点である。そしてこの点は今後日本社会における大きな足かせとならざるを得ないだろうと私は考えている。

 

 地質時代的に見れば、今人類は「人新世」の入り口に立ったところである。人新世とは簡単に言えば、「我々の成した行為の代償を我々自身が支払わなければならない時代」であると言えるだろう。ここで人類に何を支払わせるべきかを決定するのは地球をはじめとする自然環境である。そして自然は人類が築き上げてきた「現実」という物語に合わせて動くのではなく、【物理法則】という彼らの論理によって動く代物である。当然人類が払うべき代償の額は物理法則によって算出され決定されるのである。ここで人類の「現実」という物語は何ら意味を持たない。私は人類が今日のような繁栄を築き上げることができたのは事実ではなく虚構を信じ、「現実」という物語を築き上げそれに従うことができる生き物だったからだと考えているが、今その能力がいよいよ足かせになろうとしているのだ。このまま人類が「現実」に基づいて社会を運営すれば、確実に人類は滅びるだろう。今後も人類が繁栄を望むのであれば、社会の基軸を物理法則=客観的事実に変更しなければならないはずである。だがそれは我らに大きな世界観の変容を迫るものであり、我らから解釈の自由と喜びを大きく奪うものでもあり、また「現実」という物語を描くことを生業としてきた知識人・政治家・聖職者・作家と言った人々の多くは失業を余儀なくされるだろう。当然一朝一夕にできることではなく、その過程では多くの犠牲も出るものと思われる。だが、未来はおそらくその先にしかないはずである。

 

(非公開ブログからの転載)

空想委員会組織図 空4年2月16日

中央会議

 委員長

 統合本部

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  第一部(政治)

   第一課(アジア・太平洋)

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  第二部(経済)

   第一課(経済総合・金融)

   第二課(商業)

   第三課(労働人権)

  第三部(防災)

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   第二課(防疫)

   第三課(地域)

 建設局

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   地域開発課

   産業通信課

   国土史課

  防災部

   防災調査課

   交通調査課

   復興課

 


統合本部

 広報課

 信用課(空想信組)

  編成監督係

  決済係

  資産係

 厚生課(空想生協)

  庶務係

  補給係

  保健係

  企業局準備室

 図書課(空想図書館)

教務局

 平和学部

  環境学

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   宇宙開発係

   資源エネルギー係

情報局

 第一部(政治)

  第一課(アジア・太平洋)

   一係(東アジア)

   二係(アメリカ)

   三係(南アジア)

  第二課(ヨーロッパ・中東・アフリカ)

   一係(ヨーロッパ)

   二係(中東)

   三係(アフリカ)

 第二部

  第二課

   一係(商業開発)

   二係(通信)

   三係(販売促進)

 第三部(防災)

  第一課(気象)

   一係(気象警戒)

   二係(地象警戒)

   三係(化学災害)

  第三課(地域)

   一係(東海)

   二係(近畿)

 


【中央会議報】

 情報局第三部第三課の職掌を「地域」に変更する。また、建設局総合開発部物流通信課を「産業通信課」に改称する。