・空想委員会に何ができるか
【中央会議】
先の公開ブログで我ら空想委員会は空想主義思想の実行機関となったことが明らかになったが、それを前提として我々に何ができるか。
まず原理原則論で言えば、我々は空想主義思想の実行機関である、ということは委員長の願望の実行機関であるわけである。我らは委員長の持つリソースを元に、それを分配し、または拡大し、「現実からの解放」へと結び付けていくことこそが使命である。
一方で我らはマンパワーに乏しく、実空間に存在できるのは委員長ただ一人である、という究極の制約がある。そのため我らはいかなる組織形態を目指そうとも、結局は委員長の「頭脳」を拡張する存在でしかないわけである。
そう考えると、結局空想委員会の活動は「生活管理」と「趣味遂行支援」の他は「知的活動」しか存在しないわけである。そしてそれを遂行していくことこそが空想委員会の役割というものだろう。
上記3者は分割できるものではないが、あえてわけるとすれば資格取得のようなものは「生活管理」の方になり、一方で趣味活動については具体的な趣味の実行以外の基礎的・学術的調査の部分は知的活動に分類するのが妥当だろう。そしてこの知的活動は「空想大学」と総称されるわけである。空想大学は公開ブログを活動拠点とし、あらゆるメディアを駆使し、また全国乗合交通巡りに代表される実空間での主に趣味活動を通して実地検分も行いつつ、知の偏在を解消し、知の検証を行っていくべきだろう。そしてそれを社会に還元し、自由・平和・繁栄の維持拡大に貢献することこそが空想委員会の社会活動であるべきであり、それこそが「現実からの解放」である。
・21世紀の知性
【教務局】
前記中央会議決議の末尾「知の偏在を解消し、知の検証を行っていくべきだろう」は教務局が織り込んだものである。教務局は席次第一位の内部局でありながら直接的な趣味活動にも、また社会活動にもコミットしにくいが故に昨今は窓際部署と言っても良い存在であったが、今回の決議により空想委員会が「空想大学」にまい進していくならば教務局はその中核となって然るべきである。
では21世紀の知性とはどういうものだろうか。それはつまり現代の歴史的意義を考えることと同義であるが、それは一言で言えば「神話代の終わり」であるだろう。人類は今まさに、事実の世界に移ることによって更なる平和と繁栄を獲得するか、あるいは神話に引きこもることにより破滅の道へと突き進むかの分岐点に立っているのではないかと思われる。
神話代の終わり、というのは従来は産業革命の時代に訪れたと考えられてきた現象であるが、教務局としてはもちろん産業革命期の転換も大変大きなものであったと我々も認識しているが、ただ神話世界から事実世界への移行というのはそもそも先史時代において、それこそ人類の祖先がチンパンジーの祖先とわかれたときから始まったものであり、それが徐々に進行してきたのだと考えている。先史時代から中世においては神話そのものが事実を把握するための道具だったのであり、近代になってそれが批判されるようになったわけであるが、とはいえ近代化(産業革命)から21世紀の情報革命までの期間というのは中世以前よりは事実認識(科学的分析)が進んでいたものの、一方で情報革命以後の現在から見ればまだまだ情報技術の未熟もあり、実際のところはオールドメディア(マスメディア)と知識人(インテリ)が新たな神官として新たな神話を語り、それを中心にして社会が形成されてきたという、「後期神話代」とも言える状態でもあったと考えるのが妥当かと思われる。一方で神話そのものは人間の認知能力の限界もありこれからも完全に消え去ることはないだろうが、しかしスマホとSNSの普及に代表される情報革命によって従来不可視化されてきたものが可視化されたことにより、アメリカの状況に代表されるような「近代的神話の動揺」が世界に広がっているのは、まさに現在進んでいる情報革命が恐らく最終的には産業革命以上に神話という存在を過去のものとし、人はますます事実の世界に生きなければならなくなったことを表しているものと思われる。そしてそれは地質時代的必然でもある。というのも人類は産業革命以後の近代科学技術の発達により、今や地球の地質時代は「人新世」へと突入し、地球と直接対峙しなければならなくなったのであり、この時代に人類社会の中ではどれほど絶対的な権威があろうとも所詮は人類が脳内で構築した代物に過ぎない神話の世界へと居直ることは、まさに自殺行為以外の何物でもない。
即ち人類は可能な限り事実の世界へと移行すべきなのであり、そのためには産業革命期において中世以前の神話(宗教・迷信)が批判的に検証されたように、情報革命期においてもオールドメディア(マスメディア)と知識人(インテリ)という「近代の神官」達が紡いできた物語(ナラティブ)が真に妥当なものであったのか、検証されなければならないのである。一方でオールドメディア、特に総合的なマスメディアと、知識人、特に人文系の進歩的文化人が世のあらゆる知性を総合し代表する存在である、という「近代の神話」のまさに根幹部分が既に崩壊しその非事実性はもはや一般常識の領域にある以上、知性というものは各界の専門家(研究者・実務家・活動家)に「偏在」していることも認めなければならないだろう。人類は従来語られてきた近代の神話に惑わされず、偏在する知性(≒科学的事実)を繋ぎ合わせ、より事実に即した世界観の下に生きなければならない。それが情報革命以後の世界における「神話」となり、人類社会の新たな紐帯となるだろう。
つまり空想委員会は情報革命以後の人類社会の紐帯となるような、次世代の神話を形成していく活動を展開するべきであり、またそれに貢献するべきなのである。それが空想委員会の知的活動たる「空想大学」の目指すものであり、それを成し遂げることが知的活動における「現実からの解放」となるわけである。
・紐帯を目指す
【統合本部広報課中央作戦室】
「つまり空想委員会は情報革命以後の人類社会の紐帯となるような、次世代の神話を形成していく活動を展開するべきであり、またそれに貢献するべきなのである」という教務局の提言はそっくりそのまま社会活動の指針にもなり得るものである。空想委員会は「現実からの解放」を目指し社会の平和的変革をも目指す組織として政治活動へと接続する回路の形成を模索してきたものであり、だからこそ現在でも公開ブログ・SNSでは支持政党の明記までやっているわけであるが、その政治活動において「紐帯」という概念はまさに我らの目指すものとするべきであるだろう。
先の都知事選とアメリカ大統領選挙を受けて今巷では左派・リベラル派批判が喧伝されているが、委員長の意思と中央会議の決定の下立憲民主党を支持する立場である我ら空想委員会としては、その批判される左派・リベラル派をも排除せず、少なくとも形式的には左派の伝統とも地続きの勢力をも社会の内に受け入れる社会を目指すべきであり、その必要性を訴えるべきだろう。そもそも昨今は左派というものがあまりにも「舐められすぎ」である。日本においても今なお日本共産党が破壊活動防止法に基づき公安警察・公安調査庁の監視下にあることに代表されるように、そもそも左派は極めて暴力的で危険な存在なのであって、彼らを平和的な隣人として社会の内に留め置くことができているのは、日本においては立憲民主党が野党第一党であり、またアメリカにおいては民主党が二大政党の片方であるというように、彼らをもある程度は包摂する政党が巨大政党として君臨しているからである。委員長の考えでは、そもそも「左翼思想」なるものはそれそのものが人類発祥以来の伝統的思想なのであり、そしてそれは近代科学(→近代科学はデカルトの「我思う故に我あり」が出発点であるように、本質的に自己批判を伴う「右翼的な」ものである)によって克服されるべきものなのであるから、左翼勢力が減退していくことは大いに結構でありまた歴史的必然でもあるだろうが、それはそれとして左派が担ってきた社会的機能は何者かが引き継がなければならないのであり、それは少なくとも形式的には伝統的左派勢力と地続きの存在である必要がある、ということになっており、だからこそその始まりにおいて左派とされた政治家を救済するために発足し、また日本共産党や社民党とも連携してきた(→が、左派そのものではない)立憲民主党を支持するのだということで今日までやってきたのであり、これからもそうであろうが、今回の教務局の提言はその委員長の宿願にもかなうものである。
・解説
この記事は西暦2024年11月8日の非公開ブログに書いたものを転載したものである。昨今の私が画策しているものがいかなるものであるのかがよくわかる内容かと思う。
先月発表されたノーベル経済学賞ではマサチューセッツ工科大学のダロン・アセモグル教授が受賞者の1人に選ばれたわけだが、倉本圭造氏の記事によればアセモグル教授は「国家の力と社会の力が拮抗した状態こそが自由で繁栄した国家を持続させる」ということを論証しているのだそうで、それは国家を解体し小さな政府にすることこそが人々を自由にするのだというナラティブにかねてより疑問を持ち、むしろ民主的合意を前提としつつ各種規制や社会保障、公共投資等を広く展開する「強い国家」が強固に人々の社会権を守ってこそ人々は「実質的な自由」を享受できるのではないか、と考えてきた私としては、実に腑に落ちる話である。
「おいおいどうすんねんこれ?」状態の選挙結果を希望に変えるノーベル経済学賞研究の話|倉本圭造
→上下巻とも昨日(11/15)楽天ブックスに発注した。
一方で日本の衆院選でもアメリカ大統領選挙でも「右派ポピュリズムの拡大」がその結果として示されたわけだが、それに対してキール世界経済研究所は興味深い研究結果を発表している。
inods.co.jp
内容は表題の通りであるが、つまり「公共投資が右派ポピュリストを減らす」ということである。これを読んで私が思ったのは、
「日本の右派ポピュリズムが現状程度で未だ収まっているのは、自民党政権・民主党政権を通し、公共投資削減論が喧伝されながらも何だかんだと過疎地含め公共投資が行われてきたからではないか?」
というものだ。日本において右派ポピュリズム政党の代表格と言えば維新の会だが、これについてはShin-ya Ohnishi氏が指摘する通り、維新成立の背景には小泉内閣下においてとりわけ近畿地方の公共投資が削減されたという側面は確かにあるのであり、そしてその維新の勢力拡大がほぼ大阪府内で食い止められているのも、維新成立もあり近畿地方にも公共投資が再び行われるようになってきたからこそではないか、と思われるところは確かにあるわけである。
↑立憲は先の衆院選でも東北での強さが明らかであったが、それも東日本大震災後の三陸道(E45)全線事業化を始めとする民主党政権時代の公共投資の結果なのだろうか。公共投資というものは、やはりバカにはできないものである。
もし本当にこの通りだとすると、土木利権を叩き公共事業削減を主張してきた左派こそが右派ポピュリズムの生みの親である可能性まで出てくるわけである。このように、過去に目指された理想が真に理にかなったものであったのかどうか、これを検証していくことこそが「21世紀の知性」となるだろう。
そもそも人類は20世紀に大きく躍進を果たしたが、一方でその結果数多の歪みを生み出したのもまた事実であり、しかも近代化の歪みを批判したはずのポストモダンは極めて稚拙な発想で構築されてしまい、その結果近代の歪みは解消するどころかさらにその歪みを大きくして我々に今降りかかっている。おそらく21世紀は、20世紀の躍進の「尻ぬぐい」に費やされることになるだろう。私はこの尻ぬぐいを21世紀中に終わらせ、22世紀を真の人類の繁栄の世紀とすることにどうにかして貢献していきたいものだ、と思うものである。