今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

すべてを敵に回すだろう

 8/20は名古屋に帰ってきたが、それにしても8月に入ってから活動が停滞している。理由は様々だが直近の理由は腹痛が続いているからだ。そろそろ医者に行きたい。

 

 それにしても西暦2020年、すなわち「空想歴1年」からの私の人生というものは、私の人生最大の変革期であると思わざるを得ない。これが何を意味するかといえば、つまり私の見解というものはこの時期に大きく変革しているのであり、そしてその変革は今でも続いているということである。それはすなわち現在もまた大きく変革し続けているということであり、ほんの少し前の見解と今の見解が大きく相違していることはごまんとある。それはまた同時に敵味方の認識も大きく変革しているということであり、特に先の都知事選が終わってからというもの「左派」というものへの認識は大きく変更を余儀なくされている。私が前回の記事で空想主義思想というものについて述べたのはここに繋げるためであり、つまりこれからの私はより空想主義に対して忠実になっていくのであり、それはつまり既存の党派性からは乖離せざるを得ないというわけだ。今Twitterのヘッダー文に記載している内容から読み取れる私の党派性は例えば「左派」とか「鉄道マニア」とか色々あるだろうが、だからと言って左派の味方をするとか鉄道マニアの味方をするとか思われては困るのである。

 

 実際今私がTwitterを見ていて思うことは、今後私はおそらくすべてを敵に回すだろう、ということだ。おそらくすべてのフォロワーがどこかで反発する見解を私はこれから述べることになるだろう。そしてまたそもそもの話として、今の私のTwitterアカウントはヘッダー文にある通りの「情報収集アカウント」としての色彩をますます強めており、その結果閲覧の比重は相互フォロワーよりも主として片フォローの各界の専門家に大きく傾いている。それは前回の記事でも書いた通り空想主義思想の根底には「客観的事実の追求」という概念があるのであり、それは結果として各界の専門家の見解を重用することになるのは当たり前の話である。そして今後私の見解はそうして追求された客観的事実に基づくものとなり、それはすなわち「あまりにも当たり前で何の面白味もない見解」か「誰もが見て見ぬふりをしていた、誰も見たくなかった見解」かのどちらかに少なくとも8割以上はなるだろうということである。

 

↑商業開発の実務に多く携わって来られたpomさんは今私がTwitterで注目している各界の専門家のお1人である。その言葉はあまりにも重い。言うまでもないが商業施設に限らず、鉄道でも何でも本当にこの通り「妥当なものとは面白くないもの」なのだ。逆に言えば素人が見て面白いと思うようなものは、大体妥当ではないのである。なおpomさんと私は相互フォローだが、ただただありがたい限りである。

 

 

 事実の追求とは本質的に孤独な行為である。それは往々にして誰も見たくなかったことをわざわざ掘り起こすという行為であり、また自己の上位置換を探し求めるという行為でもあるからだ。おそらくこれは社会的地位が高い者、すなわちプライドが高い者ほど耐え難い行為であるはずである。SNSを見ているとたまに事実主義を掲げる者達に出くわすが、彼らが大体間違っているのは事実を他者を叩きのめせるこん棒だと思い込んでいるからである。実際には事実が叩きのめすのは”馬鹿な他人”ではなく自分自身である。それは哲学の祖・ソクラテスが最後は処刑されたことが何よりも象徴している。

 

note.com

↑最近の私の大きな変革点と言えば、その1つは倉本圭造氏の記事を読んだことである。この記事は都知事選に際し、蓮舫氏が思ったより神宮外苑に熱心であることが伝わってきたが故に、そろそろ重い腰を上げて神宮外苑再開発とは何なのかということをまとめようとしたところ、この記事に出会ったことにより私がまとめるまでもないことを知ることになったというものである。客観的事実の追求とは自分の上位置換をわざわざ探し求める行為なのだ、ということを改めて認識させられた。もっとも私と倉本氏は見解が全く同じかと言えばそうでもないが、ただその認識の近さ、問題意識の近さにはやはり驚かされたと言わざるを得ない。実をいうと家庭内でも私の認識は私の姉の認識とも結果として似通ったものとなっており、だから先日の地方創生に関する私の記事などは誰よりも私の姉から高い評価を得ているのであるが、それはうれしく思う反面やはり客観的事実に基づく見解は結局オリジナリティに乏しい、似通ったものにならざるを得ないのだということを認識させられている。つまり逆に言えばオリジナリティの高い見解、革新性の高い見解などというものは往々にして妥当ではないということであり、これが残酷なまでに明らかになっていくのがスマホSNSの普及に代表される情報革命以後の世界というものであり、そしてまた左翼なるものは少なくとも長い目で見れば消え去らなければならないものなのだ、ということもまた認識せざるを得ない。

 

 

 そしてそれでもなおこの道を進まなければならないのは、この道の先にしか未来はないと確信しているからである。結局のところある課題を解決するのは客観的事実のみであり、人類に裁定を下すのは地球の物理法則なのである。今後私が味方を作るとしたら、それはこの前提を共有できる者達に限られるだろう。