今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

空想主義思想原論

 この公開ブログにも記事が溜まってきたが、元々このはてなアカウントは非公開ブログを開設し、そこで様々な文書を管理するためのものだった。今回から非公開ブログの一部を公開することにしたい。まずは空1年1月(西暦2021年1月)に行った「空想主義思想」についての検討から。なお当時は「願い」という言葉を使っていたが、これは無駄にポジティブに捉えられることを避けるため現在は「欲望」と言い換えているが、この記事では「願い」のままで公開することにする。

 

 

空1年1月1日(西暦2021年1月1日)

・現実からの解放

 グレゴリオ暦が新年を迎えた。空1年ももうあと半年である。そこで今改めて、「現実からの解放」について考えたい。

 

 なぜ現実からの解放が必要なのか、といえば、それは世に蔓延る「現実」なるものがむちゃくちゃだからである。たとえば、私が小学校で教員から繰り返し聞かされた話に


「『国産じゃがいも使用』と書かれたポテトチップスに国産じゃがいもはほとんど使われていない」

というものがあった。もしこれが本当ならば日本国内でじゃがいもが不作でもポテトチップスの流通に影響はないはずだが、実際に西暦2016年夏北海道でじゃがいもが不作になってみると市場からポテトチップスが消えるという事態が発生した。

 

 

mainichi.jp

↑西暦2017年5月3日付の毎日新聞。年が明けてもなお影響が続いていたのだ。

 

 つまり小学校の教員が語っていた「現実」は、根も葉もないでたらめだったということだ。

 

 ポテトチップスくらいなら他愛ない話で済むが、これが国家戦略や安全保障の分野になってくるとおちおち笑っていられなくなってくる。実際、私は中学校の教員にこのような話を聞いたことがある。

海上保安庁の巡視船が尖閣諸島に不法侵入した中国漁船を撃沈できないのは、日本国憲法第9条があるからだ」

冗談じゃない。不審船を撃沈できないのは憲法9条のせいではない。日本と中国が戦争状態にないからである。そしてあらゆる努力をして戦争を回避しようとするのは国際社会の常識である。不審船が領海に接近したからと言って、即軍隊が出動して武力で応戦していたら全世界が戦争だらけになってしまう。だから不審船に対してはまず警察組織である軽武装沿岸警備隊(Coast Guard)が対応し、たとえ時間がかかっても極力穏便にお引き取り願うのである。これは日本だけでなくアメリカ等でもやっていることである。憲法9条は何ら関係のない話でしかない。たとえ憲法9条が改正されたとしても、日本が国際社会のまともな一員であり続けるためにはむやみに不審船を撃沈してはならないのだ。

 ……にもかかわらず、今の日本では上記のような主張をする人間が「現実的」だともてはやされ、私のように安全保障その他について調査した結果憲法9条改正は必要ないという結論をたたき出した人間は「非現実的」と嘲笑される。このことから以下の逆説が導き出される。

「現実は、虚構である」

 「現実」とは、誰かが作り出した「おとぎ話」でしかない。そのおとぎ話を内面化し、おとぎ話に立脚して思考することこそ「現実主義」なるものの本質である。現代日本では「現実主義者」がもてはやされているように思うが、私は現実主義者を見るときはいかなるおとぎ話をその頭に注入しているのかを注意するようにしている。

 

 なぜこんなことが起こるのか。それは人間が、「物語」で物事を認識する生き物だからだろう。そして人間は己の信じる物語と事実が食い違うとき、事実を棄却して物語を優先する生き物なのだ。それは次のような場面を考えれば明らかである。

 

【自己言及の定義化】

 ある人物(仮にAとする)が、自己紹介で

「私は、他人の話をよく聞く人間です」

と言ったとする。それに対し人物Bが、

「いや、君は自分ではそう言うけれど、本当はそうじゃないよ」

と言ったとする。このとき、人物Aはどう思うだろうか。

 

 もちろん、このように思うだろう。

「何をバカなことを言いやがって。お前よりオレの方がよっぽど他人の話に耳を貸しているからな」

 このとき、Bの主張が正しいか間違っているかは関係がない。Bが間違っていることはもちろんあり得る。しかし、たとえ間違っていなかったとしても、AはBに

「他人の話を聞かない人間」

というレッテルを貼り付けるだろう。なぜならAの脳内では

「A=他人の話を聞く人間」

という定義が確立しているため、それに反する者はすべて「他人の話を聞かない人間」だということになってしまうのだ。私はこれを「自己言及の定義化」と呼んでいる。

 定義化はどのようにでも起こり得る。たとえば、

「私は内省的で恥を知る人間だ」

と定義してしまえば、自己に反する人間はすべて「恥知らず」と糾弾できるようになる。かつてTwitterを盛んに見ていた頃、

「○○は恥を知らない」

と主張する人間をたくさん見たが、私から見るとそういう主張をしている方がむしろ恥知らずにしか見えなかったのは「自己言及の定義化」のためだろう、と思っている。

 

 人間が事実を知ることは実に難しいことだと言える。なぜこのような不便な生き物がこの地球上には蔓延っているのだろうか。私は最近、

「人間はこのように”進化した”のではないか」

と思うようになった。今でもこの地上は人間にとって極めて生きづらいが、かつてあらゆる文明の利器がなかった頃はもっと悲惨だったわけである。たとえば江戸時代の日本の人口は中期以降横ばいだったが、どうやって横ばいにしていたかと言えば、「間引き」や「口減らし」と称して過剰に生まれた子どもを殺していたからである。明治維新以後の近代化による農業の生産性向上、及び経済発展による輸入食糧の増加で、ようやく我々は生まれてきた子ども達を殺さずに済む世の中を作ることに成功したのだ。なぜそんなことが可能だったかと言えば、我々の祖先が子ども達を殺さずに済む世の中を夢に見たからである。ここでもし人間が事実に合わせて生きる「現実的な」生き物だったら、今のような繁栄はなかっただろう。人類は今でもアフリカの草原に生き、まともな医療も食糧生産もなくひとたび自然が猛威を振るえばバタバタと死んでいく哀れな生き物に終始していただろう。地球温暖化はなかったかもしれないが、間違いなく幸福は今よりもはるかに少なかっただろう。つまり人間は、現実をむしろ認識できないように進化したからこそ、今のような豊かで平和で幸福な世の中を作ることができたのではないか。私は最近、そんなことを思う。

 とはいえもしそうであったとしても、それは諸刃の剣であることは言うまでもない。たとえばナチスドイツが推し進めた「ホロコースト」なんかは、誤った現実認識の下に国家が動いてしまった典型例だろう。現代でも、アメリカでのトランプ政権の成立や日本の保守系メディアが繰り広げる「歴史戦」なるものはその同類であるように思う。これらは「現実というおとぎ話」を強固に信じ込んだ連中に支えられているからだ。まことに現実主義とは人間社会の宿痾である。そして私はここに、「現実からの解放」の必要を感じるのである。

 

・空想委員会とは、真理と理想を守るための組織である

 「真理」と「理想」を、現実主義の猛攻から守る組織が必要だ。ここで「真理」とは誰かの作ったおとぎ話ではなく、我らの周囲で我らの意志とは無関係に発生した出来事、すなわち「事実」のことである。また「理想」とは、第一にかつて現在神話と呼ばれる物語を現実として語った時代より現在に至るまでの人々の「願い」のことであり、第二にその願いと事実とを照らし合わせて映し出される「進むべき未来」のことである。私はこれらのことを、現実と対峙するもの、すなわち「空想」と呼びたい。そしてこの空想を守る者のことを「空想委員」と呼び、彼らの組織を「空想委員会」と呼ぼう。

 ……ということを考えると、空想委員会の組織目標は「現実からの解放」よりも「真理と理想の防衛」の方がふさわしいのではないか、と思えてくる。だが両者は同じことである。現実からの解放とはすなわち真理と理想の防衛であり、真理と理想の下に生きることである。つまり前項「現実からの解放」の続きは以下のようにすれば良いか。

 

 では現実からの解放を成し遂げたあと、我らは何によって生きれば良いか。それは「真理」と「理想」であろう。ここで「真理」とは誰かの作ったおとぎ話ではなく、我らの周囲で我らの意志とは無関係に発生した出来事、すなわち「事実」のことである。また「理想」とは、第一にかつて現在神話と呼ばれる物語を現実として語った時代より現在に至るまでの人々の「願い」のことであり、第二にその願いと事実とを照らし合わせて映し出される「進むべき未来」のことである。私はこれらのことを、現実と対峙するもの、すなわち「空想」と呼びたい。

 空想委員会の「空想」とは、このような意味を持つものである。

 

1月3日

・現実との対峙

空想委員会の組織目標は「現実との対峙」でも良いかな、などとも思ってみたり。

 

・事実は存在するか

→存在する、と現時点では考えざるを得ない


 これは「哲学をはじめよう」で哲学者・山川仁が論証していることだが、今現に目に映っている物は、それが見えている通りの姿形で三次元空間に存在するか否かはともかくとして、何らかの存在が「ある」と考えざるを得ない。たとえ水槽の脳仮説が正しかったとしても、電気プラグを通して伝えられる情報は確かに「ある」のであり、それは我々の意志とは無関係に送り付けられてくるのだ。だから我々の意志の外にある事象、つまり「事実」は確かに存在すると考えざるを得ないのである。

 

 

・何を「真理」とするか

 とはいえ事実が存在するとしても、それが我々に認識できるかどうかはまた別の問題である。もし水槽の脳仮説が正しければ、我々が事実を知るチャンスは水槽の管理者の気まぐれに委ねられる。この場合、水槽の管理者こそが我々の生殺与奪を絶対的に握る存在、すなわち「神」であることになる。そして我々は、結局のところ神から自由になることはできない、と結論付けざるを得ない。

 話は少々脱線するが、水槽の脳ではなく唯物論に立脚するとしても、依然として我々は完全に自由になることはできない。我々の生殺与奪を握る者(=神)が水槽の管理者から自然(偶然)に移るだけである。やはり神は存在するのである。それが知能を有するのか否かはともかく、知能を有するとして我々が理解し対話することが可能かどうかもともかく、我々の生殺与奪を絶対的に握る者は確実に存在し、我々は決して自由になることはないのだ。たとえ唯物論に立脚してすべての自然を克服したとしても、物理法則から解放されることは決してない。たとえ銀河鉄道999の世界のような方法で永遠の命を手にしたとしても、それでもなお生きるのも死ぬのもすべては物理法則に従った方法でなければならないのである。もう一度言う、神は存在するのだ。それは聖書に書かれた通りのものかはわからない。もしかしたら偶然それ自体が神なのかもしれない。偶然が神であれば、祈りは単なる気休めでしかない。しかしそういうものが我々の外部に存在する以上、気休めにも存在意義は十二分に存在する。気休めに最大限の効果を発揮させるには、気休めに権威を付与するのが一番だ。そういう意味でも宗教は必要なのである。

 神から自由になれない以上、我々の「真理」とはいかなるものになるのか。それは「神がこの世界を見たとき、見えるであろうもの」が我々の「真理」となるだろう。

 

 完全に余談だが、ジョージ・オーウェルの小説「1984年」で検閲を担当する役所の名が「真理省」とされていることはもちろんオーウェルの皮肉だが、「真理とは神に閲覧を許されたものに過ぎない」と考えれば、そしてビッグブラザーを神であると捉えれば、あながち皮肉とも言い切れなくなってくるのがなんとも皮肉である。

 

 

 

・真理(事実)と現実の違い

真理(事実)=神の御前にあるもの

現実=人間が勝手に作り出したもの 

 

1月7日

・「現実」に積極的意義を見出すことを考える

 前回の「所見」の終わりに「真理=神の御前にあるもの」「現実=人間が勝手に作り出したもの」と書いた。今月1日から開始した「現実≠事実」論の集大成というべき類別だが、しかしそうは言っても、我々は事実として人間であり、人間から逃れることはできない。ならばただ批判するだけではなく、「現実」に積極的意義を見出すことも考えたい。


 

 そしてその答えは、1月1日の「所見」に既に書いた通りだ。すなわち、「人間はこのように(引用注:現実≠事実となるように)”進化した”のではないか」ということである。

 根拠はある。脳科学の研究によって、人間の脳は記憶を曖昧にするように進化していることが判明している。どういうことかは和歌山大学の学生が簡単にまとめている。


web.wakayama-u.ac.jp

「次に人間の脳の「あいまい性」について紹介しよう。人間の脳はあいまいであるが故にここまで高度に進化できたのだと著者(引用者注:講談社ブルーバックス「進化しすぎた脳」の著者、池谷雄二)は語る。あいまいな記憶がいいというのは、少々妙な気がするだろう。例えば人間よりも進化していない脳を持った鳥などは、あいまいではなく、見たものをそのまま写真のように記憶できるという。普通に考えればあいまいな記憶力よりも、鳥たちのような完全な記憶力の方がすごいと思ってしまうだろうが、これが実は曲者である。例えば初めて出会う人間の顔を覚えるとき、人間はその相手の顔をそのまま覚えるのではなく、その相手の特徴を抽出して覚える。つまりいちいち細かい部分の情報ははぶき、最も特徴的であろう部分を取捨選択して記憶に残しているのである。相手に髪の毛がなかったりひげが濃かったりなど、特徴的な方が覚えやすいのは脳のシステムがこのようになっているからである。対して鳥などは相手の顔を細部まで完璧に覚える。鳥はあまり特徴的ではない非常に没個性な顔であろうと、完璧に覚えることができるのだ。しかし、次に会ったときに相手が髪型を変えていればどうだろうか? この場合、なんと鳥はその相手を同じ人物だと気づくことはできない。メガネをかけている相手がメガネを外せば完璧に気づかないし、極端に言えば正面からの顔を覚えた相手の横顔を見ても、それを同一人物だと認識することができないのである。正直なところ、私は鳥のような完全な記憶があればどれだけ勉強などが楽になるだろうと幾度も考えたことがある。恐らくこの書評を読んでくれている人にも、同じようなことを考えたことがある人はいるのではないかと思う。だが上記のような理由で、それはおすすめすることができない。パソコンがテキストを一文字変えただけで別物だと扱うように、そんな非人間的な記憶力は日常生活に不便なだけである。完璧な記憶とは完璧であるが故に、とても不便なものなのだ」

 要は正確に記憶しすぎるとわずかな差異すらも「別物」と捉えてしまうため、同じものがわずかに姿形を変化させても「同じもの」と「正確に」認識できるように我々の脳はあいまいに記憶するように進化しているのである。

 現実認識についても基本はこれと同じであろう、というのが私の考えである。文明の発達した現代ではともすれば忘れられがちですらあるが、人間に対して自然はあまりにも過酷だ。その自然の中で生きていかなければならなかった先史時代の人々が、もしその過酷な「事実」をありのままに認識していたらどうなっていただろう。おそらくだが、そういう人間も居たのだと思う。そして彼らは未来に対して何の期待も持つことができず、子どもを産むこともなく死んでいったのだろう。そうではなくて、事実をありのままに認識せず、夢幻を「現実」と捉え、希望を失わず、懸命に生き延びようとした人間こそが子どもを産み、人間社会を作り上げていったのだ。我々は「現実≠事実」と”することができた”者の子孫だと考えることができる。「現実≠事実」は適者生存の結果であり、我々の生存戦略の根幹なのだ。

 

・自然の過酷さについて

 ちょうど今日(空1年1月7日)は今季一番の寒波が到来している(※1)が、厚手のガウンに新型コロナウイルス対策のマスクを着用してもなお寒いというのが、今日町を歩いた感想だ。この文章はガスファンヒーターのある暖かい部屋で書いているが、どれだけ地球温暖化が叫ばれようと、石油資源の枯渇が叫ばれようと、特に今日ばかりはガスを燃やさないとこの「所見」すらまともに書いては居られない。そこで私は思うわけである。

「自然とはいったい何なのか」

我々ホモサピエンスは自然の産物のはずである。しかし、我々を生み出した母なる存在であるはずの自然は、我々がありのままで存在することを許さない。ほぼすべての野生動物がそうであるように(※2)、我々ホモサピエンスもまた裸で屋外に居ることこそが「自然状態」のはずだが、そんなことをしたら到底生きていけないのが我々の暮らす世界の事実である。だから我々は服や家や暖房器具といった人工物を発明し、それらで身を守らなければならなかった。自然は先史時代から現在に至るまで、一貫して「敵」以外の何物でもなかったのだ。昨今地球温暖化のもたらす異常気象への注目の高まりから

「かつて人間は自然と共存していたが、近代以降の人間の自己中心的な経済発展とそのための環境破壊によって自然が人間に対して牙を向くようになった」

という「神話」がそこかしこで語られている(※3)が、それが事実だとは到底思えない。考えてみてほしい。我々ホモサピエンスも氷河期を体験しているはず(※4)だが、いったいその時代はどうしていたのだろうか。少なくとも自然のまま=裸で暮らしていたわけではあるまい。毛皮の服を作り、火を焚いて暮らしていたのだろう。しかしそれでは到底間に合わなかったはずだ。子どもなど弱い者はバタバタと死んでいったことだろう。その悲しみの上に、今の我々の暮らしはある。確かに地球温暖化は問題だが、それをもたらしたのは人間の利己的な強欲ではない。「そうしなければ生きていけなかった」のだ。地球温暖化の最大の原因は、我々を生み出したにもかかわらず我々に適切な環境を用意せず、それを破壊しなければ生きていけない「自然」にこそあるのだ。

※1 

西日本は明日から極寒 福岡では2016年大寒波以来の低い最高気温に - ウェザーニュース

※2 冬眠中の動物は除くため「ほぼ」を付け加えた

※3 

ほむら「魔法少女の存在がバレた」 : SSまにあっくす!

こんなまどマギSSにまで「神話」が蔓延っているのだから事態は深刻である。もちろん私自身もまた他人のことをとやかく言える立場にはない。小学校以来の「環境教育」によって長らく受容してきたのだから。

※4 

最終氷期 - Wikipedia

「アジアとアラスカの間にはベーリング陸橋が形成され、ここを通って北アメリカに人類が移住したと信じられている」

 

・「現実」はどこから来たのか、「現実」はどこへ行くのか

 神ではない我々人間は、無から有を作り出すことはできない。ならば「現実」も、それがいかに根も葉もないものであったとしても、何らかの「有」から作り出されてきたものだ、ということもまた事実である。いかに「現実≠事実」であるとはいえ、その「現実」に事実が全く含まれていないわけではないのだ。では現実を現実たらしめる部分、すなわち「事実でない部分」は、いったいどこから来たのだろうか。

 それは、「願い」である。世の中はこうあってほしいという「願い」、未来はこうあってほしいという「願い」が事実と結びつき、我々に「現実」を見せているのだ。これは1月1日の「所見」に書いた「自己言及の定義化」から読み取ることができる。この場面の場合、そもそもなぜAは

「私は、他人の話をよく聞く人間です」

と言ったのか。それはAが、

「自分は、他人の話をよく聞く人間でありたい」

と思っているからである。

 

 重要なのは、「それ自体は間違っていない」という点だ。確かに、他人の話をよく聞くことは良いことである。烏賀陽弘道は「フェイクニュースの見分け方」(新潮新書、西暦2017年)でファクトチェックにはフェアネスチェックの視点を持つことが必要だと述べているが、他人の話をよく聞く人間はフェアネスチェックの視点を持ちやすいと言える。願い自体に問題はない。

 私が思うに、人間は元々「良いこと」を実行するようにできている。たとえば戦争のとき、すべての国家は自国にこそ正義があると主張する。自国の軍事行動は「良いこと」だと主張するのだ。なぜそうしなければならないかと言えば、それは人間が「良いこと」を実行するようにできているからだろう。それを批判する人も居るが、それもまた人間が「良いこと」を実行するようにできているからである。なぜそうなっているのかと言えば、それはそもそも「良いこと」とは人間が長い歴史の中で「実行すべき」と判断してきたことの集合だからだろう。「良いこと」は万能ではない。事実との間で齟齬や摩擦を起こすこともある。そこに「現実」の起源がある。だがしかし、それは齟齬や摩擦が悪いのであって、「良いこと」それ自体が悪いわけではない。ならばそこから立ち上がってくる「現実」は批判するとしても、それを生み出した「良いこと≒願い」は肯定されるべきだろう。「願い」は「現実」を生み出す厄介な代物ではあるが、しかしそれ自体は否定すべきではなく、活かす道を考えるべきなのだ。

 

 

・「願い」をどのように活かすか

1.「願い」と「現実」をわけ、純粋な「願い」を認識する

2.純粋な「願い」と「事実」を照らし合わせ、「あるべき未来」を模索する

 「純粋な願い」とは、我々の根幹たる「大元の願い」のことである。いささか語弊があることを承知で言えば、「理由なき願い」と言っても良いかもしれない。たとえば、「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問は色々なところで提示されるが、なぜこれが疑問としてそこかしこで提示されるかと言えば、「人を殺してはならない」という規範≒良いこと≒願いには特に理由がないからである。理由がないにもかかわらず、古くはカインがアベルを殺したらカインは神に追放を宣告され、モーセシナイ山で授かった十戒にも「殺すことなかれ」と明記され、現代においても世界中の国家が刑法に殺人罪を導入しているのである。これこそ「純粋な願い」の代表例だ。

 一方で「純粋でない願い」とは、すなわち「表層的な願い」である。たとえば、「ユダヤ人を虐殺したい」と願っている人が居るとする。なぜその人物はそのような願いを抱いているのか? そもそもユダヤ人とは生物学的な類別ではなく、信仰する宗教による類別である。宗教が人間の知性によって生み出されたものである以上、それを信仰する者を虐殺したいと願うこともまた、何らかの知性の働きによるものだと考えるのが妥当だ。知性の働きには何らかの理由がある。その理由とは「純粋な願い」と「事実」のキメラ、つまり「現実」である。「現実」を理由とする限り、その願いは純粋なものではない。それが立脚する「現実」を作り出している「願い」が存在するからだ。表層的な願いが「良いこと」だとは限らないが、純粋な願いはほとんどが「良いこと」であろう、と私は思っている。ここで例示した「ユダヤ人を虐殺したい」という願いだって、その根幹にあるのは「平和に暮らしたい」とかそういうものだろう。ユダヤ人を虐殺することは良いことではないが、平和に暮らしたいと願うことは良いことである。その純粋な願い自体は肯定されるべきであり、それはそれとして保持するべきである。

 

 

 そしてそうして純粋な願いを取り出したら、それを「事実」と照らし合わせる。そうして純粋な願いを可能な限り純粋な形で実現する方法を模索する。そして出てきた答えが「あるべき未来」である。私は1月1日の「所見」に「あるべき未来」と書いてから、これをどうにかして漢字2文字で表現しようと考えてきたが、最も適切な言葉は「希望」かと思う。つまり「純粋な願い」と「事実」を照らし合わせて見えてくるあるべき未来を、私は「希望」と呼びたいのだ。

 

 「(純粋な)願い」と「希望」の総称が「理想」である。「事実」は「真理」と言い換えることができる。「理想」と「真理」を合わせたものが、現実と対峙するもの、すなわち「空想」である。図示すると以下のようになる。

 

事実 → 真理 → 空想

願い → 理想

希望

 

・希望と現実の違いは何か

 さて私は、「現実とは願いと事実のキメラだ」と言った。一方で、「事実と願いを照らし合わせたものが希望だ」とも言った。では「現実」と「希望」の違いは何か。

 

 実は、そこに本質的な違いはない。

 

 これが人間の限界だと言えるだろう。そもそもの話、現実≠事実であることに気付いたのは私が初めてではない。たとえばソクラテスは明らかに現実≠事実であることに気付いていた。別にそれ自体は特殊なことでも何でもない。そして人類は、現実=事実にしようと奮闘してきた。しかし今でも依然として現実≠事実である。これは未来永劫変わることはないだろう。いや、むしろ変わってはならないとも言えるだろう。もし現実=事実に”なってしまったら”、それはもはや人間ではない別の何かであると私は思う。

 

 これは断言するが、空想委員会が現実と対峙したところで、何か革命が起こるわけではない。空想委員会は革命を起こすための組織ではない。空想委員会はむしろ反革命の団体である。それは空想委員会の組織目標たる「現実からの解放」に現れている。注意して欲しいのは、「現実の革命」ではないということである。我々は「現実=事実」にしようとは思っていない。むしろ事実と理想を抱き合わせて「空想」という名称を与えることによって、「現実≠事実」という図式を固定化しているのだ。空想委員会が目指すのは、現実≠事実という図式を固定化した上で、現実から離れることである。そして現実を相対化することである。その結果として、我々は我々の希望を提示する。だがしかし、それがすべての人間にとっての希望だとは委員長たる私自身思っていない。希望を巡って対立すること、争うこともあるだろう。そもそもの話、私の中でも希望を巡る争いがあるのだから。空想委員会が対立や争いを消し去ることはない。むしろ空想委員会が対立や争いの発端となることもあるだろうと思っている。

 では空想委員会に何の意味があるのだろうか。その問いは、「人類に何の意味があるのだろうか」という問いと同じである。人類の進歩は、あるときある個人あるいはある組織が何かとてつもない革命を起こして成し遂げてきたわけではない。多くの人々、多くの組織が、わずかずつ、ほんのわずかずつ願いを成し遂げることによって前進してきたのだ。空想委員会は、その歩みを継続する。空想委員会もまた、過去の多くの人々、多くの組織と同じように、またこれからの世界を生きるであろう多くの人々、結成されるであろう多くの組織と同じように、わずかずつ、ほんのわずかずつ人類の進歩を成し遂げることを欲する。私はそれこそが「希望」であると固く信じている。

 

・「希望」と「現実」の違いは何か(2)

 同じものに別の名前がつくことはよくあることである。多くの場合、そこには微妙なニュアンスの違いが発生している。私は前回の「所見」で希望と現実に本質的な違いはないと書いたが、しかしニュアンスの違いはやはり存在しているのである。どこに違いがあるのかは、「『願い』をどのように活かすか」に書いた次の文言が指し示している。

「そうして純粋な願いを可能な限り純粋な形で実現する方法を模索する」

「可能な限り純粋な形で」とは、「なるべく『純粋な願い』に抵触しないようにして」という意味である。たとえば、「人を殺してはいけない」とかそういうものを可能な限り守って、ということである。

 つまり「希望」とは、「現実」を可能な限り「純粋な願い」に近づけたものだ、ということができる。「希望」を「空想」と置き換えても、同じことが言える。

 

・「現実」の立脚するもの

 「空想」は「真理」と「理想」に立脚するものだ、と書いたが、では「現実」の立脚するものは何だろうか。「真理」「理想」「事実」「願い」「希望」の5つの言葉を使わずに考えてみたい。

 そうすると、現実とは「虚構」と「妄想」に立脚するものだ、と言えるだろう。「虚構」とは、デジタル大辞泉は第1に「事実ではないことを事実らしくつくり上げること」だとしているが、ここでは「複数の意志によって事実らしく作り上げられ、事実として人々に共有された事実ではないこと」、すなわち「社会的常識から事実を除いたもののこと」を表している。また「妄想」とは、同じくデジタル大辞泉は3番目の解説として「根拠のないありえない内容であるにもかかわらず確信をもち、事実や論理によって訂正することができない主観的な信念」と解説しているが、ここでは「個人の内面に強固に作り上げられた、事実に基づかない信念」のことを表している。「虚構」は「社会的に共有されたもの」、「妄想」は「社会的に共有されていない」もの、と区別することができる。両者に共通することは、「事実でないにもかかわらず、事実だと信じられていること」である。図示すると以下のようになる。

 

現実 ← 虚構

       妄想

 

 また空想と対峙させると以下のようになる。

 

事実 → 真理 → 空想 ⇔ 現実 ← 虚構

願い → 理想               妄想

希望

 

・社会的であること――現実の本質――

 「現実」の立脚する「虚構」の解説で、「社会的」というワードが飛び出した。これは「空想」の解説ではついぞ出てこなかった言葉である。私はここに、「現実」なるものの本質があるように思う。

 そう、「現実」とは「社会的なもの」、すなわち「多くの人々に受容されているもの」なのだ。「妄想」も社会的に共有されていないとはしたが、しかし人間は無から有を作り出すことができない以上、なぜ「妄想」が存在するかと言えば、それは「虚構」に影響を受けた結果だと言えるだろう。そう考えると、「妄想」もまた社会的なものだと言える。

 対して「空想」は、それはいくら「真理」や「理想」に立脚しようとも、社会的に共有されていないものである。たまたま「現実」と一致した点を除けば、すくなくとも現時点においては社会的に共有されていない。「空想」とは個別的、個人的であると言える。

 

 だからこそ、前回の「所見」で空想委員会の活動の結果として「我々は我々の希望を提示する。だがしかし、それがすべての人間にとっての希望だとは委員長たる私自身思っていない」と書いたのだ。空想は個別的なものでしかあり得ない。空想委員会とは、社会に蔓延る「現実」と我々の持つ「空想」が対立したとき、あくまで「空想」の側に立つ組織である。また、我々自身の内部において「空想」が対立することを認める組織でもある。それこそが「現実からの解放」である。だから空想委員会は、もちろん人類の根源的な願いの一つとして平和の実現をも目指してはいるが、しかしあらゆる対立をなくすことはなく、むしろ空想委員会自身が対立の発端となることもあるだろう、とするのである。

 

・「空想」の意味

「なぜ、『真理』に立脚し『現実』と対峙するものを『空想』と呼ぶのか」

 空想委員会についての解説を聞くとき、ほとんどの人はこう思うと思う。だがしかし、今日の「所見」でこの答えがだんだんわかってきたかと思う。ここでコトバンクに収録されている各辞書・事典から「空想」の解説を抜き出してみる。

ブリタニカ国際大百科事典

「(1) fantasy 心理学的には,比較的非現実的でかつ創造的な想像活動の一形式。直面している現実の課題状況を直接解決しようとするような目的性をはっきりともたずに,そのときの感情や欲求,その他,気まぐれな内的状態によって方向づけられて,新しい観念や心像をつくりだす働きのこと。 (2) fancy 文学では中世以来想像とほぼ同義に用いられるが,区別される場合は,創造的芸術活動として位置づけられる。ロマン主義時代にいたって,創造の源泉を理性以外に求める必要が生じると,空想への関心が高まった。イギリスでは 19世紀初頭 S.T.コールリッジが,空想を統一原理なしに心象を並べる力と定義し,心象を融合・統一する創造作用としての想像 (想像力) と峻別して下位の精神活動とした」

デジタル大辞泉

「[名](スル)現実にはあり得ないような事柄を想像すること。「空想にふける」「空想家」」

世界大百科事典 第2版

「現実とはかけ離れて新しく作り出された独特の想像のこと。類縁の言葉に夢想,白昼夢,妄想,幻想などがある。空想は非現実的,創造的,独自的などの特徴をもつ思考の表象作用であるが,多分に視覚的・画像的傾向がある。正常成人の覚醒思考でも見られるが,夢や薬物中毒その他の精神病的状態で顕著であり,天才,精神遅滞,幼児,未開人の思考にもみられる。空想は音楽,絵画,文学などの芸術や哲学,宗教から発明,発見などの科学的分野にまで関連しうる」

日本大百科全書(ニッポニカ)

「現実ではない虚構の世界をあれこれ思いめぐらすことであるが、空想には二つの異なる側面がある。その一つはまったく非現実的で「幻想」illusionとよばれるものに近く、他の側面はより現実的で「想像」imaginationとよばれるものに近い。幻想の意味で空想が取り上げられるときには、現実に満たすことのできない願望を空想活動によって満たすものと考えられる。この意味では、空想と願望は密接な関係をもっている。投影法的な心理検査法の一種である主題統覚検査(TAT:Thematic Apperception Test)では、ある状況を描いた刺激図版を提示して空想的物語をつくらせるが、これは空想のなかに願望がよく現れることを利用して、心理的検査を行おうとするものである。昼間に抱く白昼夢とよばれる幻想においても、夜の夢においても、願望は幻想的ないしは幻覚的に充足されている。だから、夢は願望を充足するものといわれる。

 これに対して、想像とよばれる空想では、空想そのものが構想力をもつことが強調され、過去経験の単純な再生や再認とは区別される。また、現実に縛られた考えしかできず、想像力がないからいい考えが浮かんでこないというときには、想像力は創造力をも意味しており、現実から空想に逃避するのでなく、空想によって現実を把握しようとする働きがある。幻想と想像は空想の両極端をなすものであり、空想のなかにはこの二つの特徴が含まれている。だから心理治療の観点からいえば、空想は症状として現れるものであると同時に、症状をつくりだすことによって治癒しようとする試みであるということができる。精神分析は、方法論的にいえば空想の研究であるということができる。

[外林大作・川幡政道]

フロイト著、高橋義孝訳「詩人と空想すること」(『フロイト著作集3』所収・1969・人文書院)』▽『チャールズ・ライクロフト著、神田橋条治・石川元訳『想像と現実』(1979・岩崎学術出版社)』▽『ジャン・ラプランシュ、J・B・ポンタリス著、福本修訳『幻想の起源』(1996・法政大学出版局)』▽『ロナルド・ブリトン著、松木邦裕監訳、古賀靖彦訳『信念と想像 精神分析のこころの探求』(2002・金剛出版)』」

精選版 日本国語大辞典

「〘名〙
① (━する) 実際にはありそうもないこと、実現しそうもないことなどをあれこれ想像すること。
※当世商人気質(1886)〈饗庭篁村〉五「空想といふものの貴といのは幾らか実地に似寄りて立派な普請をする下図のやうなものなればこそなれ」
※郊外(1900)〈国木田独歩〉二「例の如く空想にふけり乍ら歩いた」
② 仏語。空(くう)に執着する考え。空見。〔摩訶止観‐五・下〕」

世界大百科事典内の空想の言及

「【幻想曲】より
…ファンタジーの訳語で,作曲者が伝統的な形式にとらわれず,幻想のおもむくままに自由に作曲した作品をさす。内容は,国,時代によって複雑かつ多様であるが,三つの主要なタイプに大別される。(1)16~17世紀には,対位法的書法によるリュート鍵盤楽器器楽合奏のための作品の名称として,フーガの前身をなすリチェルカーレとほぼ同義に用いられた。(2)幻想性,即興性を強調した幻想曲本来の姿に密着した作品で,J.S.バッハの《半音階的幻想曲とフーガ,ニ短調》,モーツァルトの《幻想曲,ニ短調》,ベートーベンの《幻想曲,作品77》,シューマンの《幻想小曲集,作品12》,リストの《パガニーニの〈鐘〉による華麗な大幻想曲》など。…

【ファンタジー】より
ギリシア語のファンタシアphantasia(〈映像〉〈想像〉の意)に由来し,一般に幻想を意味するが,文学においては夢想的な物語全般に冠せられる名称。童話,妖精物語,メルヘンなどと呼ばれる従来の文学ジャンルに,深層意識やシンボリズムなど現代的な意義が付されたもので,魔術や妖精といった超自然の要素が実際に機能する世界を扱う。とくに1960年代以降,社会秩序や権威を支える認識基盤に対する反抗が世界的に盛りあがるにつれ,若い読者層に歓迎されだした。…

※「空想」について言及している用語解説の一部を掲載しています」

 

 空想には3つの性質がある。

1.非現実性

2.個別性

3.創造性

重要なのは、「1」の非現実性と「2」の個別性があるからこそ、空想は自由であるということだ。そして空想は自由なればこそ、時に真理を暴き、時に新たなものを産む「3」の創造性を発揮し、人類の進歩に貢献していくのである。空想は共有されない。時に迫害を受け、時にこれ自体が対立を生じさせる。だがしかし、そうだからこそ「真理」と「理想」を確実に保存できるのは「空想」の中だけなのだ。そこに積極的な意義を見出したのが私であり、そして作った組織が空想委員会なのである。

 

1月9日

・個人的な真理と、社会的な嘘

空想=真理+理想/個人的なもの

現実=虚構+妄想/社会的なもの

 

 大澤真幸は昭和までの時代を「虚構の時代」と呼ぶ。「大きな物語」という「大きな嘘」の上に現実世界が形成されていた時代を表す、非常に的確な表現と言えるだろう。


 

・事実(ファクト)の時代

 大澤真幸に続く批評家、東浩紀は「虚構の時代」の次の時代を「動物の時代」と名付けたが、それに対して大澤真幸は賛同しつつも「反現実で現実を表して欲しかった」とも述べている(「自由を考えるNHKブックス、西暦2003年)。だが、東浩紀が結局「動物の時代」を言い換えなかったように、大澤真幸も結局は「動物の時代」を受け入れているように、私も「動物の時代」の言い換えを反現実で行うことには賛同できない。

 というのも、もはや現実は反現実でなど構成されていないからだ。前回の「所見」に次のような一節があったことを覚えているだろうか。

「人類は、現実=事実にしようと奮闘してきた」

しかし今でも依然として現実≠事実である。これは未来永劫変わることはないだろう……と私は書いた。それはそうだろう。しょせん我々は水槽の脳に過ぎないかもしれない存在である。そんな我々がいかに注意深く観察・観測を行ったところで、現実=事実だと思い込むのは単なる思い上がりである。人間の認知力には常に神によって限界が定められており、我々が人間である限り現実≠事実だとわきまえておかなければならない。

 とはいえ、我々が水槽の脳であったとしても、水槽の管理者=神が我々に閲覧を許可した「真理」は確かに存在する。それこそが、我々が日々暮らすこの現実世界、三次元空間、物理世界、つまり「宇宙」である。

 「宇宙」は神が我々に閲覧を許した「事実(ファクト)」である。その実態は水槽に浮かぶ我々の脳に送り付けられてきたデータに過ぎないかもしれない。地球も、月も、太陽も、すべてデータに過ぎないかもしれない。しかし、それがたとえデータであったとしても、神はこれらを我々自身にはデータとわからない形で、すくなくとも我々が通常取り扱うような形式でのデータだとはわからない形で、我々に対して公開しているのである。

 そして人類は、「現実=事実(ファクト)」にすることには、次第に成功してきたのではないだろうか。たとえば、人類は今ようやく、同性愛者の存在を社会的に認めようとしている。このように、今まで存在しないことにされてきたもの、排除されてきたものが、今現実の世界に登場し始めているように、私には思えるのである。また、最近「フェイクニュース」という言葉が盛んに聞かれるようになったが、そもそも現実世界を構成してきたのは虚構(フェイク)だったはずであり、誤解を恐れずに言えば、すべてのニュースはフェイクニュースだったわけである。それが今になって社会問題として認知されきた、ということは、いよいよ人類が虚構(フェイク)によって構成された世界から脱しようとしている、ということではないだろうか。

 もちろん、それは一方で混乱や逆作用を引き起こしてはいる。今日本の大人達が絶望しているのは、共産主義革命という「虚構(フェイク)」の希望が失われたからだ。だから人々は逆に新自由主義に邁進し、小泉純一郎鳩山由紀夫安倍晋三といった政治家を内閣総理大臣に祭り上げてきた。アメリカでも問題は同じだ。ドナルド・トランプが大統領に選ばれたのはフェイクの希望が失われ、ファクトの絶望に人々が直面した結果なのだ。

 だが、これは悪いことなのか? 私はそうは思っていない。確かにドナルド・トランプは死者まで出したが、しかし長期的にみれば更なる人類の進歩をもたらすのではないだろうか。論理的な予測はまだできないが、感覚的なビジョンとしてはほとんど確信していると言っても良い。

 

 フェイクは希望を見せるが、ファクトは絶望を叩きつける。だが本来希望は、事実という絶望の先にこそあるものだ。

 

 

・空想委員会の時代性

 空想委員会の組織目標たる「現実からの解放」もまた、現代を「事実(ファクト)の時代」と捉えれば、実に時代を捉えたものだということがわかるだろう。

 空想委員会は、第1に事実(ファクト)の時代を促進する。第2に虚構の時代を支えてきたものでもある人々の「願い」を保存する。そして第3に「事実(ファクト)」と「願い」の掛け合わせによるあるべき未来像、すなわち「希望」を提示する。この希望はフェイクの希望ではない。ファクトの希望である。これはフェイクの希望ほどには人々を熱狂させないものだろう。だがしかし、これはこの世という地獄の業火をいくらか弱めるものである。それは火災にスポイトで立ち向かうものかもしれない。だがいつか、ほんのわずかにでも火災を弱める可能性のあるものである。

 

 同時に、現実の猛攻はより一層激しくなるだろう。だからこそ、我々が必要になるのだ。現実が人々を、過剰に苦しめることのないように。