今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

人間不信の原点を考える

 処方された薬の効果か熱は36℃台まで下がったが、相変わらず頭が重く喉が痛くてだるい。多分これがしばらく続くことになるだろう。

 

 さて今回のブログ記事は前回に続く形で、私の人間不信がどこから来ているのかを考えてみたい。最初から結論を書いておけばそれは

「わからない」

というのが本当のところである。なぜ私がここまで人間不信を抱いているのかは実際のところよくわからない。よくわからないが、しかし思い当たるものがないわけでもない。

 

 何が思い当たるかと言えば

家庭内での孤立

である。

 私は家族の中に趣味や価値観を共有できる者が居ない。そのため私は長らく

「あなたの言っていることは理解できない」

と言われ続けてきた。どうも世間一般では絶対的な味方の代名詞と言えば「母親」らしいが、私も母には大変甘えてきた(→今でも甘えている)面もあるものの、とはいえその母も長らく私が趣味でも時事問題でも何か話そうとするたびに

あなたの言っていることはお母さんにはわからないから、他の人に話した方が良い

と言われ続けてきた。これが私の人格形成に深刻なダメージを与えていることは明白だろう。つまり家庭内でのコミュニケーションが育まれていないため、私のコミュニケーション能力が適切に育まれていないというわけである。

 これが変わり始めたのはわずか3年前のことである。私がようやく精神科通いを開始し、その診療の席に私が母をあえて同席させたことによる。この歳になって母と医者通いとはどうなのだろうかとも思うが、私の親子関係はこうでもしてやり直していかないといけないものなのだろうと思っている。

 

 もちろん問題は母だけではなく、そして考えれば考えるほどに込み入った話となる。私が少し思うのは、私の両親はなまじ「旅行が好き」であるからこそ、私の交通趣味を理解できなかったのではないか、ということである。一応鉄道が好きなことくらいは理解されているから色々と旅行には連れて行ってもらったが、そのためこの年代では珍しくブルートレインへの乗車実績が豊富なのは良いのだけれど、とはいえそう言う観光資源として既に社会的に受容されているものではない、

何の変哲もないただの日常の中を走る定時乗合交通に乗りまくるのが好き

というのはなかなか理解できるものではなかったらしい。これもようやく理解され始めたのはつい最近のことである。

 

↑私の家族に限らず、私の趣味は理解しにくいものなのだろうとは思う。Twitterで全国公共交通巡りを実況していても一般的な観光地やローカル鉄道と比較してこういうローカル路線バスは載せてもさっぱり反響がないのが常なわけだが、私の趣味の中核は一般的な観光地や観光列車のようなものではなくむしろこちらの方なのである。

 「旅行好き」を自称して観光地やローカル鉄道のツイートばかりに反応してこういう地味な路線バスの話題には見向きもしないフォロワーも今の私のアカウントにも居るのだけれど、そう言う人は一体私に何を期待しているのだろうかとは正直思う。

 

↑6/1の「のりのりバス京都」では桂坂ニュータウン内の京都市営バス大減便のツイートと観光特急のツイートでは「いいね」の顔ぶれが全く違うのであるが、私にとって好印象なのはもちろん桂坂の方に反応を下さるような方であることは言うまでもない。他人の趣味趣向をとやかく言うのは私の主義に反するが、ただ京都市営バス6/1改正で観光特急にしか興味がないというのは、つまりその人物はいくら旅行好きを名乗っていてもそれは単に「消費」の対象としてその土地に関心を持っているだけであり、その土地に住む住民の暮らしには何ら興味がないということだろう。私はそのような人間にはなりたくないものである。

 

↑なお京都市営バスの観光特急については、私のツイではあえて好意的に書いたものの、TAKA Kawasaki氏によりこのように既存の観光客向け路線バスとの整合性の無さが既に指摘されているものである。TAKA Kawasaki氏は北陸新幹線大阪延伸の件でも必読レベルの内容を繰り返しツイートしておられるため私も微力ながらたまにRTするなどしているけれど、なぜかあまりバズらないのが不思議。結局人々は地味な「問題の真相」ではなく、派手な空中戦を楽しんでいるだけなのだ……と私はさらに人間不信を募らせていくわけである。

 

 相変わらず頭が重いこともありまとめに入りたいが、この記事をどうまとめたら良いのかは私にもわからない。とりあえず人間不信についてはどうにかこうにか低減させつつ、それがあったが故に培われたものを活かしていきたいとは思う。