今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

世界観を作り直す(1)

「人は事実なき生き物である」

 このフレーズは前回の記事にも現れたものであり、人生再興(空0年【西暦2019年】~)以後の私の世界認識の根源を形作るものである。

 だがそれは良いとしても、では我々が日々それを事実であると錯誤して認識している「現実」なるものは一体どこから出てきたのだろうか。私はそれは「欲望」から生じるものだろう、と思っている。世界はこうなっていてほしいと思う「欲望」が我らの現実を作り出すのだ。そこで「現実からの解放」を成し遂げるための一つの方法として、その抗体として己の欲望から解放された「世界観(物語)」を、あらかじめ脳内に構築しておく、という方法が一つ考えられる(※1)。

 

※1 これは公教育の根源的意義にも結び付いてくるだろう。日本国憲法第26条第2項に「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務」がなぜ明記されているのかと言えば、それはやはり人生の最初期において珍妙な世界観を構築してしまっては後々の人生に悪影響を及ぼすためである。残念ながら私が空想委員会などという組織を作り「現実からの解放」などということを言い出さなければならなくなった背景にはその普通教育(初等及び中等教育)の過程で受けた負の影響も多分に含まれるものであり、また今後は情報化の進展によって初等及び中等教育が人生に及ぼす影響は徐々に小さくなっていくものと思われるが。

 

 そこで今私が取り組んでいるのが「世界観の再構築」である。かつてTwitter旧アカウントにおいて、私がバイブルとして挙げたものが2つあった。1つは狸先生の「新しい新幹線路線の今がわかるページ」であり、もう一つは大石久和「国土学再考」(毎日新聞社、2009年)である。旧アカウントの時代には狸先生からの影響を存分に受けていたものであるが、決して狸先生は悪くないものの私の方が上手く使いこなせるだけのリテラシーを持ち合わせて居なかった。今の私は「国土学再考」の方を基礎として、世界観の再構築を試みている。

 

www.tanukiacademy.com

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↑随分とさっぱりしたものだが、かつては狸先生の多方面にわたる分析・批評に満ち溢れていたものである。Twitterを始めてからは私の旧アカウントをフォローして下さったのも懐かしいが、しかしそれによってこちらのページの内容はかなり整理されてしまい、また先生ご自身もごく普通のTwitter知識人になってしまったというのが失礼を承知で申し上げる正直な感想である。

 

↑「国土学再考」は楽天市場への出品はないようであるから「事始め」の方を貼っておく。「再考」はAmazonには中古品が出品されている。

↑今から読むのなら中公新書もおすすめ。

 

 「国土学」とは今学際的分野として創設が目指されている学問分野であり、人類がこれまでに行ってきた「国土への働きかけ」を歴史的あるいは国際的に対比しながら考えてみよう、というものである。この分野は人口減少と都市一極集中、地球温暖化による異常気象の常態化が進む今の時代にあって特に求められるものであるだろう。当然交通の未来を考える上でも全く無視することのできないものであり、私が地理学的分野にも広く関心を持たざるを得ないのは方面からの影響もその背景にあるのである。

 

https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t250-7.pdf

↑西暦2017年には日本学術会議による提言の取り纏めも行われている

 

 「国土学再考」が西暦2009年に出版された背景にあるのは、あの当時に吹き荒れていた行革ブーム・平成改革ブームの嵐の下、特に公共事業が「無駄なもの」として殊更に槍玉に挙げられていたことが挙げられるだろう。実際「コンクリートから人へ」を掲げて民主党が政権与党の座に就いたのがまさにこの西暦2009年である。今では立憲民主党支持者をやっている私であるが、あの政権交代時の民主党のマニュフェストは全くおかしなもの、出鱈目なものだとしか思えなかった。私がこのマニュフェストを読んだのは政権交代選挙の直前であるが、これが今度の選挙で政権与党になろうとしている政党の公約であるとは、はっきり言って日本の大人はバカだらけなのではないかと、当時中学2年だった私は真剣に思ったことを鮮明に記憶している。それが空想委員会を発足させるきっかけの1つにもなったのである。そしてそれから15年の年月が経ったわけであるが、その中で私が学び経験したことを総合すれば、結局2009年に私が思ったことは全くの事実であったと、そう結論付けざるを得ないというのが私の結論である。ただ今では私もそのうちの1人に加わった「日本の大人達」の名誉のために言っておけば、決して日本の大人達が世界的に見て特段にバカなのではなく、そもそも人類そのものが事実なき生き物なのであり、全世界で人類は極めて頓珍漢なことばかりやっているものであり、相対的に見れば日本は相当まともな方の国である。ただそれはあくまでも相対的なものでしかない、というところは強く釘を刺しておきたいところであるが(※2)。

 

※2 ただ様々な不満点はあれど私が日本から出ていかないのは、相対的に見て日本という国は他国と比べれば相当まともな方であり、「現実からの解放」にも比較的近いところに居ると評価しているから、というところももちろんある。

 

http://archive.dpj.or.jp/special/manifesto2009/pdf/manifesto_2009.pdf

 

 このマニュフェストの特徴は何と言っても「負担軽減ばかりをうたっており、様々な政策を実現すれば当然発生するであろう費用負担については【埋蔵金の活用】等曖昧に済まされている」、というところだ。たとえば交通分野では高速道路無料化とガソリン税減税が目に付くところであるが、その財源はどこから持ってくるのだろうか。前者は2.5兆円、後者は1.3兆円を要するとされているが、合計で3.8兆円にもなるこの政策を賄える財源になりそうなものは庁費等・委託費・施設費・補助金の見直しで得られるとされる6.1兆円と、「埋蔵金」の活用で得られるとされる4.3兆円の2つしかない。この2つはそれほど継続的かつ大量の財源として期待できるものなのだろうか。さらに言えば4ページにおいて埋蔵金のすぐ下に記載されている「政府資産の計画的売却」(0.7兆円)は明らかに一過性の財源でしかなく、継続性には全く乏しいものである。平成25年度に実現するとされている16.8兆円の財源確保はその一過性の財源も含んだものであり、一方で所要額の方の16.8兆円は明らかにそれ以降毎年かかることになる支出である。一体このギャップはどう埋め合わせるつもりなのだろうか。今見ても不思議である。

 また公共事業については川辺川ダム・八ッ場ダムについては「中止」と明記されているものの、道路整備については「費用対効果を厳密にチェックしたうえで、必要な道路を造る」とされており、これ自体は至極真っ当なことであると言えるが、ただ費用対効果分析は自民党政権下でも行われており、それをどう変更するというのだろうか。そしてまた気になるのは高速道路無料化・ガソリン税減税は必然的に交通分担率における自動車の増大を招くことになるが、その弊害はどう埋め合わせるのだろうか。何も対策をしなければたとえば地球温暖化対策には明らかに負の影響をもたらすことになるが、そちらの方では環境対応車の購入補助を進めるとされているものの、それでどこまでの対策効果が見込めるものだろうか。世界で取り組まれている乗合交通の利用促進とは異なる方向を向いているのは一体なぜなのだろうか。疑問は尽きない。

 

 交通の話で言えば面白いのは、民主党自民党より左派であるとされているものの、世界的に見れば左派が進めるとされる乗合交通の整備推進とは違う方向を向いていることだ。もちろん日本の左派がすべて乗合交通に不熱心かと言えばそんなことはなく、たとえば辻元清美氏が国交副大臣に就いたときの会見では乗合交通(公共交通)にも割と熱を込めて触れられている。

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 ただ全般的に見れば、日本左翼は乗合交通の整備には不熱心であると言わざるを得ない。そればかりか彼らは時代の変化にもかかわらず、乗合交通については旧態依然のままでの維持存続を主張する傾向にある。これは民主党よりも日本共産党においてより顕著であり、彼らは整備新幹線や宇都宮LRTの建設には反対する一方でそれらよりも明らかに需要量が低く社会的役割を期待し得ないローカル線については現状のままでの存続を主張する。そしてそのローカル線である近江鉄道の存廃問題を契機として、まさにそのローカル線を維持するための財源として滋賀県が導入を検討している交通税の創設にも彼らは反対しているのだ。一体彼らの論理構造はどうなっているのだろうか。私自身立憲民主党支持者として、安倍政権下では(これでも)日本共産党を含む野党共闘を支持した者として日本左翼を観測した結果から言わせていただくと、日本左翼には「原理主義者」が多いと感じる。たとえば車趣味者なら交通手段は自家用車さえあれば良いのだと言い放つ「車原理主義者」に、鉄道趣味者(→左翼には懐古趣味者が多い)ならどんなに利用の少ないローカル線でも無限に予算を投入すべきであるとする「鉄道原理主義者」になってしまうのである。そして彼らの一致点は「弱者の救済」であり、そしてその弱者には「時代に取り残された人々」が多分に含まれるが故に、まさに時代に取り残された人々が使うであろう交通機関の維持存続を目指すという点では良くも悪くも一致してしまうのである。またもう一つ挙げられることとしては、今の日本左翼は日本において左翼勢力が幅を利かせた1980年代の「動態保存」のような状態にもなっており、あの時代に肯定的に喧伝された「より良い未来」を、それからの時代の変化にもかかわらずほぼ再検証もすることのないままに今なお実現させようとあがいているのである。この傾向も鉄道政策へのスタンスに如実に表れており、だからこそ彼らにとって「より良い未来・輝かしい未来」を担うのは自家用車と飛行機なのであり、鉄道は時代遅れで終わりゆく乗り物なのであるからそれに投資するなどという「退廃的なこと」は決して認められてはならないのであり、しかしローカル線は高校生と高齢者という社会的弱者の足であるからそれを守れ、ということになるわけである。この発想で超電導リニア新幹線まで語っているのが日本左翼の現状であり、世界的な再整備の流れも知らなければローカル線は高校生も高齢者も居なくなって運ぶもの自体が消滅しつつあることも知らないのではないか(※2.5)と思わずにはいられない。

 

※2.5 さすがにインターネットをやっているような人々はある程度はアップデートされてはいるが、しかしそのアップデートの方法がまた恣意的なのだ。この辺りの本質は(ネット)右翼も陰謀論者も変わらない。結局ネットの世界においても左派が知識人面をしていられるのは学者・研究者も多く専門分野とその周辺分野ではある程度確かなことを語ることができるからでしかなく、その点を含め左派であれ何であれどの陣営も本質的には何も変わらないと思わざるを得ない。全体的なバランスにおいて最もマシなのは左派が”ほんのりウヨ”と称する穏健自民党支持層だろう。

 

 私自身政治的には左派ではあるが、しかしこのような日本左翼の明後日の方向への過激さと前時代性は強く認識しており、だからこそ私は日本の”右傾化”や自民党の支持率の高さが必ずしも愚かなこと、批判すべきことだとは思っていない。ではなぜ私が立憲民主党支持者をやっているのか、私自身不思議に思えても来るのであるが、それもそれで様々な事情があるのだと今は言葉を濁しておく(※3)。

 

※3 その点については多分この記事を読めば朧げに見えてくるはずである。そしてこれはまた朧げにしか語ることのできないものでもある。

 

 ここまで長々と書いてきたのはこの記事の目的が国土学についての解説ではなく私の世界観の再構築であるからであり、それは今後も変わらないことは今更ながらお断りしておきたい。ただそろそろ国土学の話というか、民主党を引き合いにして進めたかった公共事業の話を始めようかと思う。

 私はどんな事業であれ費用対効果分析において正便益が出た事業は推進すべきである、というのが基本的な立場であり、また日本においては土地所有の問題等により社会的に公共事業が進めにくくなっている側面もあるため、その点についてはある程度人々の自由を制約してでも公共事業を進めやすい法整備を行うことも検討すべきであると考えている。基本的人権には自由権社会権があるわけであるが、私は文明の成熟した先進国においては、自由権よりも社会権を重視すべきであると考えている。

 なぜ社会権なのか。それは文明というものが、国家というものがいかにして発生し必要とされているかを見れば明らかである、というのが私の考えである。トマス・ホッブズは「リヴァイアサン」の中で人類は万人の万人に対する闘争を終わらせるために暴力を独占した「国家」を形成したのであるとしているが、社会を考える上で重要なのは都市国家の歴史(≒都市の歴史)であるだろう。「国土学再考」によれば、人類最初の都市国家は5500年前にシュメール人が築いたものだったということである。シュメール文明はチグリス川とユーフラテス川に挟まれた河口地帯、今のイラク南部で発生した文明であるが、この地域は肥沃な平原が広がる土地柄であったが故に、農耕には適している一方で他民族の侵入も受けやすいところだった。そのためシュメール人が築いた人類最初の都市国家は、人類最初でありながら既に外敵の侵入を防ぐための城壁に囲まれたものだったのである。それを見ればホッブズの論も全くの空想とも言えないだろう、と思えてならなくなってくる。

 

 

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↑念のため歴史学の研究も参照するため「世界史の窓」も参照したが、確かに都市国家は紀元前3000年紀のシュメール人の都市が最初であるとされているとのことである。

 

 つまり都市、そして国家というものは、人々が団結して外敵の侵入を防ぎ、生存権を確保することをその起源とするものなのである。そのために現在においても国家は軍隊を持ち、安全保障上極めて重要な役割を果たしているのである。もちろん現在においては都市が物理的な城壁に囲まれることはなくなった。また現在でも世界各地で戦争が起きているとはいえ、歴史的に見れば戦争は減少傾向にある。とはいえ都市と国家の役割が衰えることがないのは、文明の進歩により「生存する」ということへの要求水準が高まる一方だからである。シュメール人都市国家を築いた時代においては、「生存する」ということはただ生きることと同義であっただろう。しかし現在においてはそういうわけにはいかない。生存権日本国憲法においても第25条で規定されているが、それは「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とされており、またそれを実現するために「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」ともされている。つまりただ呼吸をしているだけではもはや生存権を担保されているとは言えず、真っ当な医療や福祉が受けられてはじめて生存権が担保されていると言えるのである。これはつまり都市及び国家が戦う相手が他の人類のみならず、経済危機や各種の病気、自然環境にも拡大されたことを意味する。我らの今日の暮らしはこのようにして確保されたものなのである。

 この生存権に対する要求水準の高まりは、一方で各種のコスト増大をも必然的にもたらすものである。たとえば人がどんな時でも円滑に医療を受けられるようにするためには、自宅から医療施設まで通院することができ、いざという時には救急車が走ることができる道路が必要である。人々が全くバラバラに居住していたのでは、その道路を建設し維持するだけでも膨大なコストがかかってしまう。そのコストを軽減するためには、やはり都市への集住が効果的であると言える。もちろん都市というものは一方で集住に伴う様々な問題を抱えた存在であり、その解消のために都市に対する批判も根強くあるが(※4)、とはいえ人類は都市を築くよりさらに以前から群れを成して生きてきた生き物であり、様々な困難を乗り越えながら都市を築きそこに居住してきた歴史があり、そして現代においては都市問題は少なくとも日々の居住という観点で見ればかなり解消されてきたものであり、今後もこの傾向は止まることはなく止めるべきでもないだろう。

 

※4 反都市政策を強硬に推し進めた例としてはカンボジアにおけるポル=ポト政権の事例が挙げられる。原始共産制への回帰を掲げた同政権は首都プノンペンを始めとする都市住民の農村への強制移住を行い、この当時都市はゴーストタウンと化した。

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 ここまで過激な例はそう多くはないが、しかし都市の否定・農村回帰の主張は特に1950年代~80年代にかけて、日本では高度経済成長期からバブル崩壊にかけてよく喧伝されたものであり、ジブリ映画「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」の中でもその思想を垣間見ることができるものである。また昨今においても社虫太郎氏が「日本の衰退は【都市化】が原因である」などという主張を行う等、日本では特に左派においてよく見られるものである。

 

 もちろん自由権社会権は共に必要な権利である。だが実際的なコスト等の問題からどちらかを諦めなければならないとしたら、人はどちらを選択するだろうか。私の推測では、おそらくアンケートを取れば自由権を取る人の方が多いだろうと思っている。だがそれは医療や公衆衛生を始めとする各種の社会的サービスが、今日においては空気のように当たり前になり、たとえ自由権を重視し社会権を軽視してもそれらサービスは当然受けることができるのだと、人々が暗に思い込んでしまっているからである。実際には今日の我らの暮らしは自然に発生したものではなく人為的に確保されたものであり、相応のコストを負担せずに放置すれば我らの生活水準は容易くシュメール人の時代にまで戻ってしまう。よく経済学的には自由が良いのだなどと喧伝もされるが、しかしまともな医療や福祉が受けられなければ人は働くこともできなくなってしまう。またどんな大金持ちも1人辺りの財・サービスの消費量が他者より2倍も3倍も多いわけではないのであるから、富の偏在も結果として経済規模の縮小を招くのである。結局は社会権を重視するより他はないのである。歴史を振り返れば、急速に経済が発展した時代は平等性が高かった時代であり、格差の少なかった時代であり、貧乏人が金持ちになり易い時代であった。ジャパニーズドリームもアメリカンドリームも、その担い手は貧しい一般市民だったのである。もちろんだからと言って共産主義が正しいわけでは全くない(※4.5)が、しかし日本が高度経済成長を遂げた時代は同時に日本が世界一成功した社会主義国だと言われた時代であったことは謙虚に受け止めるべきである。またその後世界の先進国は新自由主義の下で経済成長を遂げたのだとも言われるが、とはいえ社会福祉を放棄したわけではなく、その新自由主義発祥の地であるイギリスでも公共医療サービスは今でも無料である。先のパンデミック下において私が主にTwitterで医療関係者のツイートを漁ったところによると、日本以外の先進各国は救急医療の整備に力を注いでいるようであり、たとえばニューヨークの救急車の台数は東京よりも多いようであり、また救急病院の病床数も多くを確保しているようである。一方で削減されているのは一次医療であり、日本のようにちょっとした熱ですぐに町医者にかかることはできず、そうしたところは薬局に行って自分で薬を買って飲む、というような対応が行われているようである。全般的に見てメリハリの利いた投資が行われており、そして浮いた予算で交通網の整備等経済成長をも促す公共投資を行い、結果として経済成長をし続けている、というのが世界の先進国の現状であるようである。

 

※4.5 共産主義は少なくとも従来行われた方法では商売の芽そのものを摘み取ってしまい、結果として経済成長を構造的に不可能にしてしまう。言うまでもないが社会政策の推進には原資が必要なのであり、その原資とは経済的豊かさに他ならないのである。私はマルクスの論理そのものはある程度正しかったと思っているが、もし今後マルクスの予言通りに共産主義社会に移行していくとしても、それは自己を含む生産手段の棄損にも結び付きかねない労働者達の暴力革命によるものではなくより平和的な移行となるだろう(→資本主義社会はたとえ建前だけでも未来永劫守られていくだろう)し、そうでなければ最後に待っているのは悲惨な破滅しかないだろう。

 

 翻って日本を見れば、昭和の時代には社会主義国だと言われた時代もあったようではあるが、少なくとも平成以後の日本においては社会権は軽視されていると感じている。日本は他の先進各国とは違い、自由主義でも全体主義でもない「ムラ社会」であるためその分析は慎重さを要するのであるが、全体的に見て日本は資源の集中やメリハリの利いた投資が苦手であり、そのために社会的に見て必要な事項に戦略的に資源を分配することが難しく、結果として社会の基盤を形成するはずのものの供給の多くが人々の自由意志や自発的良心、自由競争市場に委ねられてしまっている。前述の医療が典型例であり、日本では国民皆保険等は整備できたものの、しかし医療の担い手を救急病院に集中させる、救急車の台数を増やす、などと言ったことができていない。そのため日本では熱を出したらすぐに町医者にかかることができる一方で、パンデミックが起こればすぐに救急医療がパンクしてしまうことが先のパンデミックにおいて明らかになった。結果として世界的に見れば少ない感染者数でも緊急事態宣言を出さなければならなくなり、社会に様々な影響を及ぼしたことは記憶に新しいところである。またあの緊急事態宣言とてほぼ”出しただけ”に終わった感は否めず、その間に臨時の医療体制を整えるというようなことは満足に行われたとは言い難く、結局は従前からの医療体制のままで対応できるように人々の自発的良心により外出の自粛を期待するというような、精神論を喧伝した先の大戦をも想起させるようなことが繰り返された(※5)。いわゆる2024年問題によるこの春の路線バスの大幅な廃止と言った事態も、こうしたことに通じる話であるだろう。

 

※5 もちろん医療現場でもそれ以外の場所でも様々な対策が行われたことは承知しているが、しかし私はと言えば第五波が来るまでは名古屋の街中を平然とノーマスクで歩き回っていて何らの咎も受けなかったし、それ以降もマスクをつけろと言われたことすらついになかった。

 

(続く)