今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

私と艦これ――だって艦これ、そうじゃねえもん――

 どうも突然風邪をひいたようである。熱が38.8℃あって頭が重い。こういうときはPCでウェザーニュースLIVEをつけっぱなしにして、スマホで艦これ攻略wikiを見るに限る。

 

wikiwiki.jp

 

 こういうときにぼんやりと考えられるのはやはり艦これである。これこそ私の趣味の一つに艦これが存在する意義であるとすら言えるだろう。なぜ艦これなのか。今回はそれをまとめてみたい。

 

・現実世界との距離感

 

 艦これの魅力を問われたら、私ならまずこう答える。艦これは創作物であるが、現実世界とも遠く薄くつながっている。それこそがまさに魅力だと言える。

 

 私は創作物については、基本的に悲劇を求める。ここで言う悲劇とは単に悲惨な物語という意味ではなく、アリストテレスが「詩論」の中で語っている「賢者の物語」という意味である。

 

 

 人はなぜ悲劇を求めるのか。それは喜劇が悲惨な現実からの目くらましを提供するのに対し、悲劇は現実に立ち向かう勇気を読者に提供するからだ。たまに創作物は喜劇だけで良いのだというような主張が語られることもあるが、それはつまり現実に対して何もかも諦めてしまったということだろう。そういう人間がこの世に存在するのは自由だが、私はお近づきにはなりたくないものだと強く思う。たとえばTwitterで現実の有様を全肯定してそれが必然なのだと「解説」して回っている連中も居るが、私はそういう人間はこちらからブロックすることも頻繁にある。そういう人間の主張はどれほど事実性が高くともより良い社会を求めるという観点からすれば害悪でしかないからだ。そしてそういう人間は往々にして、現実を絶対視するあまり知らず知らずのうちに矛盾する主張をやらかしているものである。なぜなら、この現実世界は当たり前のように矛盾しているからである。そして現実世界はどれほど忠誠を誓ったとしても、何ら恩賞を与えることなくある日突然我らを切り捨てるのだ。なぜなら現実世界とは何ら血の通わないシステムそのものだからである。システムに都合が良いうちはある程度の恩恵を受けられるかもしれないが、システムにとって不都合になったらその瞬間に見放されるだけである。現実世界に忠誠を誓ったところでろくなことにはならない。現実世界からはただ「解放」のみを考えるに限る。そしてそれこそが人類の普遍的な在り方というものである。人類は現実世界に立ち向かい、より良い社会を求める生き物だからだ。だからこそ人ははるか昔アフリカ大陸を出て、農耕牧畜を開始し、文明を築き上げてきたのである。その歴史に連なるこそこそ人間の本来の在り方というものであり、どれほどもっともらしいことを垂れ述べようがそうしないのはそれは人ではなく、寄生虫として生きることを選んだということだ。私はそんな寄生虫に成り果てるくらいなら、陰謀論新興宗教でも信じ込んでいた方がまだマシだとさえ思う。

 

 少し話が逸れたが、艦これは単なる美少女ゲームではなく現実世界と繋がる回路を有する存在である。そこに艦これの「悲劇性」を見出すことができる。一方で、艦これはもちろん現実世界の一部ではない。繋がる回路を有するとはいえ、その回路は遥か昔に途絶えている。この距離感が艦これの魅力であり、だからこそこういう体調不良のときに情報収集を行っても精神がかき乱されるようなこともなく、のんびりと眺めているにふさわしいというわけである。私の趣味は艦これ以外は現実世界とあまりにも一体化し過ぎているか、あるいは何の接続回路も持たないかのどちらかである。何の接続回路も持たない作品も見ることは見るが、しかしもし艦これがなかったら私の創作趣味は既に消滅しているのではないか、とさえ思う。

 

・オタクの欲望からの解放――「今日も柱島泊地」の意義

 

 さて、その艦これで私は小説「今日も柱島泊地」を執筆しているわけであるが、なぜそんなことをしているのだろうか。

 その理由はと言えば、既存の艦これ創作は艦娘があまりにも「オタクの欲望の客体」になり過ぎているからである。そしてその結果悲劇として描かれているはずの物語が喜劇にしかなっていないと言わざるを得ないからだ。艦これの”悲劇”の構造は概ね以下の通りである。

1.艦娘は差別されている

2.提督(プレイヤー)だけが味方である。だから艦娘は提督だけに懐く

3.艦娘達はただ実際の兵士や軍艦を艦娘に置き換えただけの状態で戦い、命を落としたり大けがをしたりする。またはその可能性がある状態で戦う

4.提督は艦娘を生還させようとするが、その力は及んだり及ばなかったりする。力及んで艦娘が生還できた場合は提督はちやほやされ、生還できなかった場合は他の艦娘から慰めを受けることができる

5.たまに艦娘の非倫理性が言及されることもある

 こういう創作物を好きな方には申し訳ないが、私はこういう創作物には何ら読む価値を見出すことができない。1と2は明らかに

「そんな可哀そうな○○ちゃんに優しくしてあげる優しい俺ら」

に自己陶酔するための設定であろうし、3はそれだとなぜ艦娘が運用されているのかの理由付けが全くできていないとしか言いようがなく(※1)、それは結局のところ4に繋ぐための代物だとしか言いようがなく(※2)、そして5は改めて言及されるまでもなく見ればわかるレベルの話である。これでは少女にちやほやされるために少女達に過酷な運命を課す愚か者の物語であり、それはつまりアリストテレスがいうところの「喜劇」だと言わざるを得ないだろう。

 

※1 普通に兵士として戦うなら、なぜ成人男性ではないのか? ジュネーブ条約子どもの権利条約も何もかも無視して、しかも女子を戦わせているのは一体どういう意味があるのか?

※2 そもそも論として提督と艦娘達がラブラブだったら、普通の軍組織としてはまず成立しないと言わざるを得ないだろう。なぜならば、軍隊の指揮官とはつまり部下に害をなす存在だからだ。吉田満の「戦艦大和ノ最期」における臼井大尉の言葉を引用したい

「ダカラヤッテミヨウジャナイカ 砲弾ノ中デ、俺ノ兵隊ガ強イカ、貴様ノ兵隊ガ強イカ アノ上官ハイイ人ダ、ダカラマサカコノ弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レナドトハ言ウマイ、ト貴様ノ兵隊ガナメテカカランカドウカ、軍人ノ真価ハ戦場デシカ分カランノダ イイカ

 つまり、軍隊の指揮官は尊敬はされるべきだろうが、善人だと思われてはならないのである。

 

 

 別にこういうのが好きなら、どうぞご自由にとしか言い様がない。元より艦これはオタクの欲望を満たすための代物である。だからその需要に応えるのは本来任務であるとも言える。

 だが私は思うのだ。

「これでは艦これの魅力を描くことができていない」

と。そもそも艦これが本当にただオタクの欲望を満たすためだけの存在ならば、私はそもそも艦これをプレイすることすらなかっただろう。だが、艦これはそれだけではないのである。私のような人間でも楽しめる「悲劇性」が艦これにはあるのだ。そしてそれがあるからこそ、艦これは11年も続いているのではないか。つまり艦これには、まだ可能性が眠っているのである。私はそれを引き出すことに挑戦したいのだ。

 

・公式設定を見直す――だって艦これ、そうじゃねぇもん

 

 ここで言う「公式」とはゲームとアニメのことである。艦これの特徴はその世界観が明確には描かれないことだが、私が思うのはプレイヤーが書いた艦これ創作と公式がどうも食い違っているのではないか、ということである。

 特に明瞭に描かれたのはアニメ第2期「いつかあの海で」である。あの物語に、艦娘を差別する者は誰も出てこなかった。絶望的戦況下ではあったが、提督はあくまでも艦娘の生還に重きを置いているようであり、部隊内でも生還しつつ除隊した者達に後ろ指を指すような者はおらず、むしろ

「銃後の奴を守らねばならん」

と気勢を上げるような状態であった。ではなぜ艦娘は戦っているのか。それは

「未来に繋ぐため」

なのだ。だから艦娘は戦うが、しかしその後はあくまでも生還しなければならないのである。これは実際の軍組織、特に「其ノ栄光ヲ後毘ニ伝エントスル」ために生き残った艦を将兵もろとも沈めるためにこそ作戦を展開したとしか思えない旧日本海軍の在り方とは真逆であり、むしろそれを否定しているとすら言えるだろう。

 

 

 そして、本家ゲーム版も実際こんな内容なのである。一応DMMの公式サイトでは艦娘は「国のために」戦っているらしいが、実際のところプレイヤー=提督のなすべきことはと言えばゲームの内容としては敵を撃破するためというよりも、むしろ艦娘の生存こそが職務なのではないかと思わざるを得ない。艦娘はそもそも出撃させなくても何のペナルティもないし、出撃させても「大破撤退」さえ徹底すれば1人の犠牲も出すことなく戦闘することができ、それは本土を背にした防衛戦であったとしても、主力艦はもちろん駆逐艦海防艦1隻のためですら大破撤退を何のペナルティもなく行うことができるのだ。一体この作戦の影では少女1人のためにどれだけの血が流れているのかと思わずにはいられないが、しかしそちらは何ら描かれることはないのである。

 

 それは軍隊としてはあり得ないことである。しかし、私はむしろこの方がしっくり来る。そもそも艦娘自体があり得ない代物なのである。ならばそれを運用する軍組織も、あり得ないものであって然るべきなのだ。一体艦これ世界とは何なのか。それは

「最悪の状況下でも最低限の倫理を守ろうとする世界」

であると定義できるだろう。少年兵はジュネーブ条約子どもの権利条約に違反する存在であり、中でも少女を戦わせるなどあらゆる蛮行をやりつくしてきたはずの人類ですら、未だなし得たことのない蛮行である。少年兵は最悪の児童労働だと言われるが、ならば艦娘は最悪の中の最悪だろう。だがどんな地獄の底でも人は何らかの善を成そうとするはずである。私は、それを描きたいのだ。

 

 これは本質的に孤独な戦いである。なぜならば「今日も柱島泊地」という試みは、それはオタク達のど真ん中でオタクの欲望を否定するような試みだからだ。私は別にオタク達と敵対したいわけではないのである。それが楽しいのならばそうすればよい。だが私はそれを楽しいとは思えなかった。そして恐らく私のような人間も、どこかには居るはずである。私はそのような「誰か」に向けて、本作を描きたいと思う。そしてもしこれがリアルじゃないとか、そう言ってくる何者かが居た場合はこう言い返したい。

「だって艦これ、そうじゃねえもん」

私は戦争を描きたいのではない。艦これを描きたいのだ。

 

 今後の展開についてであるが、第3章までは2018年版の第1話~第3話を大幅に引き延ばしたような物語とするつもりである。現在の第1章のサブタイトル「着任、そして」は2018年版では第1話のサブタイトルであったように、第2章は旧第3話と同じく「彼女達の肖像」、第3章は旧第2話を引き継ぎ「その日、鎮守府正面海域」というサブタイトルを予定している。ただ現在は第5話の前半までは書きあがっているが、公開がいつになるかは現在未定である。