今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

戦う女の子を見る意義

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 マギレコが終わるらしい。私は結局漫画しか読んでなかったけど、6年もよく続いてくれたというべきだろう。それはそれとして我が創作趣味は人生破綻による一切の趣味活動停止とそれ以降の交通趣味最優先の方針により

まどマギ→続いてはいるが13年前の作品

艦これ→祝11周年

と実に古い作品ばかりになってしまった。予算的にも時間的にもまだ余裕は無いとは言え、動画配信サブスクを契約するくらいには私も豊かになったわけである。艦これのプレイ再開もぜひやりたいところだが、そろそろ新しい作品も開拓したいところ。

 

↑マギレコは結局ゲームをプレイすることなく終了するが、そんな私のお気に入りは富士フジノさんのコミカライズ版。富士フジノさんは本作の連載中に育休を取得した一児の母であり、そんな彼女の描く本作は魔法少女達が実に自然で、かつ母の目を通しているかのような愛情にあふれた作品となっている。女性作家の描く女子キャラは実に自然であり、男の妄想とは違う彼女達の本質に触れるような作品が多いように思う。

 

 それにしても私が好きになる創作物とは軒並み戦う女の子系である。強い女が好きなのだ。「強い女」とは必ずしもかつてフェミニストが追い求めたようなあらゆるステレオタイプから自由になった女のみならず(※1)、ステレオタイプ的な女らしさを徹底することで己を鼓舞するような女も好きである(※2)。

 

※1 自由意志による主体的な選択の結果ならばもちろんそれも良い

※2 「開戦」で動画を貼った「可愛くてごめん」なんかはまさにこの例

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 なぜ強い女が好きなのか。それは常識的正しさから外れた存在だからだろう。人類の長い歴史の中において、女は自立することを阻まれた存在であり、究極の自立と言える戦いの場から女子はとにかく遠ざけられてきた。かと思えば男の勝手な都合で戦場に送り込まれることもあったわけだが、その場合でも女達は武器を持つことを許されず、男達の従たる存在を甘受しなければならなかった。今でこそ自衛隊にも女性自衛官が当たり前に居る時代になったが、さりとて彼女達はあくまでも補助兵力だというのが一般的な認識だろう。

 だからこそ、私は創作物の中に「強い女」を追い求めざるを得ないのである。魔法少女物は少女を補助兵力ではなく「正面戦力」にするものであり、その「あり得なさ」に惹かれざるを得ない。それは常識的正しさから外れた存在である。だがだからこそ、彼女達はかつて女達が阻まれてきた「自立」を成し遂げているのである。そしてその「常識的正しさへの挑戦」は、私の「現実からの解放」の戦いにも通じるものがあるというわけである。

 

 面白いのは、戦う女の子系の創作物は時に男社会の下らない名誉だとかそういうものを自覚しないままに、ごく自然に否定することがあることである。その最たる例だと思っているのが艦これであり、艦これはDMM公式サイトによれば「国のために」戦っているようであるが、しかしゲーム中で艦娘に求められるのは己の身を盾にしての名誉の戦死ではなく、「生きて帰ること」である。艦これは戦争物でありながら、戦死を否定してしまったのだ。私が人生唯一のウォーゲームとして本作をプレイしているのはまさにこの点があるからに他ならない。これはおそらく運営鎮守府(C2機関)も艦これオタク達も気付いていないだろうが、ごくごく自然にこのようなパラタイムシフトを成し遂げているのはまさに艦娘が女だから(→男社会の常識から自由な存在であるから)だろう。

 

↑艦娘の戦死=轟沈はアニメ第一期では単なるフレーバーとして描かれる一幕もあったが、第二期「いつか静かな海で」では全編を通し艦娘の使命とは「死ぬことではなく、生きて未来に繋ぐこと」であることが明確に描かれた。この意味をどこまで運営が自覚しているかは知らないが、私は作中にそう描かれただけで満足である。

 

 私はこれからも、強い女を追い求めたいものである。ただ追い求めるだけではなく私も物語を描きたいとも思っているのだが、それがいつになるかわからないところだけが私の創作趣味のウィークポイントである。

 

 

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↑一方で今私がYouTubeで盛んに見ている通信系YouTuberの硝子磨テコさんは「実在する強い女」と言えるだろう。スマホマニアとしてのガチな解説とEDを自ら歌う多芸ぶりが面白い。推していきたいところである。