今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

5年目の幕開け

 本日、西暦2024年6月27日を以て、我が人生再興以来時を刻んできた空想歴は5年目となった(※1)。

 

※1 空想歴は私の主観的な時の流れを明示した紀年法であり、これで記載すると昨日6/26は「空4年下6月26日」となり、今日は「空5年上6月27日」となる

 

 直近の大きな動きと言えば6/7の現実主義に対する第一種緊急行動自体宣言の布告であるが、これが何を意味するのか理解できた人はいないだろう(※2)。それもそのはずで、西暦2019年(空0年)以降の私が最優先で取り組んできた対外的行動は「家族に私を理解させること」であり、公開ブログもSNSも結局はその余技に過ぎなかった。ただそれもいよいよ終わりにしようと思う。そして私も、これからはより一般社会と向き合い、一般社会の中での活動を強化していきたいと思う。あの宣言の意味とはつまりそういうものであった、ということだ。もっともその宣言があのような意味不明な代物ではダメだと、私自身思っているのだが。

 

※2 「第一種緊急行動事態宣言」について今更ながら解説しておくと、この緊急宣言は新型コロナウイルスパンデミックのときに整備されたものを流用しているものであり、現実主義と戦う戦闘的組織である空想委員会の構成員(現在私1人)に対し全委員会が一丸となって取り組まなければならない問題が現れたときに中央会議の決(≒委員長の決)によって布告されるものである。空想委員会の緊急宣言にはレベル1~3で表される「非常事態宣言」とフェーズ1~3で表される「緊急行動事態宣言」があり、このうち非常事態宣言についてはその布告状況により指揮系統が変更となる。具体的には

第一種非常事態宣言(レベル1):武力紛争による国外脱出等、空想委員会が全職務を放棄して非常事態に対応しなければならない場合に布告される。統合本部を除く全組織が解体され、全構成員は統合本部長の直接指揮下に入る。

第二種非常事態宣言(レベル2):その問題を所管する部局の独力では対処しきれず、組織横断的に取り組まなければならない場合に布告される。統合本部に統合本部長を長とする「特別対策本部」が設置され、同組織に中央会議に次ぐ指揮権が付与される。新型コロナウイルスパンデミック時はこの宣言が布告され、統合本部内に序列1位の組織として「新型コロナウイルス特別対策本部」が設置された。

第三種非常事態宣言(レベル3):いつでもレベル2以上に移行できるよう警戒を要する場合に布告される。組織図上の変更はないが、所管する部局内に必要に応じて「対策本部」が設置される。

となる。これに対し緊急行動事態宣言は指揮系統の変更とは別に今委員会が対処すべき問題についての目安として布告されるものであり、具体的には

第一種緊急行動事態宣言(フェーズ1):全委員会が総力を挙げて取り組むべき問題に対して布告される。過去には新型コロナウイルスパンデミックに対して、そして今は現実主義に対して布告されている。

第二種緊急行動事態宣言(フェーズ2):中央会議又は特別対策本部が優先して対応すべき課題に対して布告される。第二種非常事態宣言(レベル2)が布告されている課題に対しては、緊急行動事態宣言はこれより下に引き下げることができない。

第三種緊急行動事態宣言(フェーズ3):現在は所管する部局内での対応となるが、いつでもレベル2・フェーズ2以上に移行できるよう警戒すべき課題に対して布告される。原則としてレベル3の課題に対して布告される。

というものである。現実主義については空想委員会が総力を挙げるべき課題ではあるが、しかし一方でこの問題は人類発祥以来の問題であり、またそもそもこの問題に取り組むことこそが空想委員会の組織目標であるのだから、この問題については特に非常事態だとは言えないため第一種緊急行動事態宣言(フェーズ1)のみが布告されることになったものである。またそれについても災害や紛争などの非常事態と競合することになるから、現実主義については「第0種緊急行動自体宣言(フェーズ0)」等別枠の存在とした方が良いかもしれない。

 

kazetosoratokumo.hateblo.jp

 

 この記事を今改めて振り返ると、私の人生史において画期的なことが2つある。それは

1.敵と味方を区分し、敵(=虚妄に基づく者達。具体的には間違った啓蒙活動を行う知識人等)に対しては脅威となり、味方(=事実に基づく人々。この記事中には記載されていないが、具体的には「無知の知」を有するリベラルな一般市民)には今後味方していくと宣言している

2.深謀遠慮の可能性を考慮することの停止も宣言している

の2つである。私は従来、おそらく一般の人々よりははるかに強く私自身の頭脳の健全性を疑ってきたのであるが、それを辞め、一般の人々と同じように私の見解には妥当性があるとまず私自身が信じよう、ということである。

 

 とはいえ、私はそもそもの話として、現在の精神医学的な意味における「健常者」なるものがそこまで優れたものだとは思っていない。そもそも私は精神科医によって発達障害だと診断されている「異常者」であるが、これは私が異常なのではなく、むしろ現時点における「健常者」なるものの方が異常なのだと思っている。これは私の主治医も賛同している見解である。

 だってそうだろう。無知の知を有さず、他者を罵倒し嘲笑しても何ら良心が痛まない連中のどこが健常だというのだろうか? 彼らは自己を疑わず、それ故に支障なく経済活動を行うことができ、だからこそ「健常者」だと言われているわけであるが、それが本当に健常なのだろうか。私は無知の知を自覚し、他者との対等性を尊重できる人物こそが「健常者」なのであり、そうでない者は彼らこそが「異常者」なのだと思っている。そしてその意味において、私は「健常者」であると認識している。おそらくは今後精神科の診断基準もそのようなものへと変化していくだろうし、そうでなければならないだろう。

 それは言い換えれば、自分達の偏見のままに突き進む「左翼の時代」の終わりであり、自己の内省を重視する「右翼の時代」の始まりである。左翼は「革新主義」などと言われることもあるが、私は左翼思想こそが人類始まって以来の伝統的な思想なのであり、むしろエドマンド・バーク的な意味で言うところの右翼思想の方が新しい思想なのではないかと思っている。また一方で、現在の政治勢力としての「右翼」なる者達は程度の差はかなりあるが結局反動主義的な革命を目指す者達なのであり、それはつまり「左270度傾いた左翼」というのがその本質なのではないかとも思っている。今後はそこからの「右傾化」が始まり、「右傾化」したリベラルな一般市民(→穏健主義)とかつての右翼・左翼(→急進主義)とが政治の場において対峙することになるのではないかと思っている。現在の生活保守的な一般市民はその「右傾化」の先駆けであり、現在の政治不信はそのような「右傾化」した一般市民の受け皿が政治の場に無いからではないかと思っている。私は生活保守的な一般市民の受け皿として立憲民主党を育てつつ、自民党支持者等とも協力しながらより良い日本、より良い明日を創って行きたいと思う。

 

 

【余談】

 はてなブログの写真がどうも安定しない。これはいったいどうしてなのだろう?