今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

開戦

【中央会議】

 本日空想歴4年下6月7日0時を以て、現実主義に対し第一種緊急行動事態宣言を布告する。この宣言は今後永続的に継続される。

 現実主義は人類繁栄の基礎となったとも考えられるが、今となっては単なる枷に成り下がった。知識人達による間違った啓蒙活動は後を絶たず、人々は偽りの希望と絶望の中に身を置きながら暗中模索を余儀なくされている。我らは、人類のこれまでの発展の歴史を事実として高く評価し、その成果を未来に残し、それをさらに発展させることこそが人類の未来に対する責務であり、またそれが我らの原点たる我らの適合可能な社会の創生に寄与するものと確信している。我らは、自由・平和・繁栄の22世紀を実現し、我らの平穏な生活を未来に渡り担保するため、現実主義からの解放に向けあらゆる行動を取る。これは我らと同じものを求めた偉大な先人達の列に連なる行為であり、我らは今後偉大な先人達に教えを請い、また自らの虚妄の実現ではなく平穏な明日の確実な実現に邁進するすべての人々と協力し、地球人類の輝かしい明日に寄与することとしたい。

【統合本部】

 中央会議の決定に基づき、委員長の名に置いて以下の作戦を実行に移す。

空想委員会の夜明け2号作戦

啓蒙主義との決別のため、啓蒙目的で運用されているSNSアカウントをすべてブロックする

ウォッチタワー作戦

SNSアカウントを増大させる

トモダチ作戦

→外部との協力関係を築く

空想委員会の自由作戦

→確固たる財政基盤の構築を図る

空想委員会の未来作戦

→持続可能な未来のため、全国乗合交通巡りを推進する

 

 また創作物の制作及び鑑賞を主とする文化芸術活動については、物理的事実の探求及びそれと普遍的正義に基づくあるべき未来の模索とは違うもう一つの「現実からの解放」を求める行為として位置づけ、空想委員会の正式な活動として認定する。啓蒙主義を警戒しつつ、人間の内部からの解放に向けこちらも邁進していきたい。

 

・すべての予断から遠く離れて

 公開ブログにも既に書いたことだが、かつて私は日本の大人達に対し、私から見ると明らかに愚かな行動であっても私には計り知れない深謀遠慮がその向こうにあるのではないかと淡い期待を抱いていた。だが、そんなものは存在しなかった。今の私は主にSNSにおいて、一定の立場にある人物の発言については依然として深謀遠慮が存在する可能性を考慮し続けている。だが、それももう終わりにしたい。そんなものは存在せず、愚か者はただ愚かなだけであったことを認めたい。

 深謀遠慮の可能性を考慮することそのものは、決して悪いことだとは思っていない。ソクラテスの「無知の知」とはまさにこのことであり、この視点を持たない連中が醜悪極まりないのは彼ら以外の誰の目にも明らかなことである。だが少なくともSNSにおいては、この視点を持ち続ける必要はないだろう。SNSは今後学びの場でもレスバの場でもなく対話の場として使って行きたい。その時におかしな者達を対話の場に呼び込まないためには、おかしな者達とは積極的に決別する必要がある。深謀遠慮の可能性の考慮はその判断に狂いを生じさせる可能性が高く、もはや危険な行為であると言わざるを得ないからである。

 

 そしてこの判定を以て、空想委員会のみならず私の人生においても本日は現実からの解放に向けた開戦の日としたい。開戦は本来であれば6/27の新年節に合わせることが望ましいが、もはや現実からの解放は一時の猶予もなく、20日繰り上げて発動することはやむを得ないものと判断した。今後私と空想委員会は虚妄に基づく者達の脅威となり、事実に基づく人々の味方となる。

 

 とはいえ、実際の私の行動は私の趣味を主体とせざるを得ない。それは私が空想委員会を編成して実現しようとしている「平穏な生活」とは、つまり自由に趣味を行う生活に他ならないからである。今私の趣味は鉄道から始まり、商業・金融・通信の3分野を隣接領域として取り揃えるに至った。また創作趣味についても、持続的な活動を模索しているところである。これらを発展させていくことこそが私個人としての「現実からの解放」なのであり、空想委員会はそのための組織なのである。

 

↑趣味と共にある未来こそが、私の未来である

 

 

・解放の現況(非公開ブログ空4.5.15より転載)

 毎回この文言で始まるような気がするが、いよいよ人生が動き出している。去る土日は大阪に行き、「生駒の公共交通を守る会」に出席し、金剛バス転換路線を含む近鉄バス各線に乗ってきた。また廃止の危機にある奈良交通加茂線、積極策の続く相楽東部広域バス、そしていよいよ交通系電子マネーが導入された伊賀鉄道にも乗ってきた次第である。主眼はあくまでの乗りバスであるが、しかし同時に公共交通維持を目的とする市民団体にコミットしてきたところが今回の新機軸であり、今後私は今明確な道筋が見えているわけではないがあくまでも希望としては、生駒を足掛かりとして実際的な交通問題にコミットしていき、また交通以外の社会問題、特に政治にもコミットしていき、経済学を含む科学的合理性と実際の人々の生活、そして政治(立憲民主党)を取り結ぶ存在として、設計主義的になりやすい土木工学者達を批判し、より民主的かつ合理的な交通網及び社会構造の形成に貢献していきたい。また私の在り方を通し、「もう一つの交通趣味界隈」「もう一つの交通論界隈」を模索していきたいとも思う次第である。

 それも良いが、しかしこうして実社会にコミットすることになるとなると、やはりそのためには私自身が安定して他者と対話できる状態にある必要があり、また私自身の立ち位置も明確にする必要がある。前者は精神科への通院を含めて私自身やれるだけのことはやっており、あとはむしろ社会の側に私からの信頼を取り付けるよう要求したいところである。後者は空想主義思想であり、これはすでにまとめ終わっているがまだ公開はできていない。いずれにせよいま必要なのは対等な対話である。そのために八木では社協とのつながりを作ったが、それは私が名古屋の歯医者に通院するためにそのつながりの有効活用はあまりできていない。それよりも今必要なのはSNSでのつながりだろう。それもTL上で一時的に群れるようなつながりではなく、実社会に向けて広がるようなつながりを作っていくことである。その先駆けが生駒であるが、私はこれも今後現在の相互フォロワーを中心に拡大・深化させていきたいと思っている。そのために対等にモノを聞く姿勢にない者達はすべてブロックした。また現在左派知識人については順次フォローを解除している。左派知識人は自らの使命を啓蒙にあると自負するあまり、他者との対等性をないがしろにする傾向があるからだ。それでもネトウヨよりは事実性に勝るため今日まで一定のフォローを維持してきたが、その使命ももう終わったと見てよいだろう。私にとってSNSは顔の見えない相手とレスバをするところではなく(→そもそもそんなことはそんなに熱心にやっていたわけではないけれど)、先にも書いたように実社会へ広がるようなつながりを求める場になったからだ。これはSNSの逆ハックである。すなわちSNSの悪しき部分を意図的に切除し、本来SNSが担うべきであった社会的機能を私のアカウントで実現するのだ。こうして空想委員会が当初提示するはずだった「ファクトの希望」を、今こそ提示するのである。

 

 それにしても、今の私があるのは西暦2019年に現実への妥協を拒絶し、むしろそこからの解放を求めたためである。あの当時、あの行動は端的に言って「バカな」行動だっただろう。人生が破局状態にあるのに目の前の破局をどうかしようとせず、空想委員会の官僚制組織化の完成などという明らかに不要不急の行為を急いだのであるから。私自身、あの当時何らかの確たる見通しがあるわけではなかった。ただあの頃あったのは、

「今を逃したら二度と我が人生は正道に立ち戻らない」

という漠然とした予測というか想いであった。正直言って目の前のことはどうでも良かったのである。それよりも私が必要だと思ったのは「人生の回復」であり、もしそれを求めた結果私に肉体的な死がもたらされたとしても、それで良いじゃないかという思いがあった。つまりあの時、私は卑屈な生よりも高貴ある死を選んだのである。そして人生を正道に立ち戻らせること、すなわち「現実からの解放」のためにこの人生を費やすことをあのとき選択したのだ。

 その選択は実に正しかった。というか、そもそも「正道ではない人生」を選択したことが間違いだったのだ。すなわち空想委員会は最初から公然の組織とし、公然と空想主義の旗を振り、公然と社会に立ち向かうべきであった。それができなかったのは一重に過去の私の力不足があり、今でもその問題はなお横たわり続けているが、しかしさすがに空想委員会を最初に組織した中学の頃よりは私も力をつけてきたと自負している。それは昨今より強まっており、今後はより加速度的に力をつけていきたいと思うし、そのための体制は整いつつある。あとはただ、進むだけである。

 

 我ら空想委員会の使命は、人々を虚妄の現実から解放することである。なぜ我らが今やらなければならないのか。それはその虚妄が人々を食い殺さんとしているからである。見よこの世の中の悲惨さを。歴史物語からデータベースへと姿を変えた「現実世界」は、人々にいくらでも都合の良い物語を見せることができる代物になり果てた(※1)。人々は「現実」というデータベースから自分達だけに都合のよい物語を抽出し、好き勝手に他者を叩き、偽りの快楽の中に身を置き、偽りの悲観主義に身を投じ、偽りの解決策を選択し続けている。しかし時を同じくして、我らは地球の支配者になってしまった。その結果地球上で行った我らの行為の代償は我ら自身が支払わなければならなくなったのである。その代償の算出は地球の法則=物理法則に基づき算出される。そこに我らの言葉や概念は何一つとして通用しない。今ここにあって地球には通用しない、人類のそれも仲間内にしか通用しない「現実」の物語の中に身を置くのは自殺行為である。もちろん人間には愚行をする権利もある。自殺行為でもやりたければやればよい。だが我らはそれを拒絶する。我らは偽りの快楽ではなく、事実に基づく主体的な生を求める。そして地球とは征服でも屈従でもない、「対等な対立」を求めていく。おそらくほとんどの人々は我らをバカで愚かな集団だと罵るだろう。だが100年後の未来にもし人類が生き残っていたならば、我らへの評価は180°変わっているはずである。

 

※1 この歴史観は私が勝手に考えたものではなく、批評家・宇野常寛氏の議論に基づくものである。空想委員会の主張は一見すると突拍子もないことに見えるだろうが、その基盤にはあくまでも古代より続く人類の学術的あるいは文芸的な議論の蓄積があることを強調しておきたい。

 

 

・解放の果てにあるもの(非公開ブログ空4.5.26)

 「現実からの解放」によって成し遂げられる未来とは、今の日本のような豊かで平和な社会を地球全土に拡大し、全人類が自由と平和と繁栄を享受し、戦争や構造的な貧困、環境破壊と言った社会の暴力を過去のものとする未来である。それは即ち、神の力ではなく人の力によってこの地上を楽園にするということである(※2)。それを私がもし生きている間に成し遂げることができたならば、私はその中で静かに永遠の眠りにつきたい。私は人の力によってこれを成し遂げることは科学技術的には既に可能であり、現在既に7~8割は実現できており、残る2~3割程度を実現させる最大の障壁は人々の脳内を支配する現実認識であると考えている。人間は実に愚かだと私も思うが、それは課題を解決できないから愚かなのではなく、解決に向かうことができているのにそれに気付かないから愚かなのだ。見せかけの平穏は部屋に引き籠れば勝ち取れるが、本当の平穏は社会の暴力を解消しなければ得ることはできない。それは虚妄の現実主義ではなく事実に基づく行動によってのみ得ることができるのだ。これは人類が築き上げてきた社会構造に立ち向かうものでもあるが、一方で先史時代より人類が求めてきたものでもある。我らの活動は偉大な先人達の列に連なることであり、たとえ今ここで私が撃ち殺されたとしても、第二第三の私が出てきて我らの列に連なるだろう。

 

※2 「神の力ではなく人の力で」は初期空想委員会の目標だったが、それを実現する具体的な道筋が見えず私の人生もろとも迷走状態へと突入していった。この文言がここに盛り込まれているのは「現実からの解放」という新たな目標は初期空想委員会の目標の先にあるものであることを確認するためであり、この文章は私と空想委員会が迷走を乗り越えてかつての目標へと再び進み始めることを確認するものである。

 

 

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