今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

なぜ常識への埋没が不可能なのか

 Twitterではこのブログのことを私自身「謎ブログ」と呼んでいるが、実際このブログはほとんどの方には全く理解不能だろうと思う。私が恐れるのは理解不能であるが故に右翼だ左翼だオタクだ厨二病だと適当なレッテルを貼り付けられてネット民の正義の名の下に糾弾対象となり罵詈雑言や吊し上げの雨あられとなることである。人は理解不能なものを下等なもの、敵対者と通じているものだと思い込む生き物だからだ。

 

 そんなリスクを負うくらいならこんなものは公開しない方が良い。実際私も長らくそう思ってきた。だから空想委員会はずっと非公開でやってきたのだ。だがそれは不可能だった。

【空想委員会を非公開とし、常識人のふりをすること】

などという器用な芸当は不可能だった。それを目指した結果私は完全にボロボロになり、再統合による再起を目指し一部は成功したものの結局西暦2019年春には何もかもが破綻するに至った。今の私は旧会社の破綻処理と、事業再構築を目指す新会社を並行して運営しているようなものである。この負債は一生払い続けることになるだろう。少しでも負担を軽くするため新会社の経営を早く軌道に乗せたいと心底思う。

 

 ではそもそも論として、なぜ私は常識人になることができないのか。それは今までの記事でも断片的に語ってきたことではあるが、改めてまとめるならそれは私の死生観というか、「生きる」とはどういうことかという問題に行き当たる。すなわち私にとっては

 

【生=自由思考の維持】

 

であり、

 

【死=自由思考の放棄】

 

なのだ。

 

 

 「現実≠事実」という図式は先の「空想委員会とは何か」という記事に出したが、そもそもなぜ人間は事実をありのままに認識するのではなく、現実というおとぎ話をわざわざ作ってそれを集団で信じ込むなどということをやっているのだろうか。これは私の仮説だが、私は人間は「そうなるように進化した」のではないかと思っている。実際脳科学の研究により、人間の脳は記憶を曖昧にするように進化していることが判明している。どういうことかは和歌山大学の学生が簡単にまとめている。

web.wakayama-u.ac.jp

「次に人間の脳の「あいまい性」について紹介しよう。人間の脳はあいまいであるが故にここまで高度に進化できたのだと著者(引用者注:講談社ブルーバックス「進化しすぎた脳」の著者、池谷雄二)は語る。あいまいな記憶がいいというのは、少々妙な気がするだろう。例えば人間よりも進化していない脳を持った鳥などは、あいまいではなく、見たものをそのまま写真のように記憶できるという。普通に考えればあいまいな記憶力よりも、鳥たちのような完全な記憶力の方がすごいと思ってしまうだろうが、これが実は曲者である。例えば初めて出会う人間の顔を覚えるとき、人間はその相手の顔をそのまま覚えるのではなく、その相手の特徴を抽出して覚える。つまりいちいち細かい部分の情報ははぶき、最も特徴的であろう部分を取捨選択して記憶に残しているのである。相手に髪の毛がなかったりひげが濃かったりなど、特徴的な方が覚えやすいのは脳のシステムがこのようになっているからである。対して鳥などは相手の顔を細部まで完璧に覚える。鳥はあまり特徴的ではない非常に没個性な顔であろうと、完璧に覚えることができるのだ。しかし、次に会ったときに相手が髪型を変えていればどうだろうか? この場合、なんと鳥はその相手を同じ人物だと気づくことはできない。メガネをかけている相手がメガネを外せば完璧に気づかないし、極端に言えば正面からの顔を覚えた相手の横顔を見ても、それを同一人物だと認識することができないのである。正直なところ、私は鳥のような完全な記憶があればどれだけ勉強などが楽になるだろうと幾度も考えたことがある。恐らくこの書評を読んでくれている人にも、同じようなことを考えたことがある人はいるのではないかと思う。だが上記のような理由で、それはおすすめすることができない。パソコンがテキストを一文字変えただけで別物だと扱うように、そんな非人間的な記憶力は日常生活に不便なだけである。完璧な記憶とは完璧であるが故に、とても不便なものなのだ」

 要は正確に記憶しすぎるとわずかな差異すらも「別物」と捉えてしまうため、同じものがわずかに姿形を変化させても「同じもの」と「正確に」認識できるように我々の脳はあいまいに記憶するように進化しているのである。

 事実認識についても基本はこれと同じであろう、というのが私の考えである。文明の発達した現代ではともすれば忘れられがちですらあるが、人間に対して自然はあまりにも過酷だ。その自然の中で生きていかなければならなかった先史時代の人々が、もしその過酷な「事実」をありのままに認識していたらどうなっていただろう。おそらくだが、そういう人間も居たのだと思う。そして彼らは未来に対して何の期待も持つことができず、子どもを産むこともなく死んでいったのだろう。そうではなくて、事実をありのままに認識せず、夢幻を「現実」と捉え、希望を失わず、懸命に生き延びようとした人間こそが子どもを産み、人間社会を作り上げていったのだ。我々は「現実≠事実」と”することができた”者の子孫だと考えることができる。「現実≠事実」は適者生存の結果であり、我々の生存戦略の根幹なのだと思われる。

 

 ちなみに過去の世界がどのようなものだったかは、スウェーデンの歴史家ヨルン・ノルベリ氏が以下のようにまとめている。

「昔は労働時間が短かったという話を聞いても、あまりうらやましがらないほうがいい。それでも人々は働けるだけ働いていたのだから。(中略)ノーベル賞受賞経済学者アンガス・ディートンは、健康と開発に関する主導的な専門家だが、18世紀から19世紀にかけて『栄養の罠』がイギリスにあったと指摘する。カロリー不足のために人々はあまり働けず、だから頑張って働けるだけの食べ物を生産できなかったのだ」

 全人口の2割は栄養失調のためゆっくりと動くのが精一杯であり、だから乞食になるしかなかった。子ども達の知的水準も劣悪な栄養状態のために健全な発達を阻害された――これは今からわずか200年前のイギリスの実情である。

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 実際私はこの記述を裏付ける体験をしたことがある。西暦2019年の夏から初秋にかけて、京都で有機農法の農場で農作業に従事したときだ。私は朝から昼までのわずか4時間程度の労働でヘロヘロになった。大量のご飯を食べなければやっていけなかった。3合のご飯と鍋いっぱいのカレーを1人で1度に平らげたこともあった。収穫物の量よりも食べている量の方が明らかに多かった。そんな暮らしを支えていたのはスーパーマーケットであり、近代資本主義の形成した流通網であったことは言うまでもないが、しかし私はこう思わざるを得なかった。

「いったい昔の人はどうしていたんだ」

ヨハン・ノルベリ氏の「進歩」と出会ったのはその後のことだった。前述の項を読んだとき、私は深く納得した。そう、食べていなかったのだ、昔の人は。だからみんなやせ細っていた。栄養失調で死ぬなど当たり前だった。しかし産業革命以後の生産と流通の近代化によって、我々はようやく十分に食べられるようになったのだ。それに気付いた私は近代資本主義とそれによる流通網を形成した先人達に感謝すると共に、こう思わざるを得なかった。

「なんと――人の世とは地獄なのだろうか!」

昨今、地球温暖化への関心の高まりから、地球温暖化の原因となった産業革命と近代化そのものへの批判も珍しいものではなくなった。私もかつては、地球温暖化は人類の「利己的で傲慢な」開発のせいだと信じていた。だが事実はどうだろう。確かに、人類は地球環境を破壊してしまった。それが良いことだとは今の私も思っていない。だがしかし一方で、破壊される前の自然環境、近代化以前の地球は、我々人類にどのような恵みをもたらしていたというのか?――なんの恵みももたらしていなかった、と言っても良いのではないだろうか。だってそうだろう。文字通り死ぬまで働いても満足に食べることもできない、知能発達の機会すら与えられないということは、つまり生存のために必要最低限の作物すら地球は我らに与えていなかった、ということだ。これは地球によるネグレクト(育児放棄)であると言っても過言ではないだろう。

* こちらもアフィリエイトリンク。産業革命と近代化そのものへの批判の代表例として。しかし私にはヨルン・ノルベリ氏の記述と自分の体験からこの本を持ち上げる環境マフィアの主張は今や事実なきエコーチェンバーの極北くらいにしか思うことができない

 そしてその地球によるネグレクトを乗り越えるための、被虐待児としての人類の防衛機制が【現実≠事実】に他ならないのではないか。私にはそう思えてならないのである。

 

 それは仕方ないにしても、しかしそれはマルクスの言葉を借りれば「民衆のアヘン」以外の何物でもない。人類は【現実≠事実】という防衛機制によって地球によるネグレクトを乗り越えることはできたが、しかし一方で人類は同じアヘンを吸う者同士で群れるようになり、アヘンの味によって分断されていった。民族、宗教、国家、派閥、あるいはムラと言ったものの本質はまさにそこにあるのだろうと思う。同じアヘンを吸う者=同じ「現実」を共有する者を人類は「味方」と認識し、そうでない者を「敵」と認識する。今日まで続く戦争の発端はまさにそれであろうし、またソクラテスなど集団の共有する「現実」を是とせず真理を求めた者達が迫害を受けたのもまたそういうことであろうと思う。

* アフィリエイトリンク。角川もこういう本を出しているのは良いのだけどね……。

 しかし面白いのは、それがどれほど迫害を受けようとも、いつの時代も必ず「現実」に埋没することを良しとせず、「事実」を求める人々が現れることだ。私が思うに、人類というものはアヘンを共有する集団とは別に、大きくわけて2種類に分類できるのではないかと思う。それは

【天使と悪魔】

だ。「天使」は神に祝福され、またそうであるが故に神の言葉(=規範・道徳≒現実)がいかに矛盾していようともそれが善なるものであると信じ込むことができる者達。それに対し「悪魔」は神に祝福されることはなく、またそうであるが故に神の言葉を信じることができず、自らの知性によって真理を見極めようとする者達である。ソクラテス自身は神を信じていると主張しているが、しかし実際ソクラテスは悪魔だったのだろうと思う。そうであるが故にアテナイの多数派を占める天使達によって殺されたのだ。

 そして私が思うに、悪魔は決して天使になることはできないのである。悪魔は生まれついたときから悪魔であり、死ぬまで悪魔であることを定められている。故に悪魔は決して世の中の常識や規範、道徳と言ったものにより構成された「現実」という名のおとぎ話を是とすることができず、実存と論理によって構成された「事実」を追い求めるのである。そして結果的にこの世は悪魔達によって進歩し、経済と科学の発展により今や人々は「現実」というアヘンを吸わずとも生きていけるまでになったのではないだろうか。

 

 そして私は、そんな悪魔のうちの1人だと思われるのである。

 

 

・今日における悪魔の歴史的意義

 ここから先は余談ではあるが、今に生きる悪魔の1人として今悪魔として生きることの歴史的意義について考えてみたい。

 環境マフィアがどれほど張り裂けぼうとも、経済と科学の発展が人類を豊かにし、幸福にしたのは明らかである。今や人類は地球によりネグレクトされた被虐待児であることを忘れ、逆に自らの驕慢の故に母なる地球を破壊しているのだなどと思い込むことができるまでに災害や飢餓の脅威を遠ざけることができるようになった。また情報技術の発達で人々は神の言葉を鵜呑みにするのではなく、自らの力で真理を探し求めることが徐々にできるようになってきた。

 少し前にもちらっと書いたが、おそらく人類は「現実」というアヘンを吸う必要性をかなりの面において喪失しているのだ。そして実際、人々は「現実」という虚構を離れて「事実」の世界へと移行しようとしているように思う。つまり天使が後天的に悪魔的存在になろうとする事例が増えているのではないかと思う。それは今を生きる悪魔の1人として私が認識しているジャーナリストの烏賀陽弘道氏の著書が版を重ねていることなどから読み取ることができる。

* これもアフィリエイトリンク。私自身よく読ませて頂いております

 

 一方で発達した科学技術は地球規模での人々の交流と、莫大な破壊力を持つ兵器の開発と運搬をも可能にした。また環境マフィアの主張に賛同するかどうかはともかく、経済発展が地球温暖化を引き起こしたのは事実である。これらの問題はまさに「事実」に基づく対処が求められる事象である。

 しかしながらそこで見過ごせないのが「オピニオンリーダーの失業」という問題だ。政治家や知識人、聖職者と言ったオピニオンリーダー達は、長い人類の歴史の中で「現実」というおとぎ話を強化し、民衆にアヘンを吸わせる役目を担ってきた。だが人々が「現実」から離れていくということは、つまり旧来のオピニオンリーダー達は失職の危機にあるということである。私にはそれ故に、昨今旧来型オピニオンリーダー達が自陣営の権威性を再強化し、人々に無条件に服従するように求めているように思われてならない。つまり昨今叫ばれる社会問題の多くは、失職を恐れるオピニオンリーダー達自身が引き起こしている面が多々あるのではないかと思う。これは世界規模での陰謀が存在するという話ではなく、旧来型オピニオンリーダー層の集合的無意識が引き起こしているのではないかという話である。実際先に述べたヨルン・ノルベリ氏は「進歩」の前書きで、ドナルド・トランプ米前大統領が事前の予想を覆して大統領になることができてしまったのは人々に蔓延る悲観論を煽り刺激したためであり、それは他のオピニオンリーダー達も共有するものであることを指摘している。

 これらのことから考えられるのは、これからの社会問題は「現実主義者」と「事実主義者(空想主義者)」との対立になるのではないかということだ。

 

 たとえば昨今のウクライナ戦争は、私は旧来型オピニオンリーダー層としてのプーチン大統領率いるロシア連邦とそれに対抗する西側諸国という「現実主義勢力」と、ただ平和な暮らしを望むゼレンスキー大統領と彼を支持するウクライナの民衆という「空想主義勢力」の対立として捉えることができるのではないかと思っている。私はあの戦争は基本的にウクライナを支持しているが、これはNATOと西側諸国を支持しているのではなく、彼の地に住む空想主義者を支持しているのだ。

 今後この対立が深化するにつれて、世の中には「現実」に従わない悪魔を糾弾する言説が蔓延るだろう。だが課題を解決するのは悪魔である。長らく人類の生存戦略の根幹であった「現実主義」はその歴史的使命を終え、むしろ現実主義それそのものが人類の未来に対する脅威となる時代がやってきたのだ。人類が選択すべきなのは「コモンズか、野蛮か」ではない。「現実か、事実か」なのだ。私が「現実からの解放」を時代の要請と捉えるのは、まさにこういうことなのである。

 

 私は22世紀を幸福な悪魔の時代としたい。

 

(委・委員長)