今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

国土利用と地方創生(3) 我が交通趣味の現在

 8/23はいよいよ非公開ブログの記事を公開したが、これ自体は前々から予定していたことではあったものの、どうやらこの目的と具体的な公開範囲をどこにもメモしていなかったようで朧げな記憶を頼りに公開範囲を策定することになってしまい、この内容・この時期で良かったのだろうかとは私自身少し思うところである(苦笑)

 

 まあこのブログは公開ブログとは言えど徒然なるままに私の現在の思索・思考を吐き出すためのものであるから、重大な人権侵害でも起こしていなければそれでよいのだが、ただだからこそいつどんな話をするか・すべきかは私にもさっぱり不明瞭なのは少々問題かと思われる(汗)不明瞭なのは「国土利用と地方創生」シリーズをどこに持っていくかも同じであり、私としてはさっさとローカルな交通やまちづくりの話を始めたいのであるが、しかしそのためにこそ私という人間は何を支持し何を批判するのかを取りまとめる必要があるわけであり、それも結局は私の自己満足と言えばそれまでだが、さりとていかなる論を展開すれば私の自己満足に至るか、というものすら私の中でもまだ見えていないのである。

 

 というわけで今日も名古屋を襲う雷雨の音を聞きながら徒然なるままに記事を書くわけであるが、一つ「他人とのかかわり」というテーマで私の鉄道趣味・鉄道派生趣味を見つめなおしてみると、改めて特徴的だと思わざるを得ないのはいわゆる”鉄道趣味界”とほとんど絶縁しているというところである。私は鉄道雑誌でも学術論文でも単行本でも公になったものについては存分に活用する方針であるが、鉄道趣味界に再びコミットしてインサイドな話にアクセスしようとするのはもう二度とないだろう。私が今後交通のインサイダーになるのであれば、それは趣味を起点とするのではなく、何らかの関連企業に就職するか、あるいは地域公共交通会議の委員になるかのような方法になるかと思われる。

 

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 今の私の立ち位置は、結果として架空鉄道作家のサマンサさんと似通った立場になったものだと思う。サマンサさんは自身の自由を追求するため「徹底した不干渉」を宣言されており、鉄道趣味界との交流をほとんど絶っておられる。その追求ぶりは他者からの「賞賛」すら遮断するレベルであり、私はそこまでには至っていないし至ることはできないが、ただサマンサさんには今後ともこのような立ち位置を貫いてほしいものだと思う。

 

 私がTwitter旧アカウントの時代、多くの鉄道趣味人をフォローしていたのは「インサイドな話」が面白かったからだ。また一応は業界人になる可能性もあったため、それに先駆けて人脈を作る的な意味も少しはあった。とはいえ根本的には人生の迷走でかなり気が滅入っており、せめて「好きな趣味の話」をできる空間くらいは確保したいと思っていたというのが結局は大きい。

 転機となったのは北陸新幹線敦賀~新大阪のルート問題である。私は以前から米原ルート一択だと思っていたのだが、ふたを開けてみればそれよりもB/Cに劣り、L特急の一角にも数えられ今でも毎時運転を行う特急「しらさぎ」のルートを完全に分断する京都小浜ルートが採用されるに至った。私が失望したのはこれを受けた鉄道趣味界の対応である。私は賛否両論くらいになるかと思ったのだが、実際のところは京都小浜賛成派のすさまじいゴリ押しが始まり、それに対する反対意見への罵詈雑言はリンチの様相すら呈した。そしてそのリンチには当時の私の相互フォロワーや片フォローでも以前よりフォローしてきた方々が多数参戦されていたというわけである。

「客観的事実とはこれほどまでに弱いのか」

と改めて思わされた。その後西暦2019年の台風19号【令和元年東日本台風】のときに長野の車両基地が水没して北陸新幹線が不通となり、代替ルートとして「しらさぎ」がクローズアップされたときも私はこれで米原ルートが多少は息を吹き返すかと思ったら、やれ並行在来線を分割するな(※1)だの北陸新幹線京都小浜ルートと中央新幹線を早期に実現させて新大阪で接続を取れ(※2)だのと喚きたてる体たらくであった。結局この区間のルート見直しについては実際に敦賀サンダーバードが分断されるまで持ち越しとなり、これについては鉄道趣味界のみならず社会一般に対してあまりにも対応が後手であると嘆かなざるを得ないのであるが、しかし新聞各紙が社説でルート見直しを求める段階に至ってもなお京都小浜ルートに固執し続ける鉄道趣味者の姿勢はあまりにも嘆かわしいとしか言いようがない(※3)。

 

※1 北陸新幹線並行在来線と言えばえちごトキめき鉄道日本海ひすいラインはたったの1両であるし、その他の区間も2両とかで地域輸送のみでも立客が出ているような状態であり、JRであろうがなかろうが新幹線の代替などできるはずがない。逆にJRができるようなことは現在の並行在来線事業者でもある程度はできるだろう

※2 非常代替とはいえ東京対北陸が大阪経由で良いのだろうか。米原ルートなら名古屋経由にできるわけだが

※3 ただしこれは強調しておきたいのだが、私は京都小浜ルート推進派のすべてをこき下ろしたいのではない。私がこの問題について該当分野の専門家として特にその言動を注視しているのはTwitterではShin-ya Ohnishi氏とTAKA kawasaki氏であるが、このうちTAKA kawasaki氏は京都小浜ルート推進派である。

↑全く仰る通りであり、新幹線という手法に捕らわれずともこの辺りの交通整備が粛々と推進されるようでなければ米原ルート転換も重大な禍根を残すだろう。またこれはTAKA氏の見解ではないが北陸新幹線東海道新幹線乗り入れには困難が伴うのも事実であり、米原ルートへの転換もまたその辺の事情を汲んで京都小浜ルート推進派を罵倒することの無いような人々で進めてほしいものだと思う。その意味においてはネット上の論客は米原ルート推進派もまた多くは落第点である。

 

 

 趣味人というものは、どうも極論を言いたがる傾向にあるようである。SNSだけで収まっているならまだ良いのだが、商業開発の実務家であるpom氏がこのようなことを呟いておられるのを見ると、どうも実社会の実際の審議会のような場所にも鉄道趣味者が極論を持ち込んでいるようである。

↑あまりにも当たり前すぎてなぜわざわざこんなことを呟かれなければならないのだろうかとすら思ってしまうが、こんなことも呟かざるを得ないような無茶苦茶な暴論を公の場で垂れ述べた者が居るのだろう。pom氏にはただただ同情しかない。

 

 私も公共交通・乗合交通の整備・利用推進派であり、猫も杓子も自家用車に乗らなければならないのは国土開発の失敗だとすら思っているのであるが、とはいえpom氏が批判するような輩と同類とみなされてはたまったものではない。それが私に活発な情報発信に対して二の足を踏ませているのだが、しかしそうこうしているうちに機会損失ばかりが膨らんでしまうのである。

 

↑これも本当におっしゃる通りで、公共交通の整備・利用促進と都市の立地適正化は必須であるが、さりとてそれは昔ながらの「電車・デパート・商店街」を維持存続するような施策に拘るべきではなく、郊外モールは今後の地域の拠点としてそれを生かしたまちづくりが必要であろうし、またそこを走る公共交通も昔ながらの代物に拘る必要は特にないのである。私は現代は人々が「都市に住み、郊外に買い物に出るようになった」ことを追認し、商店街活性化は各県都1つくらいの勝ち組を残してあきらめることにし、その跡地を宅地転換した方が良い段階になっており、交通網もそれに応じて変化させるべきだろうと思う。場合によっては都市間鉄道の駅も移転し、街自体を移転させることも考えるべきだろう。

 

↑このツイートはpom氏の最新のRTであるが、私は安藤健吾氏のご意見を拝見しても逆に「そこまでして商店街活性化って必要なんだろうか?」と疑問に思わざるを得ない。もちろん高松の丸亀町商店街のようなところは今後の発展も期待したいところであるが、さりとて他の寂れた商店街はいくら中心市街地にあると言ったところでそこはもはや「過去の市街地」なのであり、商業需要はむしろ既に満たされているからこそ現状があるのであろうし、都市のイメージアップは他の方法を模索するか、あるいは戦略的に「新市街」を作るかした方が良いのではないだろうか。

 

 そもそもの話として、自家用車と公共交通は「違う社会問題を解決する乗り物」なのであり、だからこそどちらか一方ではなく相補的に機能を果たしていけるような交通網を整備すべきなのだ。それはもちろん公共交通・乗合交通の中においても、鉄道・バス・船・飛行機はすべて他の交通機関を補完すべき存在なのであり、個人的にはその中でも特に鉄道については現在非常に弱っているため他の交通機関から需要を転移できるような整備もある程度推進すべきかとは思うが、さりとて世の中の見方はあまりにも対立的でありすぎるようにも思う。

 

↑結局この通りなのであり、自家用車しか移動手段がないのは問題ではある一方で「自家用車に全く乗れない」のもまた問題なのであり、そして昨今注目される宇都宮や富山は道路整備もまた進んでいるのである。私は富山には何度か行ったことがあるが、富山駅前のバスターミナルに発着する富山地方鉄道の路線バスが駅前広場からそのまま直進で国道41号に入り、ロードサイド商店街の中を駆け抜けていく姿にこそ富山という都市の本質があるのだと認識させられたことを覚えている。鉄道網・路面電車網はあくまでもその補助を行うための存在なのだ。

 

 

 さりとて今この日本が再出発のときを迎えているように、公共交通・公共インフラもまた再出発のときを迎えなければならないものと認識している。実際まー氏が指摘する通り日本は大都市・田舎を問わず土木インフラが根本的に過小ではないかと思わざるを得ない場面が多々存在し、にもかかわらず建築業界・運輸業界は悲惨な人手不足に陥るまでに放置されている。立憲支持者の私が言うのもなんだが、今の日本に真に必要な改革は自民党をこき下ろすことでも神宮外苑再開発や中央新幹線を止めることでもなく、市場経済も活用しながら生産性を向上しつつ、人々を多様な社会活動にもいざなうための公共投資が粛々と行われていくようにすることだろう。社会保障との最適な分配比率や最適な税率の問題までは私はまだここに見解を書くことはできないが、そして私も一応は障がい者である以上社会保障の維持・拡充も望まざるを得ないところではあるが、しかし一方で文化リベラル的な反開発・反大規模土木工事的な言説にはこれまた全く賛同することはできない。

 

↑まー氏の言説と言えば「日本は道路事情もよくない」という指摘も非常に重要である。日本国内でも隣の芝生は青いとしたがる主張はごまんとあるが、実際のところ日本国内において本当に”優遇されている”ものなんてほとんどないのであり、実際には足りないもの同士の低レベルな足の引っ張り合いでしかない場合が大半なのである。

 

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↑最近私のマイブームとなっているウェザーニュースLIVEでは気象予報士の山口剛史氏による大雨知識の特番が7/20に組まれたが、この中で「日本に降った雨の8割は活用できずに流れて行ってしまう」という指摘があった。水利設備と言えばダムであり、そしてダムは公共事業反対論の王様のような存在でもあるが、実際のところ多少梅雨が短かったり猛暑が続いたりする程度ですぐに水不足になる日本の水事情を鑑みると、実はダムもまた不足しているのではないかとも思うところである

 

↑なぜ日本の公共投資はこうなのかと言えば、それは大石久和氏が指摘するようにそもそも日本には城壁都市の伝統がなくそれ故に「共通の敵に皆で立ち向かう」的なインセンティブに乏しく、ヨーロッパの国々に見られるような「公共精神」に乏しいというところが一つ考えられるだろう。また戦後はそれを受け継ぐ形で弁護士の堀新氏が指摘するように日本の言論界をリードした左派文化人達が結局は「社会福祉文化施設だけはあってほしい無政府主義者」であったが故に、社会民主主義的な分配政策もまたどこか「必要最低限」的なものとなり、その後は文化リベラルの勃興に飲まれ教条的な反開発論者へとなり果てたこともまた背景にあると言えるだろう。実際私は立憲支持者としてTwitterの左派・立憲支持者達の言動を観測してきたが、根底にリバタリアニズムがあるとする「左派」が多いのには驚かされた。結局日本の左派はリバタリアンの隠れ蓑となってしまっているのであり、だからこそ旅行支援や高速交通整備等には冷淡なのだろうと思わざるを得ない。それが必要な分配政策や自由人権的改革の足を引っ張っているものとも思われ、私はそのような左派に今後とも期待するのではなく実際の一般市民の生活に立脚した「リベラル派」の誕生をやはり夢想せざるを得ない。