前回の記事を公開したことにより、とりあえず私がこのブログでやりたかったことは一区切りついた感がある。もちろん書きたいことはまだあるが、そもそも私の趣味の中核たる鉄道は結局のところケースバイケースとしか言いようのない代物であり、端的に言って東京と北海道では必要なものも取るべき政策も何もかも違うし、北海道の中でも札幌と根室ではやはり違うし、たとえ同じ人口密度・同じだけの交通流動のある区間でも他の路線・他の政策との兼ね合いで違う答えが出て当然である。その他の比較においても、例えばバスと鉄道では交通体系上担う役割もコスト構造も違い、また新線建設と赤字路線の補填でも意味合いが全く違ってくる。私はこれでも住む市町村によって生活水準に著しい差が出るのは問題だと思っており、実際私の生活の中においても名古屋市と京都市の違いだとか、亀岡市と南丹市の違いだとかは批判的に見ているが、さりとて東海道筋には新幹線があるのに○○には新幹線がないのは差別だとか、「○○にはx億円投じられているのに××にはy円しか投じられていない」とか言われても私は基本的に賛同することはできない。そのような比較言説は結局は「足の引っ張り合い」でしかなく、また一般に”優遇されている”とされる方は何らかの理由により一見すると優遇されているようにも見えなくもないような公的支出のなされ方がされている例が結局は多いのであり、さらに言えばそれらは必要性が高い一方で膨大な予算も必要とするため他の政策に比べれば”優遇”されていてもなお実際のところは不足しているという場合も多いのであり、結局は”優遇”を批判した方に分の悪い戦いになってしまうものである。「人を呪わば穴二つ」とはまさにこのことで、他人の足を引っ張るような言説は結局自己に破滅をもたらすのであり、結局自己の望む政策を実現するには足を引っ張るのではなく、他と相補的に高めあうような論を展開した方が良いだろう。これは他人を批判するなだとか、そういう話とは違う話だと認識している。また一方で生活水準の差に著しい差が出るのは問題だとも思っているため、生活交通の維持のような基礎的な政策において「地元の努力」だとか、「自治体の独自予算による独自政策」のようなものを過度に賞賛することもできず、非常に地域的・局地的な事例を除いてはそれはむしろ全国レベルでの政策に穴があるのだというような方向で捉えざるを得ない。
ところで私は何度も言及しているように立憲支持者であり、それはつまり旧社会党の系譜を受け継ぎ、比較的分配政策の推進も支持する立場だということだ。だからこそ公平性の問題には敏感にならざるを得ない。ただここまで述べてきたように地域間公平性を振りかざして中央新幹線をこき下ろしつつド田舎に新幹線を走らせるような言説にはさっぱり賛同することはできず、それはむしろ地方創生や様々な社会問題解決の足を引っ張るものだとさえ考えている。またこの私は目立った専門分野を持たない代わりに多様な学問をわずかにかじった経験はあり(※1)、経済学・財政学もその入り口の門の前くらいには立ったことがあるため、現在の経済学の主流である新古典派の見解についてもある程度はその妥当性を認めており、たとえば公的支出の方向性として出血を止めるような政策よりもパイを拡大するような政策を重視すべきだというような言説にもある程度までは賛同している(※2)。
※1 そのため学術的な話については様々な分野において、「過度な期待をすると失望するが、無知だと思ってバカにすると火傷する」くらいの存在ではあるかと思う
※2 たとえばTwitterリスト6番でフォローしているデービッド・アトキンソン氏についても高く評価している。こなたま氏等が度々批判を挑んでおられるが、批判者の方に対してまず経済学を学ぶべきだと思わされることが多い。ただ新古典派経済学はかつてのマルクス経済学と近代経済学の対立のような真っ向から対抗できる主要な学説は特にない一方で、その批判的見直しは世界中の経済学者によって試みられており、MMT論者叩きに見られるような現在の学説を絶対化して振りかざすようなやり方はいずれ足元をすくわれるだろう、とも思っている。
社会保障の乗数効果が大きいならば、財政赤字を増やして、乗数効果がほぼなかった事実を説明して下さい。 pic.twitter.com/phnaRbPGqU
— デービッド・アトキンソン David Atkinson (@atkindm) 2023年5月21日
↑分配政策を重視すればこそ、このような事実は直視すべきである。交通分野は社会保障と生産性的支出のどちらともいえるが、一般に赤字路線への補填は社会保障的側面が強く、一方で新線建設は生産性的支出としての側面が強いのであり、そして社会保障への過度な支出は経済の過度な萎縮を招くのだ
果たして国土政策・交通政策における「公平性」とは何か。「国土の均衡ある発展」とは実際のところいかなる均衡を目指すべきなのだろうか。それは「国土利用と地方創生」の(1)に戻ることになるが、物理的なものではなく実質的側面において追求されるべきだ、ということになるだろう。たとえば「自家用車に乗らずとも生活できる」「自家用車に乗るという選択肢も認められる」は、国土のいかなる場所でも自由に選択できて然るべきであり、行政の責任においてその自由が確保できない場所においては住居の建築確認申請を受理しないというようなやり方もあって然るべきだろう。一方で自家用車に乗らずに生活することを選択された方々が乗る乗り物は、場所によっては鉄道になり、それがバスになったりライドシェアになったりあるいは船になったりすることもありうるだろうが、運行頻度・運賃・乗り心地(※3)の面を含むある程度の利便性が確保されるのならばいかなる乗り物でも可とすべきであり、何としても新幹線でなければまかりならぬというような話はまともに取り合うべきではない。
※3 乗り心地は現在政策的に重視する見解を全くと言って良いほど見かけないが、これも本来は非常に重要な要素であるはずである。たとえば現在主流のノンステップバスはおおむね30分程度の都市型路線においてはさほど問題なく乗車できるが、より長距離の路線においてはもっと長距離利用に適した車両とするべきであるだろう
これも過去の記事に戻る話だが、国土の均衡ある発展や地域間公平性は従来あまりにも物理的側面を重視しすぎたが故に、実質的には失敗したと言わざるを得ない状況に追い込まれているのだろう、と思う。これは国土政策・交通政策に限らず社会の様々な問題に対して言えることであるが、今後は物理的・形式的なものを目指すのではなく、より実質的な方向を目指す政策にシフトすべきである。現在の国政政党の中でこのような話が最も通りやすいのはやはり立憲民主党であるだろうと思われ、だからこそ私は立憲支持者をやっているわけである。