7/24の記事で、非公開ブログの方では去る4月より「対立の内包」をいよいよ可能とすべく空想主義思想について取りまとめていたという話をチラッとしたが、今回はなぜそんなことになったのかということについての記事となる。
始まりはと言えば3/18のこの↓ツイートにさかのぼることになる。
私の見解に最も近いものは自由主義的社会主義である https://t.co/VHuwkZQ4IU @idr_labsから
— 空想委員・臼井空 (@AtorsM1) 2024年3月18日
ふむ
これはたまたま立憲民主党支持者諸氏がIDR Labsなる政治価値観テストをやっておられたために私もやってみたら、「自由主義的社会主義」と診断されたというものである。
これは驚いた。それは自己認識では相当自由主義寄りの人間だと思っていたためである。ただ同時に納得した自分も居た。というのも私は自民党でも維新の会でもなく、あえて立憲民主党を支持するような人間だからである。立憲は社会主義政党ではないが、しかし左寄りではあるわけであり、当然それはまた私も同じなわけである。
というわけで自由主義的社会主義者を名乗るのも良いかもしれなかったが、とはいえ私は「社会主義者」という呼称にはいささか抵抗があるくらいには右寄りの側面を有している。さりとてここでせっかく社会主義者だと診断されたのだから、頭ごなしに否定するのではなくどうにかして活かしたい。このようなアンビバレントが発生したため、これはどちらかに統一するのではなく「対立の内包」を行うべきではないか、と思ったわけである。
・「社会主義」を考える
3/18の診断以来私は社会主義というものについて考えるようになったが、私が昨今思うこととしては
「日本にはまともな自由主義勢力が存在しないと言われるように、まともな社会主義勢力もまた存在したためしがないのではないか」
ということだ。そしてそれゆえに日本社会における社会主義という概念へのイメージが過度に悪化しているというところまで含めて、実は自由主義と同様の問題を社会主義もまた抱えているのではないか、という発想に至っている。
今ファクトを提示することができないのだけれどどこかで読んだ記憶があるのだが、フランスでは美術館に入ることは基本的人権であるという。また多くの国において公共交通機関(乗合交通)の整備に熱心なのは左派勢力だが、その公共交通機関とは最低限の生活交通のみならず、高速鉄道まで含まれるものと認識している。このように諸外国の左派勢力(社会主義勢力)には最低限の医療や福祉の拡充だけではなく、「豊かさのための再分配」という発想があるように見受けられるのだ。一方で日本の左派勢力はと言えば最低限の医療や福祉の拡充に注力し、人々を多様な社会活動にいざなうような事業・政策は「贅沢」として批判する傾向があるように思われる。それにより結果として「社会主義勢力が社会権を軽視している」という不思議な状況になっており、またそれにより支持されるものも支持されなくなっているのではないか、と私は昨今思っているのである。
もっとも今回の記事については何ら出典が貼られていないことからも明らかなように、現時点では私の脳内に発生した思い付きの域を出ないものである。私の思い付きが正しいのか間違っているのかも含め、今後学習を進めていきたいと思う。