今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

実現性偏重の弊害

 前回で一区切りのつもりだったけど、面白い記事を見つけたため3/4の記事も公開することにする。

 

空1年3月4日(西暦2019年3月4日)

・「現実からの解放」の第一歩

→「事実」と「正義」の分離。そのために必要なのは

1.「実現性」と「妥当性」の分離

2.「定量的評価」と「趣味的評価」の分離

であり、両者は相補的に併存させるべきである。

 


 現代日本(少なくとも太平洋戦争以降。あるいはそれよりもっと前から)の問題点は、実現性についての議論と妥当性についての議論がごっちゃになっていることと、定量的評価と趣味的評価が無用な対立を起こしており両者が足を引っ張り合っていること。これらはそれぞれ別の地平に立つ概念であり、本来は対立概念ではなく、むしろ相補的なものであるという認識を持つべき。それが「現実からの解放」の第一歩となる。

 

・実現性偏重の弊害

 これが日本だけの現象なのか否かは知らないが、少なくとも日本では実現性が過剰に重視されており、妥当性が軽視される傾向にあるように思う。これによる弊害は以下の通りであると考えられる。

 議論の前提として、「妥当」という概念自体は以下の2つに分類できる。

a.倫理的妥当性

→それは倫理的に正しいか

b.方法論的妥当性

→それはそもそも課題を解決できる案か

 また物事を解決に導くための代替案は、以下の4つに分類できる。

1.実現可能であり、かつ妥当な案

2.実現可能だが妥当でない案

3.(現時点では)実現不可能だが妥当な案

4.実現不可能であり、かつ妥当でない案

 実現性偏重主義の弊害は、類型3の代替案が軽視され類型2の代替案がまかり通ることである。何か問題を解決するとき、常に類型1の案が存在すれば良いが、実際には存在しないことも多い。つまりそのとき実行可能な案のみで物事が解決できるとは限らず、物事を解決するためにはある程度「不可能を可能にする」ことが求められることもあるわけである。にもかかわらず実現性偏重主義においては、倫理的または方法論的のいずれかあるいは両方が妥当でない案が「解決策」として採用されてしまい、かつその妥当でない解決策で物事を解決することに労力が注がれてしまう。これが、実現性偏重主義の弊害である。労力を注ぐならば「不可能を可能にする」努力に労力を注ぐべきであり、それによって類型3を類型1にするべきなのだ。