今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

空想委員会の起源について

 前回に引き続き、今回は2月の記事から公開したい。

 

空1年2月1日(西暦2019年2月1日)

・現実主義の逆説

→現実に対する最も現実的な代替案は、現実それそのものである

 当たり前の話だが、現実は必ず何らかの理由があってそう構築されているのだ。現実の持つ構成要素をすべて肯定したら、それは現実それそのものにならざるを得ない。

 

 逆に言えば、何らかの変革を成し遂げることを欲するならば、必ず現実の構成要素を何か一つ以上否定しなければならない。何を根拠にしてそれを否定するかと言えば、それは「理想」であろう。現実に存在する何かを変革したいと欲するならば、必ず理想を持たなければならないのだ。

 何かを主張する限り、人は理想主義者にならざるを得ないのである。

 

・主張することは、否定することである――肯定の逆説

 何かを肯定することは、それ以外のすべてを否定することである。

 

 肯定だけをする者は、何も是とすることができない。なぜならば、何かを是とすることは、それ以外のすべてを否定することだからだ。

 私が否とするものも、それを願った者が居るのである。否とするのは、その願いを否定することである。その願いを踏みにじることである。しかしそれを否定しなければ、私の願いが否定されてしまうのだ。

 あらゆる主張は暴力的である。何かを発言することは何かを奪うことであり、誰かを殺すことである。決断は戦いであり、主張は戦争である。人は戦い続けなければならないのだ。

 

・狂気について

 「狂気」とは、「『現実』に屈して不正義を受け入れること」である。

 これはアニゴジ前日譚小説に出ていた「狂気とは、理性だけになってしまうことだ」という意味のセリフに基づいている。それもそうだろう。狂気はなぜ実行されるか、と言えば、それは「必要だったから」である。たとえば東日本大震災のとき、多くの人が無人のコンビニから物を盗んだことがわかっている。これはまさに震災という異常事態が生み出した狂気だろうが、さて人々はなぜこのような行動を実行したのか。それは「必要だったから」である。異常事態の中、人々が冷静かつ客観的に状況を分析し、理性を持って行動したからこそ、「モノが足りない」ことに気付き無人のコンビニから物を盗んだのだ。狂気は感情的行動ではなく、むしろ極めて理性的な行動なのだ。故に倫理は狂気に対して無力なのである。人々はそれが倫理的でないことを知りながら、しかし「必要だったから」狂気に走るのである。

 

 

・大人になるとは、もう一度夢を見ることだ

 人間は以下のように発達段階を踏むと考えられる。

1.子ども時代:夢を見る時期

2.青年期:夢に挫折する時期

3.成人期:事実を踏まえ、もう一度夢を見る時期

 

 現実に屈し、夢を諦めるのは青年である。そして青年は狂気に走るのである。

 それに対して成人は事実を踏まえ、もう一度夢を見る。そして子ども達に、より良い未来を残していくのだ。

 今の日本は夢に挫折している。これはかつて、マッカーサーが「12歳の子ども」と評した日本という国が、今まさに青年期を迎えているということではないか。ではこの次に来るのは成人期であるはずであり、またそうであるべきだ。

 

2月3日

・この世は良くなっているのか、悪くなっているのか

→短期的には悪くなっているところもあるが、長期的には良くなっている

 故に、「短期的悲観と長期的楽観」の組み合わせこそが最適解なのだ。

 

 なぜそう言えるのかと言えば、人類の歴史がそうなっているからである。人類史上悲観論は全敗している。西暦1960年代には「アジア崩壊(アジアの人口爆発に食糧生産が追い付かず深刻な飢餓が発生するという予測)」が叫ばれていたらしいが、その後のアジアの経済発展と少子化はその予測を完全に覆した。その20年前には日本で「アメリカが勝つと日本人は皆殺しになる」などと言われていたが、むしろアメリカに敗北した後の方が発展した。事実として悲観論は全敗しており、今我々は人類史上最高の時代を生きている。それは今後も続くだろう。つまり地球温暖化少子高齢化もいずれ克服されるのである。

 だがしかし、人類という種族はそれでよいとしても、個々人の運命はむしろ短期的事象の方に左右される。故に世の中には常に

「悪くなった、悪くなった」

という話ばかりが跳梁跋扈するのである。また同時に、人は短期的楽観と長期的悲観という組み合わせで物事を認識しようとする。なぜなら災いが自分に降りかかってくるとは思いたくないからだ。災いには備えなければならない、だがしかしその災いは自分が死んだ後にやってくる。人はそう思い込みたいのである。だからこそ人は見誤る。目の前の災いを過小評価しようとする。だが残念ながら、災いに直面するのは今を生きる我々であり、災いから解放された世界に生きるのは未来の子ども達である。この構図は未来永劫不変である。我々は先人達の困難を知り、それよりはマシと思って目の前の災いに立ち向かうしかないのである。実際、先人達よりはマシなのだから。

 

空想委員会の起源について

 大人への反発、というのは間違いなくある。

 

 我々の世代(西暦1990年代生まれ)というのは、平成不況の深い絶望の中で教育を受けた世代だ。よく覚えているのは、小学校1年のとき、教務主任が学活の時間を丸ごと潰して

「世の中は豊かになったが、その反動で人々の心は貧しくなった」

「世界平和」

と書いたところ、教師に

「そんなことは実現不可能だ」

などという説教を食らったことである。私はこう思わざるを得なかった。

「そんなことわかり切っているよ」

だがしかし世界平和などという、定番中の定番すら書いてはいけないのならば、何を願えというのだろうか? 願いなどというものは叶うかどうかは関係なく願うものだ。そこに現実主義など不要である。私は今でも、あの教師はとち狂っていたと思っている。なお1月1日の所見で書いた海上保安庁が武器を使わないのは憲法9条のせいだなどというでたらめを言ったのはその教師である。

 

 私の見たところ、大人たちは好き好んで悲観論ばかり見ているようだった。少しでも自分達に都合の悪い話のネタがあれば、藁にも縋るようにその話に飛びつくのだ。そしてそれが虚構であっても決して認識を変えないのだ。そうして好き好んで絶望しているようだった。私はこう思わざるを得なかった。

「この人達は絶望に浸りたいのだ」

 私はこの人達のようにはなるまいと思った。でたらめの絶望に身を委ねるのが現実主義だというのならば、私は現実主義とは決別しよう。そして事実を見よう。絶望すべきは絶望するが、希望は希望として認識しよう。そして確かに存在する社会の課題に対しては、科学的かつ合理的な解決方法を探し求めよう。そしてそれを社会に提示し、社会をより良い方向へと導いていこう、と思ったのだ。

 私は灯台を作ろうとしたのだ。混迷の海を進む社会という船に、一筋の光を投げかける灯台を。その光はまさに希望である。その希望こそが最初期の「空想計画」であり、それを投げかける灯台こそが最初期の「空想委員会」だった。

 

 空想委員会の歴史は、そうして始まったのである。

 

・理想論について

 最初期の空想委員会を語る上で欠かせないワードがある。「理想論」である。「正論」あるいは「きれいごと」と言っても良い。そして空想委員会とは、理想論を語るための組織だったのだ。より正確には、理想論を語り合う場を作るために空想委員会を作った、と言うべきだろう。

 私が理想論を重視した理由は2つある。第一に、

「社会が絶望にまみれているのならば、一時の癒しとして理想論は必要不可欠なはずである」

ということである。要は「理想くらい語ってないとやってらんじゃないじゃん」ということである。人間の精神力には限界がある。”辛い現実”だけを見て生きるなど不可能だ。私は結局のところ、理想を拒絶することのできる人間は”辛い現実”をまともに見ていないのだろう、と思っている。”辛い現実”から適当に目をそらせるからこそ、”辛い現実”だけを見て暮らすことができるのだ。だから常日頃から現実、現実と言い、理想論をせせら笑う自称リアリストに限って、いざ災厄が起こったとき事実から目をそらすのである。

 第二に、2月1日の所見に書いた通り、

「何かを主張する限り、人は理想主義者にならざるを得ない」

からである。だがこの事実を強く認識したのは高校に入ってからであり、中学生だった私が委員長をやっていた最初期の空想委員会ではあまり重視されてはいなかった。ただ重視されてはいなかったが、薄々感づいてはいたように思う。

 

 そんなわけで、空想委員会とはまさに理想論を語り合うための「場」であった。「委員会」なのはそのためである。空想委員会は灯台であると同時に、会議室(議場)でもあったのだ。今でも私は1月31日の所見に書いたように、空想委員会内部に異論を認め、言論の自由と活発な議論を担保しようとしている。それはなぜかというと、今でも空想委員会とは「理想論を語り合うための場」だと思っているからである。

 

・行き詰まった理想論

 だがしかし同時に、空想委員会の歴史は理想論への挫折の歴史でもあることも、また事実である。

 

 理想とは途方もないものである。終わることのないものである。最初は少し現実から違うだけのものを理想だと思い込んでいても、すぐにそれを上回る理想があることに気付く。そして理想を追い求めれば追い求めるほど、現実から乖離し、実現不可能になり、そして現実に不満を抱くようになる。そしてやがては虚無へと至る。何もかもにやる気を失せ、物事がどうでも良くなっていくのだ。

 

 最初の問題は、日本が軍事力を保有することを認めるか否かという問題だった。理想論は絶対平和主義である。軍事力を撤廃し戦争を放棄するのが理想である。……はずだが、本当にそうなのかどうか私は疑問に思っていたのも、また事実だった。この世には軍事力があるからこそ秩序が保たれている、という話は極めて合理的であり説得力があったからだ。私は鶴舞中央図書館で「14歳からのリアル防衛論」などを読みながら、次第に軍事力容認へと傾いていった。そして作り上げたのが、「平和主義的戦争肯定論」である。

 これはすなわち、「武力攻撃を受けたとき、軍事力を用いて敵軍を国境線に食い止めていれば、本土は平和である。故に軍事力は平和の領域を拡大するから、軍事力の保有を認めるべきである」という理屈である。私はこの理屈を以て、完全に軍事力容認論者に鞍替えした。しかしこれは理想論との妥協であった。空想委員会はこれに反発した(※1)。以後委員長たる私と空想委員会は対立し、和解するのは実に空1年(西暦2020年)8月になってからのことである。

 

※1 正確には私が分裂し、軍事力容認派が「私(委員長)」に、軍事力否定派が「空想委員会」になって対立した、というべきである

 

・迷走

 そしてこの理想論への妥協と現実主義の容認こそ、長い迷走の始まりであった。それもそうだろう。元々現実主義への反発のために空想委員会を作ったのに、当の私が現実主義を受け入れてしまっては空想委員会の存立基盤がなくなってしまう。早くも空想委員会は存立の危機を迎えたのだ。だが結果的に組織自体がなくならなかったのは、私が理想を追い求めることを諦められなかったからだ。

 自信がなかったのである。とにかく自信がなかった。空想委員会などという取り組みに対する妥当性を担保するものなど何もなかったから。私はあまりにも未熟な子どもであった。大人達に抵抗し続けるなど土台無理な話だったのである。追い打ちをかけたのはティモシー・ライバックの「ヒトラーの秘密図書館」だ。あの本で私は稀代の犯罪者、アドルフ・ヒトラーが読書家だったことを知った。私も自身を読書家だと思っていたから、つまり私はヒトラーになるかもしれないのだ。空想委員会はナチスになるかもしれないのだ。私は自分自身に恐怖した。空想委員会にも恐怖した。さりとて読書を辞めることが正しいとも思えなかった。

 高校生になったときにはすっかり自信喪失していた。東日本大震災以後の民主党政権を支持しきれなかったのもそのためだ。空想計画の発祥たる鉄道計画も行き詰まった。鉄道事業者は各社とも様々な制約の中、理想的なダイヤを組んでいることがわかったからだ。「現実に対する最も現実的な代替案は、現実それそのものである」という逆説についに直面したのである。そしてその理想的なダイヤを持ってしても、鉄道の利用者は減少しているのだ。理想的なダイヤを組めば問題はたちどころに解決する、という楽観はここに潰えた。そしてこの行き詰まりを、私はついに解消できなかった。

 

 空想委員会の発足から迷走の開始までを「第0次空想委員会」、そして迷走開始から第二次空想委員会発足までを「第一次空想委員会」と呼んでも良いように思う。これからはそう呼びたい。

 

 

・架空鉄道と空想委員会

 鉄道の話が出たところで、空想委員会のもう一つの起源である架空鉄道について語っておきたい。

 私の架空鉄道の始まりは小学校の登校分団を列車に見立てたところだが、空想委員会の起源となったのは小学校近くの空き地にホームを並べて中央駅にしたい、と思ったところに始まる。登校分団は「七本松鉄道」、空き地は「千代田鉄道」であった。以後七本松鉄道は名古屋中央鉄道に発展し、また千代田鉄道は空想委員会に発展して今でも併存しているというわけである。ここでは千代田鉄道の系譜を述べることにする。

 千代田鉄道の画期的だったところは、私の日常生活に全くタッチしないところである。中央駅たる空き地は確かに小学校からすぐのところにあったが、しかし目の前というわけでもない中途半端な場所だった。千代田鉄道はそこを起点に、あおなみ線に直通したり中部国際空港まで行ったりするのだ。基本的には路面電車なのに普通鉄道に直通運転したり知多半島を専用軌道で駆け抜けたりするのだ。空港特急を4両で走らせるために国交省の特認を受けているのだ(※1)。そしてそれほどの鉄道でありながら、私の家の前にも小学校の前にも電停はないのだ。正直言ってなぜこの鉄道にあれほど入れ込んだのかは全くわからないのだが、当時の私はとにかく千代田鉄道が好きだった。まだ地図が読めなかったから路線網は断片的で適当だったが、その分サービスに力を入れた。路面電車でできる限りのサービスを展開した。たとえば夕方の電車の車内では野菜を売って移動と買い物が同時にできるようにした。誰が利用するのかわからないけどとにかくやった。誰も考えたことがないだろうからこそやった。こういうところが後の「常識外れを排除しない」という姿勢に繋がっているんだと思う。そういう意味で千代田鉄道は空想委員会の起源なのだ(「第-2次空想委員会」とでも呼ぼうか)。

 

※1 日本では「軌道法」の定めにより路面電車は最長で40メートルに制限されているが、京阪電鉄京津線国交省の特認を受けて4両の電車を路面電車として運転している。もっともこの特認は路面電車区間に停留所がないから認められた可能性があり、道の真ん中に堂々と電停を置く千代田鉄道で特認が受けられるかどうかはかなり疑問である。また受けられたとしても、おそらく中央駅発車直後にある直角カーブを曲がれないだろう。

 

 さてそんなときに、私は夕方のNHKニュースであおなみ線の苦境を知る。名古屋駅までしか行かないから栄まで直通する東山線に対抗できないらしい。しかし一方で栄の経済的地盤沈下も著しく、松坂屋三越丸栄もJR名古屋高島屋にお客を取られて苦境らしい。そこで私は思ったのだ。

「栄を中心としてあおなみ線や各地を結ぶ鉄道を走らせれば、あおなみ線も栄も救われるじゃないか」

東山線が栄へ行くから利用されるというのであれば、つまり栄への交通需要はあるわけである。しかし現状では地下鉄と瀬戸線しか乗り入れていないから、JRも名鉄近鉄も乗り入れている名駅に勝てないのだ。だったら栄を中心とする鉄道網を整備すれば一挙に問題解決じゃないか……そんなわけで千代田鉄道は栄を中心とする普通鉄道、「愛知電気鉄道」へと発展したわけである。

 ……なぜここで「千代田鉄道を発展させる」という方法が取られたのかは定かではないが、おそらく私自身の日常生活に無関係な鉄道という点が被ったのと、中央駅にしていた空き地がコインパーキングになったことが関係していると思われる。

 愛知電気鉄道が画期的だったのは、「架空鉄道と社会問題をリンクさせたこと」だ。これこそが社会問題を解決するための空想の始まりであり、こういう意味で空想委員会の起源なのである(「第-1次空想委員会」とでも呼ぼうか)。

 愛知電気鉄道は後に東京~名古屋の特急(全席指定個室車食堂車連結)を走らせるまでに成長したが、並行して私は現実の世界にも様々な鉄道計画があることを知った。名古屋の地下鉄も新幹線もまだまだ新線計画があるのだ。私はそちらにも関心を持ち、愛知電気鉄道と並行してそちらの構想も開始した。そしてまたそのころにダイヤ構築の面白さを知るのである。愛知電気鉄道にも既存の鉄道・計画路線にも様々な列車を走らせた。特急が普通を追い越す駅をどこにするかで頭を悩ませた。当時の私はある種の確信を持っていた。それは、「理想的なダイヤを組み、サービスを展開すれば利用者は伸びる」という確信だ。鉄道は車両ではなくダイヤである。そしてどこに駅を設置するか、駅の出入り口をどこに置くか、職員の対応はどうか、と言ったことが利用者数を左右するのだ。車両ではない。それは豊橋鉄道えちぜん鉄道が中古車両で利用を伸ばしていることから明らかである。もちろん現実には資金的都合で必要な投資ができなかったり、用地買収や人員確保が上手くいかなかったりするからなかなか理想的にはいかないわけであるが、しかしここは空想世界である。いくらでも理想を突き詰めることができる。という具合に私は全国に架空鉄道を展開した。

 中学校に入って、通学路鉄道(=名古屋中央鉄道)以外の「社会問題系架空鉄道」に総称を与えた。

「空想鉄道計画」

愛知電気鉄道その他の架空鉄道は空想鉄道計画の一部となった。これこそが空想計画の起源である。これが後に空想交通計画になり、空想計画になるのである。