今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

公開ブログの記事拡充に向けて――あるいは今という時代の話

 今の公開ブログの問題点は目的と目標が不明瞭なことである。

 

 では何が目的かと言えば

1.アウトプットによる学習効率の増大・思考整理による行動の加速化

が第一に挙げられる。また

2.自己紹介カード的機能(→私が何者であるかを洗いざらい表示しておく)

も開設目的である。

 

 一方で目標としては「空想委員会の社会活動の足掛かり」と「知性の砦」の2つが挙げられる。前者は個人的機関にとどまっている空想委員会を社会活動も担う機関へと昇華させるため、その足掛かりとして言論活動を行うというものである。後者は正誤入り乱れるインターネットの世界において、私自身がそれに飲まれないこと・客観的事実と学術的根拠に基づいて世界観と論説を構築していくことを最たる目標とし、ネット上に蔓延る出鱈目を批判して本来我々が今何をなすべきかを考えていく場所にしたい、という私の欲求を反映したものである。

 

 そもそも空想委員会のユニークなところは私の人生の諸問題を社会の問題と完全に連続したものとして捉えているところであり、それ故に空想委員会は私の自己統治において重要な役目を担いつつ社会活動をも模索するのである。そうして私と社会とが共に歩み寄ることによってこの社会を私にとってより暮らしやすいものにしていくこと、それこそが空想委員会の最も根源的な目標なのである。空想委員会が組織目標として掲げる「現実からの解放」というのも、これは私が既に現実から解放されているから社会もそれに合わせよと一方的に言っているのではなく、まず第一に私自身がありもしない「現実」に囚われているという認識を前提として私自身を客観的事実に基づいて解放するというものであり、そしてその手法を応用して社会もまた解放しようというものなのである。一方で重要なのは「共に歩み寄る」という点であり、私はこの社会そのものを含む他者への一方的な恭順は完全に拒絶するものである。ありもしない「現実」に囚われているのは私だけではなく人類すべてがそうなのであり、だからこそ事実は対等な対話の中にしか存在しないのであって、一方的な恭順には決して存在し得ないのである。私はネット上にたまに存在する「事実主義者」(→私は事実に基づいて行動する人間であると自己主張している人物)については基本的に警戒対象としているが(→例えば社虫太郎氏も私にとっては警戒対象でもあった。実際相互フォロワーとして氏の限界もまた強く感じていた)、これは自称事実主義者には自分自身が「現実」に囚われている、という発想がないため、彼らは結局自分が事実だと思うものを事実であると強弁して他者に押し付けているに過ぎないからである。もちろんこうした自己への懐疑の欠如は自称事実主義者に限らずそこら中で見られるものであり、特にこの日本社会においては「目で見たことを信じること」がなぜか理性的なことであるとされているため、おそらくは世界的に見てもその傾向がかなり強いのではないか、と思わざるを得ないのは残念な点である。そしてこの点は今後日本社会における大きな足かせとならざるを得ないだろうと私は考えている。

 

 地質時代的に見れば、今人類は「人新世」の入り口に立ったところである。人新世とは簡単に言えば、「我々の成した行為の代償を我々自身が支払わなければならない時代」であると言えるだろう。ここで人類に何を支払わせるべきかを決定するのは地球をはじめとする自然環境である。そして自然は人類が築き上げてきた「現実」という物語に合わせて動くのではなく、【物理法則】という彼らの論理によって動く代物である。当然人類が払うべき代償の額は物理法則によって算出され決定されるのである。ここで人類の「現実」という物語は何ら意味を持たない。私は人類が今日のような繁栄を築き上げることができたのは事実ではなく虚構を信じ、「現実」という物語を築き上げそれに従うことができる生き物だったからだと考えているが、今その能力がいよいよ足かせになろうとしているのだ。このまま人類が「現実」に基づいて社会を運営すれば、確実に人類は滅びるだろう。今後も人類が繁栄を望むのであれば、社会の基軸を物理法則=客観的事実に変更しなければならないはずである。だがそれは我らに大きな世界観の変容を迫るものであり、我らから解釈の自由と喜びを大きく奪うものでもあり、また「現実」という物語を描くことを生業としてきた知識人・政治家・聖職者・作家と言った人々の多くは失業を余儀なくされるだろう。当然一朝一夕にできることではなく、その過程では多くの犠牲も出るものと思われる。だが、未来はおそらくその先にしかないはずである。

 

(非公開ブログからの転載)