今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

「知識人」の時代の終わり

 このブログは読者数拡大に向けた取り組みは特に何もしない方針であるが、それでも今まではなんだかんだ言って記事を投稿すればそれなりにアクセスされてはいたのだけれど、6/27に投稿した2本についてはさっぱりアクセスが増えなかった。前2本はなんだかんだ言って読まれているならばと一応は読まれることをそれなりに想定して書いたつもりだったのだが、これはどうしてなのだろうか。実際私としてもこの公開ブログもSNSもどうして行きたいのかよくわかっていないところがあり、今でもTwitterに反応が来ること自体奇跡だと思っているところもかなりあるのだが、それでも私の状態は今ようやく社会活動がまともにできるようになってきたところ(※1)であるし、一方でネット活動というのは読まれないのならば読まれないで炎上もしないため気楽にやれるわけであり、これで何かを変えるということは特にないだろうと思う(※2)。

 

※1 おそらく過去20年間で今が一番落ち着いている。かつては何らかの肩書があったとしても、まともな社会活動は何もできていなかった。

※2 というか、万策尽きてここにたどり着いたわけであるからここからおいそれと何かを変えることはほぼ不可能である。今の私は水が雨として大地に降り注ぎ、川として流れた結果として、今ようやく海にたどり着いたところであるのだ。ここから再び雲になって大地を目指そうとしているところだが、再び降り注ぐにはなお時間がかかることだろう。

 

↑こんなときは自己嫌悪が貯まるもので昇り龍さんのツイートが減ってしまったのも私がリプを送ってしまったからかとか思っていたところもあったが、実際のところそんなこともないわけでこのような反応を頂いたわけである(苦笑)いや理性ではわかっているのだが、感情というのはコントロールできないものなのだ。

 

 それにしてもYouTubeを見るようになった次はいよいよ元祖動画コンテンツと言える放送大学NHK講座にも手を出して行こうと思っているところだが、それはそれとして私はやはりSNSというものは高く評価せざるを得ない、と改めて思うことがあった。何の話かと言えば特定原付の話である。LUUPの電動シートボードはどこを見ても不評の嵐であるが、私はこの件については古参相互フォロワーで今はシェアライドを追いかけておられるばか者さんの発言を見てやはり冷静に判断すべきだと認識したところである。原理原則論としては私自身も法関係含め自己で追いかけるべきではあるのだが、実際のところ私一人で追いかけられる情報は非常に限られるわけであり、追い切れない問題についてはどうしても専門家の判断を大いに参考にするしかない。ただ特定原付のような新しい乗り物は専門の研究室があるわけでもなく(※3)、もちろん一般メディアにはほぼ何も期待できないわけであり、こういう問題ではやはりSNSの趣味人を専門家とするのが最も合理的なわけである。このような件に関してはもしSNSがなければ話題になることもなかっただろうし、もちろん私がばか者さんの発言を拝見することもなかったわけであり、一体SNSが普及する前、つまりは情報化以前の世の中というのは、一体どれほど人々は狭い蛸壺の中に居たのかと考えるとぞっとするものである。結局インターネットが人々を分断しているわけではなく、人類は元より狭い世界に細分化されていたのであり、単にそれが可視化されただけなのだろう。

 

※3 あるのかもしれないが、そうすぐに見つけられるものでもない

 

www.watch.impress.co.jp

↑全党派の総攻撃のような状態の中、こういう冷静なコメントを読めるのもSNSの良いところである。

 

 一方でいささか陰謀論チックになることを承知で書けば、SNS時代に誰が一番困るかと言えばそれはやはり「知識人」であろうと考えざるを得ない。SNSの普及の結果知識人達が一方的に「啓蒙」を行うことができなくなり、また疑似的な全能感に浸ることもできなくなってしまったわけであり、大衆をバカにする発言をすれば直ちに知れ渡り、そして彼らから見ればこの世の現状はバカな大衆が啓蒙を有難く聞くことも無くなりよりバカになった結果様々な問題が起こるようになったのだという物語が成立することは容易に想像がつく。現代は閉塞感が漂っているなどと言われているが、私はその閉塞感なるものは結局知識人達の絶望感が様々なメディアを通して漂っているだけなのではないか、と思うところだ。ここで社会に閉塞感を漂わせて利益を得る陰の政府があるのだ、と言えば私も立派な陰謀論者だが、実際のところはそうではなくてただ多くの人々の集合的無意識が漂っているだけなのだろうが。

 

↑本が手元にないためうろ覚えで書くが(→実はこういうのも極めて多い。良くないことは承知している)、一見すると教養主義の復活を意図したかのようなブックガイド「必読書150」の前書きには、実は教養主義というものが無批判に喧伝された時代は無く、知識人は常に大衆からの遊離が批判されたものであった、とも書かれている。実は現代の問題点は批評の衰退や陰謀論との戦い、冷笑批判等の結果、知識人達がまともに批判されることがなくなった、というのもあるのではないかと思う。「まともに」というのはSNS上で党派性の違う者達から揚げ足取りをされるような罵詈雑言ではなく、真摯にその言説と向き合った結果その矛盾を指摘する、というような批判のことである。そもそも批判とは「比べて判断する」ことであり、その事物を理解した上で褒めるのも批判なのであり、またまともに理解しようともしない誹謗中傷は批判ではないのであるが。その意味においては確かにSNSは問題を作り出しているし、人類の知性を減退させているのかもしれない。

 

↑知識人の代表例と言えば大学教員であるが、特に人文・社会科学系の教員は職業的に人類の愚かさと向き合わなければならないのであり、さらにプライベートでもSNSで罵詈雑言を浴びるとなれば、それは必要以上に今の社会や人々に対して否定的な見解を抱かざるを得ないだろう。それはパンデミック下において重症患者ばかりを診察する臨床医達がサーズ2(旧称:新型コロナウイルス)をさもこのウイルスでこの世が終わるかのようなこと言っていたことと同じことであり、パンデミックのように終わることもない以上より深刻化せざるを得ないという側面もあるのかもしれない。実際にはまさにこのツイートの通りなのであり、私としてはあまりにもこの世に悲観的になったらまず外に出て、青空でも眺めることを強くお勧めしたい。

↑ペン二郎さんは実に冷静なツイートをされるため、私は感染症関連の情報はほぼペン二郎さんの情報のみを参考にしているような状態である。このツイートもまさに仰る通りであり、しかし知識人達は薄弱な論拠をベースに論理を構築する能力には大変長けた人々であるため、人類が普遍的に有する自説強化の性向(→これを心理学で「確証バイアス」と呼ぶのだろう)とも相まって、自分が知り得た情報のみから遠大な物語を作り上げてしまい、間違った啓蒙活動を行うのみならず真にその分野に携わってきた専門家を無知と決めつけて罵詈雑言を浴びせるところまで多々見かけるのは誠に残念な限りである。私としてはSNS時代に最も適応できていないのは、かつては「革新的」とも言われ情報化以前の社会を牽引する存在であった知識人達なのではないかとさえ思わざるを得えない。

 

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↑そうは言いつつも私もたとえば與那覇潤氏のnoteを読むなどするくらいには昔ながらの教養人のような側面も有しているわけだが、たとえばこの記事なんかは本当に「上澄み中の上澄み」のような話であり一般化できる話ではないのではないかと思わざるを得ない。読者としては冷静に読むべきだろう。

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↑これも西暦2019年の選挙で躍進した勢力が先日の選挙では議席数を減らした(→とはいえ数的には2019年以前より多い)という話であり、これで歴史を語るにはあまりにも短期的ではないだろうか。日本の民主党政権が持続したのが3年間だったわけであり、民主主義において一時的な「風」で権力を維持できるのは概ねそのくらいだということなのだろう。もし本当に歴史的転換点なのならば次の選挙でまた躍進するだろうし、一方でここから議席数を減らし続けるようならそもそも歴史的転換点でも何でもなく単なる一過性のブームだったということだろう。民主党民進党希望の党→(旧)国民民主党→(新)立憲民主党が10年以上かけて党勢を立て直しつつあるのを見ている私からすれば、一体何を言っているのだろうかと思えてならない。なお私はそもそもの話として環境左派はその主張の事実性に疑義があり、長期的に何かを成し遂げる勢力ではなく権力を与えるべき勢力でもないと認識している。

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↑與那覇氏の最近の主張と言えばこのような「専門家」批判であるが、私は専門家がもてはやされるようになったのはまさに「知識人の時代」が終わろうとしているということなのではないだろうかと思っている。知識人の時代においては作家や批評家、あるいは名の知れた大学教授には分野横断的に「言いたい放題パスポート」が発給されていたのであり、それが分野限定的になっただけでもSNS時代を迎えて人類が進歩したということだろう。もちろんそうなったからこその問題点もあるのだろうが、私は少なくとも過去の時代よりは今の方がよほど良いと思っている。

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↑まさに啓蒙の時代が終わり、対話の時代が始まったということだろう。

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↑最後になったが、私は別に與那覇氏のnoteで粗探しをしているわけではなく多くはその主張にむしろ賛同していることは強調しておきたい。この記事などは曲がりなりにもリベラル派に属することになっている者として肝に銘じなければならないことが多々書かれていると評価している。

 

 與那覇潤氏は最近出版した呉座勇一氏との対談「教養としての文明論」のあとがきで「ジハード対クリーンワールド」の弁証法が露わになっていると主張している。つまり偉大な聖戦が行われる空間と加害的で危うい光景は見せないようにしようとする空間で人類社会は2つにわかれているということだ。この論を基にすると、概ねジハード派が「右翼」となり、クリーンワールド派が「左翼」ということになるだろうか。ただこの2つは共に自分達の仲間内では事実だということになっている物語、つまり「現実」に立脚しているという意味において同じものである。與那覇氏は歴史学は本来その両者の外側にある「ダーディーなファクト」を掘り起こすものだったはずだと述べているが、私もそこには全面的に賛同する。そして私はジハード対クリーンワールドの無毛な対立に与することはなく、ファクトによる未来を築いていきたいと思う。