このブログは趣味のブログであるはずだが、どうにも楽しげな内容ではない。私にとってこれは当たり前のことなのだが、本当に趣味のブログなのかどうか疑問に思う人も居るのではないか、ということをふと思い立った。今回は私にとっての「趣味」とは何なのか、ということを考えてみたい。
企業の研修マニュアルには趣味を持つと気晴らしになって仕事に張り合いが出るから趣味を持った方が良いとか書いてあったりなかったりするが、私はその考え方が好きではない。それはまるで趣味が道具であるかのようだからだ。私にとって趣味は気晴らしではない。暇つぶしでもない。そもそも持とうと思って持てるものでも、止めようと思って止められるものでもない。
私が思い描く趣味像に一番近いのはスポーツである。スポーツはある意味究極の無駄である。生活上の必要があるわけでも、差し迫った脅威があるわけでもないにもかかわらず己を鍛え上げ、時に死に至る行為を行う。だが、私はここに人の人たる所以があるように思う。
なぜ人はスポーツをするのか。それは、自己目的的に己を鍛え上げるのが楽しいからだろう。ここで重要なのは「自己目的」であることだ。もしこれが生産に必要な行為であるのならば、そこには当然生産に失敗した場合待ち受けるのは己の死であるという恐怖が付きまとう。もしこれが戦いに必要な行為であるのならば、敵を殺し、そして殺されることそのものへの恐怖が付きまとう。このように、必要に迫られて行う成長には恐怖が付きまとうものである。だが、本来成長とは楽しいことであるはずである。だから人の成長から恐怖を切り取って、自己目的的に成長し続けることができたら……スポーツとはその到達点であると言えるだろう。そのためにアスリート達はトレーニングを重ね、試合という疑似的な戦場へと赴く。そしてそのような、必要性を越えた苦痛の果てにある快にこそ人の人たる所以であることを全世界の人々が承知しているからこそ、スポーツは社会の中で時に特権的地位を与えられ、国際的な大会も数多く開かれるのだろう。
私にとって趣味とはそういうものである。私が好きなのは私の頭脳を鍛えることである。もしそれが受験勉強のような他律的な目標に対してその能力を発揮できれば私の人生は相当マシなものになっただろうが、残念ながら私は趣味という自律的な目標に対してしかその能力を発揮することができなかった。だが逆に言えば、私は趣味としてならば苦行を乗り越えることもできるというわけである。そのため、私は趣味という体裁で自己研鑽するしかないのである。趣味とは気晴らしになるようなものではなく辛く苦しいものであり、それを乗り越えた先の快を求めるものなのである。まさにこれは神が私に与えた使命、即ち「召命」であるだろう(※1)。
※1 ここで言う神とはいずれの宗教の神でもない、私だけの神である。私には明らかに信仰が存在するのであるが、しかしどの宗教も全くしっくり来るものはなく、結局私は宗教を信仰するとしたらそれは自分で立ち上げた宗教を信仰するしかないのだろうと思っている。
では、人は自己目的的な成長に快を見出す生き物であるとして、人は完全にそれのみのために邁進することはできるだろうか。私はそれは「できない」と思っている。なぜなら、人は善を志向する生き物だからだ。私がこう言うと意外に思う人も居るだろうが、そもそも私が「現実からの解放」なる珍妙な目標を掲げるのは、人は事実なき生き物であると批判するのは、人は善を志向するにもかかわらず、それを成し遂げることが困難であると認識するとき、実際的状況ではなく自己の認識を改革することによってさもその目標が達せられたかのように誤認させる機能が備わっていると考えざるを得ないからである。そのために人は最後まで善行を成し遂げることもなく中途半端に放置したり、自らの認識の上ではその問題を「なかったこと」にしたりするによって、疑似的な解決を安易に試み、そのために問題をより大きく育ててしまうことを私は批判しているのである(※2)。つまり「現実からの解放」とは人の善への志向を支援し、それを最後まで確実に成し遂げるためにこそ追求しているとも言えるのである。
では人間にとって善とは何か。それはやはり他者の喜びであるだろう。前記の通り、人は自己目的的成長に快を見出す生き物であると考えられるわけであるが、しかしその成長の先にはほぼ確実に他者が存在しなければならないものと考えることが、少なくとも私にはしっくりくる。もちろん人間は多様であるから、中には完全に他者が存在せずとも自己目的的な自己研鑽に快を見出すことのできる人物も存在するのだろうが、私はそれはサイコパスのようなある意味危険な心理傾向であるのではないかと考えざるを得ない。
※2 「現実からの解放」は多義的に解釈できる目標であり、当然これだけというわけではない。たとえば、人は善を志向するにしても実際の行動が誤認された事実(=現実)に基づいていれば、当然その行為を貫徹したとしても所期の目標は達せられないだろう。これも「現実からの解放」を目指す立場から批判すべき状況である。
かつて私が衝撃を受けた本に「戦略の本質」がある。この本は「失敗の本質」の続編であり、「失敗の本質」で追及した第二次世界大戦における旧日本軍とは対照的に歴史的な逆転を成し遂げた戦いについて分析したものである。その成果は巻末において10の命題にまとめられているのであるが、その中の1つに私は衝撃を受けた。それは
【戦略は「義」である】
である。すなわち歴史的な逆転を成し遂げた軍隊を有する国家は、独善的ではなく普遍的な正義を持ち、その戦いに人類史的意味を見出していたということである。考えてみれば、第二次世界大戦において枢軸国が掲げた正義はと言えば、「天皇陛下万歳」「ゲルマン民族の偉大な復興」「地中海帝国の偉大な復興」と言った、独善的なものが多かったように思う。それに対して連合国はと言えば米・英・仏は「自由民主主義」であり、またソ連・中華民国の「祖国の防衛・回復」もやはり普遍的に人類の共感を誘うテーマであったように思われる。インターネットを見れば正義は暴走するものであるとされ、正直この本を読んだ当時の私も正義に対してあまり肯定的なイメージを抱いていなかったのだが、それはこの指摘によって崩壊し、私はそれから私の正義というものを考えるようになった。その帰結が「現実からの解放」であり、空想委員会日本本部の官僚制組織としての完成であったわけであるが、やはり人にはより普遍的なものの善を志向することによって困難を成し遂げる機能が備わっており、これもまた人類繁栄の原動力となったものと考えられる。
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昨今人文左派界隈とでも言うべき人々から「自由」の自己目的的達成のために「他人の役に立たない自由」が喧伝されたり、巨大なもの・普遍的なものの善を志向する行為を「右翼的なもの」と切り捨てるような言説が喧伝されたりすることが多々あるように思われるが、私はそれは人間の原動力そのものを否定してしまっているのではないかと懸念せざるを得ない。もしそれが本当に右翼的なものなのならば、すなわち人間の本質は右翼的なものにあるのであり、左翼的な社会がもしも実現されればそれは人間の本質を否定したろくでもない社会が誕生するということであるだろう。
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↑私の思う人文左派の代表例は、厳密に言えば左派かどうかは微妙だが批評家の東浩紀氏を思い浮かべるのであるが、批評は好きな人がやっていれば良いのだという点には賛同するものの、やれ安保法反対に立ち上がった学者達は無意味な生を恐れているだのなんだのというのは筋違いなのではないかと思う。東浩紀氏の批評は、私には自己投影的なものであり、それは批判者への批判という体裁で自分を批判しているのではないかと思わせられるところが多々あるように感じられる。いずれにせよ東氏はこの本の中で「社会の役に立たない自由」的なものを志向すると仰られているので、私は氏の著作は同書以降一切購入せず、購入するとしたら古本で購入し、雑誌やネットでその論説を見かけても何も反応しないのが礼儀というものなのだろうと考え、そのように行動している。
いずれにせよ人は自己目的的な成長に快を見出しつつも、その先に他者への善を志向する生き物であると考えられる。アスリートが自分のために試合に挑みつつも、しかし試合が終わった後はファンサービスにも勤しむように、私の趣味も人類の未来につなげていくことができれば御の字というものである(※3)。とはいえ、かつての私は趣味分野には詳しいと自己を恃み、啓蒙活動の真似事のようなことをしたこともあったが、今の私は上から目線での啓蒙ではなく、むしろ対等な対話こそが私の趣味を人類の未来へとつなげる鍵になるのではないかと思っている。そしてそれに基づき、さらに自己研鑽していくことこそが、今後の私の趣味活動となっていくのだろう。
※3 ここで「人類の未来」という概念が出てくるところが私の私たる所以なのである。私には国家や民族と言った単位は、人類社会を構成する一つの部品に過ぎないと考えている節がある。国防を含む行政活動や政治活動は国家を単位としなければならないにしても、私が志向するのは普遍的な人類の未来であり、私がそれを志向することが結果的に日本のためにもなると、「戦略の本質」を読んだ後は特に思わざるを得なくなった。私が空想委員会日本本部という組織を私一人で立ち上げて運営しているのは、もし仮に人類と日本が対立するならば、私は人類を選択するという意思の表れなのだろうと思う。
↑苦しみを乗り越えた先にこそ、趣味の喜びはあるのだ