今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

公共の世紀へ

↑6/22は大変な失敗をしたので久々にTwitter実況なしでのりのり旅を行う羽目になったのだが、それはまた記事を改めて書くことにしたい。

 

 このブログはできれば毎日1本は記事を書きたいと思っている。というのも、昨今は私の人生もいよいよ動きが活発になってきたため1日もあれば語りたいことがいくつかは出てくるからである。そしてこのブログは語りたいことを語って頭を整理するために存在するのだ。

 

 と思って前回の記事から実に2本の記事を書き始めて、そのどちらも書き上げられずにこの記事で3本目になるのだが、この3本目はこれこそテーマとかそういうものを一切考えずに書き始めており、私もこの記事がどこへ行くのか全くわからないのだが、個人ブログというものはこのくらい気楽に書くのが本来の姿というものだろう。その集合体がまさにインターネットの集合知というものであり、つまりインターネットとは人間がより肩の力を抜いて暮らせるようにするためのものだ、ということができるのである。かつての私は昨今SNSを賑わせる「反陰謀論者戦士」と最近私が呼ぶようになった人々のような世界観で長らく活動してきたのであり、かつては私も陰謀論的なものへのカウンターとして紙の新聞を始めとするオールドメディアと(左派)知識人を守り、その勢力再拡大に貢献しなければならないと真剣に思っていたものであるが、今でもオールドメディアについては一定の存在意義があるものと認識しているが(※1)、知識人についてはもはや中央集権的・上位下達的な「啓蒙」というものがその役割を急速に減退させているのではないか(※2)と私自身思うようになってきており、それに代わるものとして一般市民のリベラルな対話にむしろ期待するようになっており、そしてそのためのツールとしてSNSは実はかなり有効なツールなのではないか、と昨今思うようになってきたところである。

 

※1 新聞は現在京都新聞毎日新聞を電子版で契約している。このうち毎日新聞についてはまもなく契約を終了するつもりである。テレビはHuluでの日テレニュース24、BBC、CNNの視聴を折を見て再開したいと思っている。またNHKの番組はU-NEXTで見れないか(→U-NEXTを格安で契約できる方法は無いか)模索している。

※2 もちろん啓蒙そのものの役割が消え去ることは無いが、しかしそれはインターネット普及以前の論壇誌のように人気のある批評家や作家、学者と言った人々が分野横断的に反現実から現実を仮構するような方法ではなく、その分野の専門家が自らの専門分野を啓蒙する(→そしてその専門家はその専門分野の外では何ら発言権を持たない)というような形に既に置き換わりつつあり、それは全くの必然的変化だろうと思う次第である。この方式にももちろん問題点はあるが、さりとて大枠としてもはやこの流れは止められるものでもなく止めるべきものでもないものと思っている。逆に自らへの人気や自己の能力の過信から専門外でも出しゃばろうとする”知識人”は、一般的な市民生活からはもはや有害と言っても差し支えないかと思う。

 

ikomabus.exblog.jp

↑かつてはインターネットの普及が人類を破滅の道へと誘っている、とすら真剣に考えていた私がその認識を180°転換させようとしているのは様々な理由があるが、代表的な事例として「生駒の公共交通を守る会」さんとの出会いがある。私はこの会の活動はインターネット上で追うだけではなく5月にはシンポジウムに参加してきたところであるが、その専門性の高さには私自身舌を巻いた。私は長らく乗合交通マニアをやってきたはずだが、私が上から目線で教授するようなことはほぼ何もなく、むしろ逆に私の方が教えを請わなければならないと思っている。驚くのはこの会がほんの半年ほど前にできたばかりだということであり、そしてその構成員は専門家でも趣味人でもなくただ必要に迫られただけの一般人だということだ。危機に直面した人間の学習能力というのは凄まじいものだと思うより他なく、そしてインターネットとはまさにこういうことを実現するための道具なのだ、と思わずにはいられないのである。

 

↑逆に”知識人”の残念な実例がたとえばこれである。このような場面では名もなき一般市民の多くは素直に間違いを認めるものであるが、”知識人”は誤りを認めず自らの偏見のままに突き進むことの方が多いと言わざるを得ない。私が思うに”知識人”は勉強好きだとは言ってもその多くは自分の好きな勉強、つまりは自説を強化し続ける勉強を行うだけであり、哲学者・千葉雅也氏が著書「勉強の哲学」で論じたような「自己破壊的な勉強」はあまり行わない傾向にあるのではないか。さらにその上で自らを「啓蒙する側」に固定してしまっており、そして自分以外の人々を「啓蒙される側」に固定して認識しているのではないかと思わざるを得ない。つまり”知識人”はかつてソクラテスが批判した「『無知の知』を持たない人々」と同じ状態になってしまっており、ソクラテスに連なるのではなくソクラテスに死刑判決を下した者達に連なる存在になってしまっていると思う次第である。情報化以前の世界ではこのような人々にも存在意義があったのだろうが、少なくとも技術的には広く人々が対話できるようになった今はむしろ一般市民が対等に対話し、各々の得意分野を活かして知恵を出し合う方が確実なアウトプットが可能なのではないかと思う。かつて知識人と呼ばれた人々もそのような対等な対話の一員としてならばこれからの社会の中にもその席が確保されるのだろうが、残念ながらこのような人々は往々にして他者を見下すことがその原動力になっていることも多いため、そのような人々はただ社会から排除されるだけだろう。

 

「まずは、これまでと同じままの自分に新しい知識やスキルが付け加わる、という勉強のイメージを捨ててください。むしろ勉強とは、これまでの自分の破壊である。そうネガティブに捉えた方が、むしろ生産的だと思うのです。

 多くの人は、勉強の「破壊性」に向き合っていないのではないか?

 勉強とは、自己破壊である。

 では、何のために勉強をするのか?

 何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?

 それは、「自由になる」ためです。

 どういう自由か? これまでの「ノリ」から自由になるのです」

 

「技を見事になしとげるからといって、それぞれの職人は、他のもっとも大切なことについても、自分がもっとも知恵のある者だと自惚れてしまっていたのです。この調子外れが、彼らのあの立派な知恵までも覆い隠していると思われたのです」

 

 

 これからの時代というものは、従来知識人と呼ばれたような人々が思弁的に思い描いた「あるべき世界」を、徹底的に解体し批判した上で実践していく時代になるのだろうと私は思う。なぜならば、これからの時代は人新世の時代となり、それは即ち人類が地球の支配者となり、その結果としてその行為の代償は自らが支払わなければならなくなるからである。地球は人語を解さず、人類の事情など知りもせず、ただ機械的に物理法則に従って我らに行為の代償を請求する。かつて人間同士での争いを収めるためだけにその争いの当事者を宥めるために積み重ねられてきた人類の知恵は、地球に対しては全く通用しない。人類はいよいよ、自らの物語の中にではなく、客観的事実の中に生きなければならなくなったのだ。このような事態に事実なき生き物である人類が直面してしまったのは大変な不幸であるが、しかしとは言え人類は真理を求めてきた生き物でもあり、その結果としてインターネットを始めとする様々な情報媒体を整備し、また社会統治の原則も神話から科学へと一応は変更し、大昔よりは事実に基づいた社会運営ができるようになってきたところであり、また今後ともそうしていかなければならない。このような時代にあっては、必要なのは勝手な物語を語る者達ではなく、自らの無知を自覚し、謙虚に事実を掘り起こすことのできる人々であり、そして他の事実を掘り起こした人々と対等に対話してその成果物を交換・合算できる人々であるはずである。故に知識人の席は社会から消え、リベラルな一般市民こそが社会運営を担う必然があるのである。

 また一方で「自由」という概念についてはゼロベースで見直されなければならないだろう。従来の自由主義と言えばJ.S ミルの「自由論」等が挙げられるが、その基本原則は他人に危害を与えなければ自己の自由が保障されるというものであるが、地球温暖化が進む現在にあっては、日常的生活をただ送っているだけで我らは温室効果ガスを排出し続けているのだから、それはつまり我らの生存そのものが他者に危害を与えていると言えるのではないだろうか。つまり気候変動問題の哲学的意義とは、この地球上に古典的な意味での「自由」というものは存在しないことを物理学的に立証してしまったことにあるのではないだろうか。その上で自由主義社会を今後とも守ろうとするのならば、私はやはり20世紀以降その存在を棄損されるばかりであった「社会」というものに今一度復活してもらわなければならないのではないかと思う。そして誰かの横暴な専制ではなく、さりとて自由放任の果ての破滅でもなく、我らの自発的な「公共精神」の下で我らの自由と人権を保持していくより他ないのではないかと思う。私は今人類は破滅か繁栄かの瀬戸際に立っていると思っているが、もし人類が21世紀を乗り越えて22世紀に繁栄することができるのならば、21世紀は「公共の世紀」と呼ばれる存在でなければならないだろう。もちろんだからと言って、20世紀までの悪しき歴史がそのまま復活するようであってはならない。そもそもなぜ人々が「社会からの自由」を求めたかと言えば、それはかつての社会というものが「強制的でありすぎたから」だろう。その反省を前提とするならば、これからの社会は「自発的なもの」とする必要があるだろうが、そのための萌芽は既に芽吹きつつあるようにも思う。

 

自由主義は今後批判的に見直されなければならないだろう。もっともこの本の主題が民主主義への批判であるように、ある意味では自由への批判こそ自由主義の本質であるとも言えるのだが。ここが自由主義の面白いところで、私は自由主義とは何かと聞かれればそれは「自由の不可能性に対する挑戦である」と答えたいところである。

 

↑そもそもこの記事があまりにも楽観的過ぎると思った人も居るかもしれないが、そのような人にはこの本をおすすめしたい。この本はスウェーデン歴史学者・ヨハン ノルベリ氏がいかに”昔は良かった”という人類の普遍的な固定観念がデタラメなものであるかを指摘するものであり、また行き過ぎた悲観主義はより大きな破滅を呼び寄せるものだ、ということも警告するものである。

 

↑面白いのはヨハン・ノルベリ氏が批判するような悲観主義者であることが明らかなティモシー・スナイダー氏も、ドナルド・トランプアメリカ大統領に就任したことを受けて緊急出版したこの本の中でやはり行き過ぎた悲観主義を戒めていることである。私はこういう冷静さが西欧という存在の強さであり、それに対して日本は悲観にしろ楽観にしろ歯止めなくどこまでも突き進んでしまう危うさを持ち合わせているように思う。