今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

「新年」を迎えたわけだけど

 でもだからと言って今日を盛大に祝って欲しいかと言うとそれもまた違うのよね。

 

 前回の記事で書いた通り、本日西暦2023年6月27日は空4年上6月27日であり、本日より1年間が「空想歴4年(空4年)」となるわけである。が、この紀年法を採用しているのは空想委員会日本本部とその唯一の構成員たる私だけであり、その由来もまたこの両者のみに起因するものである。それ以外の一般の方々がこの日を祝う必要性は何もなく、1月1日を祝うことを妨げるものでもない。

 

 1月1日が苦手である、という話はしたが、だからと言ってそれを6月27日に移植しても何も物事は解決しない。今日を祝うのはただ私1人で良いのである。もちろんこれは他の方々が今日を祝って下さることを妨げるものでもないが、それはすべて自由意志のみに委ねられるものである。

 

 

・「リベラル」

 立憲民主党はリベラル政党であると言われ、それを支持する私もリベラル派に属するというのが一般的な解釈なのだろうけど、しかし私は今まであえて「リベラル」という言葉を避けてきた。それは私の勉強不足によりこの言葉が具体的に何を表すのかがよくわからなかったからだが、いつまでもわからないままにするわけにもいかないから、最近田中拓道「リベラルとは何か」(中公新書、2020年)を読んだところである。これによるとリベラルとは「価値の多元性を前提として、すべての個人が自分の生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治的思想と立場」ということである。

 ということである、というか、これはむしろ著者の田中拓道一橋大学大学院社会学研究科教授がリベラルという言葉をそう定義した上でその思想の変遷を追ったのが本書である、と言った方が正しいのであるが、ともあれ一般に「リベラルとは何か」を考えるにあたっては、まずこの定義から出発するのも悪くないだろう。というわけで私もこの定義を採用したいのであるが、この定義に基づいて「リベラル」を考えると、第一に思うのは「私はやはり【リベラル】であったのだ」、ということだ。これは何年も前から薄々感づいていたことだった。私は全体主義も完全自由主義もしっくりこないが、それは人間は明らかに多様であり、多様であるが故に「幸福」は自ら追求するしかない(→父権主義的に「幸福」を供給することなどできない)ことから社会の目標を「構成員の幸福」に置く限りにおいて社会は自由主義的である必然性があるが、一方で社会の中で自由に活動するためには当然「生存」が大前提としてまず必要であるにもかかわらず完全自由主義は「死ぬ自由」をも必然的に認めてしまうため、それを採用した社会(≒新自由主義社会)では人々は生存のための活動に人生の多くを費やさなければならないことになり、結果として完全自由主義社会というものは実態としては「生存のための行動を全体主義的に強要される社会」へと陥っていくからである。自由主義社会を求める人々が真に求めるであろう「生存した上での自由」を社会全体で達成するには結局生存そのものは父権主義的にでも提供されていなければならないのである。言い換えればこれは「自由の階層構造」とでも言えるだろう。これはマズローの欲求階層説にも対応するものだろうが、人間にとって最も重要なのはよほど奇特な趣味人を除けば「欠乏からの自由(生存する自由)」なのであり、「選択する自由(政治的な自由)」はそれに次ぐものでしかあり得ないのである。逆に言えば「選択する自由」を棄損することが妥当性を持つのは「欠乏からの自由」を達成するために必要な場合に限られるとも言える(※3)。この階層構造を破壊せんとする者はまさしく「よほど奇特な趣味人」と言わざるを得ないだろう。www.nri.com

しかしその「よほど奇特な趣味人」が実は実際の政治を考える上で実に厄介なものなのである。社会的な意識の高い人々、例えばSNSで日夜政治的言動を発している人々などというものはこの「よほど奇特な趣味人」であることも多く、その結果彼らは欠乏からの自由を度外視してでも選択する自由を主張したり(※1)、欠乏からの自由は達成されてもなお全体主義を主張したり(※2)するわけである。そしてそれは常識的にはよほど奇特な趣味人でしかないはずだが、しかし往々にして彼らが多くの支持を集め権力の座につくこともあるのである。あるのである、というか、それこそ一国を率いるなどという気のふれたことをしたがるような連中はそのような「よほど奇特な趣味人」であることの方がむしろ多いようにも思う。

 私の政治的活動の目標は私の幸福追求権を保守防衛及び拡大すべくこの「よほど奇特な趣味人」を批判し「欠乏からの自由を前提とする選択する自由」を確保することであると言えるが、それはまさに田中拓道氏による「リベラル」の定義そのものであると言えるだろう。なるほど、私はやはり【リベラル】であったのである。

 

※1 新自由主義を最初に主張したミルトン・フリードマンフリードリヒ・ハイエクはまさにこのタイプの「よほど奇特な趣味人」であったと言える。そのような趣味人の趣向が社会全体に適用されてしまったのが「新自由主義の失敗」なるものの根底にあるのだろう。そしてこれは私が肌感覚で理解していることだが、今日の日本において安倍自民を批判し野党共闘を支持したようないわゆる「左翼」の中には、こういうタイプの連中もまたごまんと居るのだ。もっとも彼らが厄介なのは彼らのエコーチェンバーが全体主義へと方向性を変えてしまえば容易くそちらへと振り切れてしまうことでもあるのだが

※2 世界一の富裕国となり安全な医療も十分に受けられる環境にある今日のアメリカ合衆国においてなぜか妊娠中絶を認めない人々など。いわゆる「右翼(保守派)」が多くこちらに該当する。彼らはそもそもの話として社会の目標を個々人の幸福には置いていないわけだが、ならば彼らは何のために政治なるものをするのだろうか。そもそも保守派とは元々はフランス革命において人間の理性を懐疑して急進的進歩主義を批判した人々を指すはずであるが、今日保守などと呼ばれている連中はむしろ人間の理性そのものは過大なまでに評価する傾向にあり、彼らの訴える内容も現に人々が大切に守ろうとしている伝統を尊重することではなく、彼らが勝手に決めつけた伝統なるものを自然に反してでも温存しようとしたり人工的に復活させようとしたりすることであり、それはもう保守ではなく「左に270度振り切れた極左」とでも言うべきものだろう、と私は思っている

 

 第二に思わざるを得えないのは、この「リベラル」なる概念の日本における不可能性である。端的に言って、これは日本人の心情から最も乖離した思想であると言えるだろう。日本は自由主義なのか集団主義なのか、みたいな話はよく聞くが、私の認識では日本社会は「集団主義的完全自由主義」とでも呼ぶべきものである。日本社会の本質は多様な小集団(=ムラ)の集合体であり、小集団の相互間では完全自由主義(※3)が適用される一方で、すべての個人はいずれかの小集団の「部品」として組み込まれ、その小集団を維持することそのものこそが小集団の目標となる。これが日本社会が主に左派の主張するように「最も全体主義になりやすい」傾向を抱えながら、少なくとも形式的には右派が認識するようにG7の一角であるくらいには「自由主義国家」を形成している所以であるのだろう。そしてまたこの社会においては、個々人は小集団の部品でしかあり得ないためその選択の自由なる概念はピンとこないものがあり、「欠乏を回避するための再分配」もその主体は小集団の方になってしまう(※4)というわけである。

 何よりも厄介なのは、日本の「リベラル派」なるものもそのような小集団の一つでしかない、ということだ。彼らは往々にして日本的価値観そのものから解放されたような気分に浸っているがその実態はただ元々居たムラが住みにくかったから隣のムラに移ったという程度のものであり、彼ら自身の内にある日本的価値観を相対化しきれていない(※5)。だから結局は彼らもリベラル村のパーツでしかなく、にもかかわらず彼らの主観では彼らこそが普遍的価値観の体現者であり伝道師であるため、彼らはリベラル村そのものを際限なく拡大しようとする傾向がある。結果、彼らの主張は往々にして「(彼らの考える)自由への総動員」とでも言うべきものに陥る。私の認識では彼らの主張は確かに比較的自由へと近づいていくものであるから右派的な全体主義よりはマシであり、だからこそ私は立憲民主党を支持し続けているところがあるのであるが、とはいえ彼らの主張もまた往々にして80年程前にあったような”国民精神総動員”的な色彩を帯びる傾向があることは否めない。それは結局彼らもまたリベラル村という小集団の「部品」でしかなく、その選択の自由という概念を腑落ちしきれていないのだろう。そしてまたそうであるが故に、その小集団の方向性一つでどんな矛盾も主観的には矛盾することなく主張することができてしまうのだ。それが具現化したのがまさしくサーズ2(新型コロナウイルス)によるパンデミックであり、彼らは当初安倍晋三首相率いる自民党政権が全学校の休校を指示したときにはそれを批判した一方で、それが終わってしまえば逆にそれを行わないことを批判したのである。こうなるのは結局、彼らもまた自ら思考することをせず、リベラル村の方向性に沿った主張しかしていないからだと言える。端的に言って、だからこそリベラルは嫌われるのだろう。

 

※3 「ムラ」の中にはそれぞれのルールが適用され、その内部にも適用される普遍的なルールなど存在しない。「法の支配」はあくまで小集団の関係性のみに適用され、その小集団の内部には及ばない

※4 自民党型再分配がまさにそれである。自民党政権は確かに再分配を行うのであるが、行う相手は行政主体(都道府県・市町村)であったり事業主体(企業等)であったりし、社会保障もあくまで家単位となることが多い。それは再分配を行う相手が小集団そのものであり、個々人ではないからである

※5 それは別に悪いことでもないのだが、ただ彼らは彼らの主観ではその日本的価値観なるものから解放されたと思い込んでいるからこそ厄介なのである

 

 さてここまで長々とリベラルについて語ってきたのは、私が「新年」に望むことはまさに私がリベラルたる所以でありその神髄を表していると言えるからである。私は6月27日を新年としたいがそれは私だけが祝えば良いことであり、他の方々を巻き込むつもりは全くない。私は他者については1月1日に新年を祝う在り方からそもそも新年を祝わない在り方まで、すべてを尊重したいところである。そしてその中において1月1日に新年を祝う人々が社会の構成員の中で多数を占めることは明らかに事実であるから、最大多数の最大幸福を実現すべく日本国の国会が祝日法第2条において1月1日を「元日」という祝日として定め、多くの企業・学校がそれに合わせて休暇を取ることは何ら批判しない。ただ私が望むのはそこから外れる権利も尊重されることであり、昨今の働き方改革で多くの企業が1月1日を休業とするようになってきたのは、労働時間の文脈では評価できるもののその他の文脈においては手放しで肯定することはできないのである。

elaws.e-gov.go.jp

 

 このような在り方は今の日本においては「リベラル派」を含めほとんどの人々には非常に新鮮であったり、ともすれば理解不能だったりするだろうが、ただ私はこれからは日本もリベラル的になっていくべきだろうと思うし、実際その萌芽は芽吹きつつあるようにも思う。ただそれは一方で旧来の「リベラル派」の主張がそのまま実現するというものでもなく、だからこそ今後は従来の「リベラル派」こそが自陣営の教義に従わない変化をリベラル的であると捉えることができず、その実態においては反リベラルの方向へと突き進んでいくことを私は強く懸念している。実際昨今リベラル派知識人達が表立って立憲民主党を批判したり、国会で暴力行為のパフォーマンスに及んだれいわ新選組を評価したりしているのは、まさに彼らが反社会・反リベラルの方向へと突き進んでいる証左であるように思えてならないのである。私は彼らリベラル派知識人の残したものに学びつつも、彼らの現在の主張には必ずしも賛同しないのはまさにここにあるのである。

 余談だが、私が「空想委員会日本本部」というたった1人の組織を作ったのは、小集団の集合体たる日本社会の構造を理解した上で、私の自由を最大に守るためなのかもしれない。この組織はこの日本社会の中にある一つの共同体、一つのムラとなるべく組織されたものである前々から意識していたことであり、私はこのムラにこそ所属しているのだ。

 

(委・委員長)