今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

まともなことを言える自由

 今私がいかなる自由を追求するか、ということを考えると、それは「まともなことを言える自由」へとたどり着くのではないか。

 

 人は事実なき生き物である。真理の発見ではなく己の偏見への居直りに喜びを見出し、真理を求める対話の相手ではなく己の偏見を肯定する詐欺師を求め、そして偏見(=現実)と事実が著しく乖離し認知(思い込み)によってその差を埋められなくなったとき、人は武器を取り破壊的な暴力によって強引に己の現実を事実にしようとするのである。真理(=事実)は誰も求めておらず、せいぜい己の偏見に権威付けを行うための道具として、他者をぶちのめすためのこん棒として、都合よく切り取られた形で求められることもある程度である。職業的に真理を求める人々、すなわち学者やジャーナリスト、各種の職人とて人間の根源的欲求から逃れることはできない。彼らは自分の専門分野では真理を求めるにしても、それ以外では往々にして彼ら自身がデマゴーグになり果てるものである。ネットのデマは一般には”オタクやニート”と言った社会的に劣後しているとされている者達(※1)が発していることになっているが、実際には大学教授等の権威ある知識人がその発端となっているか、あるいはそのような人物がデマに賛同することで権威を与えさらに増幅している場合が実は大多数なのではないかと私は思う(※2)。

 

※1 ただこの内特にオタクについては、そのような社会的偏見を逆用する形で弱者を自称する強者になり果てているのもまた厄介である。彼らは同様に自らは弱者なのだと思い込んでいる強者である中高年男性層と密接に結びつき、さらに勢力を拡大している。

※2 この分野については既に学術的研究があるのだからそれを参照すべきであることは承知しているが、私は現状そこまでは参照できていない。ただ私が見聞きしたものを挙げれば、例えば先日の暇アノン騒動も名もなきネットユーザーのみによってあれほどの騒ぎになったのではなく、多くの社会的地位を有する者達があれに乗ったからこそあそこまでの騒動になったことは記憶に新しいことである。

wr19.osaka-sandai.ac.jp

中央新幹線を巡るJR東海静岡県の対立も、大阪産業大学の波床教授が自身のブログで「東海道新幹線静岡空港駅の建設を見返りとして勝ち取ることが静岡県の本来の目的である」とするメッセージを繰り返し発している。これが事実かどうか私には判断がつかない。

 また古い話を挙げれば「ソクラテスの弁明」にもよく似た話が出てくるし、さらには結果としてソクラテスが処刑されるに至ったことも暇アノンの騒動と本質的に同じ事象であると言えるだろう。

 

 

 この中にあって私は、せめて私が事実だと思うこと(※3)くらいは守りたいものだと思う。そしてただ閉ざされた空間の中でそれを守るだけではなく、何らかの形で発信も行うことにより、真理を求める対話を求めたり真理を拡大したりする(※4)糸口は掴みたいものである。そのために私は様々な困難がありつつもこの公開ブログとTwitterという橋頭保を維持しているのである。そしてリアルの世界においてはのりのり旅が本格化し始めたという形で私の現実に対する「大反攻」が始まったように、そろそろこの仮想現実の世界においても公開ブログとTwitterから何らかの形で「大反攻」を始めたい、と思っている。その大反攻の先駆けとして今確保するべきことは、それは「まともなことを言える自由」の確保ではないかと思うわけである。

 

※3 当然だが私も人間であるから、私が事実だと思っていることが本当に事実であるかどうかは不明である。それは対話の中にしか存在しない。

 余談だが、私のこうした信念がこの私をして陰謀論等に与することなく、立憲民主党支持者という極めて穏健な立ち位置に私を押しとどめているのであり、それは私の誇りとしても良いのではないかとも思っている。

※4 これを空想委員会では「現実からの解放」と呼ぶわけである

 

 思うわけである、というか、空0年(西暦2019年)からの人生再興をあとから振り返れば、少なくともネット上の行動においては結果としてこの自由を求める行動であったと、そう総括することができるのではないかと思う。この間にネット上で私が起こした行動の中で一番大きなことはTwitterを旧アカウントから新アカウントに作り直したことであるが、それによって何がどう変わったのかと言えば、それは旧アカウントのフォロワーにおいては一大勢力を築いていた鉄道趣味者を、新アカウントではほぼ締め出したことが一番大きな変化であると言える。

 あらゆるネット言説において私が一番ストレスがたまるのが鉄道を取り巻く各種の言説である。趣味者の発言もそうでない人の発言も、はっきり言ってイライラさせられることがあまりにも多い。なぜそうなるのかと言えば、それは鉄道という存在が今大きな転換期を迎えているからだろう。世界的に見れば、鉄道は「再整備」の時代に入ったと言える。それは同じ陸上の交通機関として自動車が普及しそれに合わせて社会構造も変化する中で、鉄道の役割もまた大きく変化しているからである。しかしその変化への対応は、日本の鉄道は非常に遅れていると感じている。そして再整備の機運も非常に低い。それはなぜかと言えば、日本においては旧来の鉄道にも今なお多くの利用者があり、旧態依然のままでもそれなりに社会的機能を果たすことができるからだろう(※4.5)。そしてまたそうであるが故に、国民の側も鉄道への認識が旧態依然のままで更新されず、そしてだからこそ政治も動くことができないというわけである。ただこれでは鉄道の存在意義は狭まる一方であり、そしてまたそのために今現在現に利用されている旧来からの鉄道についても社会的機能を果たすことが今後困難になり、結果として多くの人々の生活が脅かされる事態が発生するのではないか、日本の衰退をさらに助長することになるのではないか、と思えてならない。世界的なモータリゼーションの中で日本がこれほどの規模の前時代からの鉄道を残すことができたのは日本の財産であり、またそうすることが今を生きる日本国民の責務であると私は考えているのであるが、このままでは結局財産どころか「負の遺産」にすらなり果てるのではないかと思えてならない。この状況を打破するため私は新幹線の整備に期待したこともあったが、それとて結局は極めて前時代的な発想の下に建設されてしまい、北陸新幹線も西九州新幹線もとてもいびつなものになりこれもこれで「負の遺産」になり果てようとしているのは何とも残念な限りである。

 

※4.5 もう一つ厄介なのはその「旧来の鉄道」をそのままで残すことを前提に、運営事業者によって過剰なほどの合理化が図られていることも挙げられる。現在の日本の鉄道、特にJR各線の現状は80年代末期の国鉄分割民営化当初の状況への最適化とその延長線上にある各種の施策が行き着くところまで行った姿であり、それによりこの30年間赤字額を減らしある程度は黒字も出して維持することができてきたわけであるが、またそれにより変化への対応がより難しくなってしまっている感も否めない。よく言われる日本は鉄道が独立採算を前提としているから云々という話はこの辺に深く関わってくる。

 

 誰かがこの状況を批判し、社会の流れを変える必要がある。そうでなければこの国の未来が大きく損なわれる可能性が高い。だがしかし、今現在それを望む者はほぼ存在しない。人々はやれローカル線を残せ駅を残せ新幹線は東海道と同じでなければ嫌だ嫌だと前時代(平成)どころか前々時代(昭和)の発想で意見を垂れ述べ、そのために国鉄の復活などという明らかに間違った政策(※5)が一定の人気を得てしまっている。鉄道趣味者はそれに輪をかけてさらに酷く、やれ道路を作るな郊外型SCを作るな道路予算を鉄道に回せと化石のような主張(※6)を繰り返している。関西大学経済学部教授の宇都宮浄人氏が西暦2012年(平成24年)に出した「鉄道復権」という本は世界的な鉄道再整備の事例に関する優れた報告であると高く評価しているが、この本に「自動車社会からの「大逆流」」などという鉄道趣味者のミスリードを誘うサブタイトルがつけられてしまっていることがまさに日本の現状を、平成という停滞した時代を象徴しているかのようである。

 

 

※5 正確に言えば、新幹線や貨物幹線を始めとする幹線鉄道網を国有化することに関しては私も一つの有力な選択肢であると考えている。そのときに参考になるのは明治時代の鉄道国有法の目的と考え方であるとも考えている。だが、一般に蔓延る”国鉄復活論”は東京オリンピック大阪万博と同じく単なる昭和の再生産でしかなく、そのようなものに賛同することは全くできない。国鉄復活論において一般に思い浮かべられているのは西暦1987年まで存在した「日本国有鉄道」だろうが、あれは明治時代の鉄道国有法の本来の目的からは極めて遠ざかった存在であり、あくまでも第二次世界大戦直後の日本の状況に合わせた存在であって今のこの21世紀の状況には全く適合的であるとは思えないものである。

※6 私はと言えば、これほど鉄道をはじめとする定時乗合交通機関を愛好しておきながら幹線道路網の整備についてのネガティブな発言を少なくともTwitterを新アカウントに移行させてからは言ったことがない(と記憶している)のはこれも誇って良いことではないかと思う。なぜそれを言わないのかと言えば、それは高速道路をはじめとする各種の幹線道路網は費用対効果分析において正便益を出したからこそ建設されていること、そのために各種の工夫と努力がなされていることを承知しているからである。またさらに言えば道路整備と鉄道整備を対立的に捉えること自体、極めて前時代的なことであると思っている。

 

 ややこしいのは旧来の鉄道がある程度の社会的機能を果たしているが故に、旧来の鉄道をそのまま維持することに関しては合理性を越えた力が働くこともあることである。只見線名松線の復旧が代表例であり、今も肥薩線が復旧されようとしているが、私もそれに尽力した関係者の努力と苦労にはただ頭が下がるばかりであり、また一鉄道趣味者としては大変嬉しい話ではあるのだが、しかし一方で一社会人としては、このような形で多額の税金が費やされるのは「無駄な公共事業」ではないか、とどうしても思えてしまう。「このままでは結局財産どころか「負の遺産」にすらなり果てるのではないかと思えてならない」と書いたのはまさにこういうところであり、お金のみならず労働力の分配等の観点で見ても、これらの路線に多大なコストを費やすのは正当であると言えるのか、復旧させるのならただ旧態依然に復旧するのではなく現代的に再整備した方が良いのではないか、と思うわけである。

 

www.info.city.tsu.mie.jp

↑もっともそれらの路線に関しては沿線自治体がその機能を発揮させるべく様々な活性化策を打ち出しているのも事実である。たとえば名松線については終点の伊勢奥津駅より津市が観光シーズン毎に臨時路線バスを運行しており、その注力具合が伺えるというものである。こうした地道な活性化策については私もできる限り応援したい。

 

 だがこんなことを公衆の面前で発言すれば全方面から吊し上げを食らうことも承知している。ある者はローカル線や新幹線に対するネガティブワードを切り取って反鉄道論者・車社会推進論者だと決めつけ、またある者は鉄道の「再整備」辺りの言葉を切り取って現実を知らないバカな鉄道マニアがありもしない妄想を垂れ述べていると決めつけ、私は全く別の方面から別の角度での猛攻撃を食らうのがオチである。だからTwitter旧アカウントは閉じることにし、そしてとりあえずは鉄道趣味者をほとんど締め出した新アカウントを構築したわけであるが、またこの公開ブログにおいてもコメント欄を閉ざしているのはその対策という意味が大きいのであるが、とはいえこれからいかにして「大反攻」を行っていくかは、全く道筋が見えないのが現状である。だがそれでも最低限、「まともなことを言える自由」くらいは何とかして確保していきたいものである。

 

日本道路公団東京建設局長を務めた武部健一氏は著書「道路の日本史」の最後で道路法上の道路のみならず、道路運送法上の道路や港湾道路、農道、林道に至るまでのあらゆる道路を総合する「総合道路法」の必要性を訴えている。私も賛同するものであるが、さらには氏の主張の趣旨からは外れてしまうものの鉄道もまたこれら道路網と共通の目的を担う存在として、それら多種多様な道路の一種として何らかの位置づけを行うことができないかと思う。そして道路整備と鉄道整備は同じ陸上における交通整備として、一体のものとして進めていくべきであるだろう。幸い、昨今は両者の一体整備が少しずつ成されるようになってきたところであり、この流れは今後も加速させていきたいところである。