今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

交通趣味と私

↑西暦2022年はほとんどを京都府南丹市八木町で過ごすこととなった。今の私の交通趣味者としての本拠地はJR西日本山陰本線であると言える

 

↑時刻表通りに動く乗り物は私の交通趣味の対象であるから路線バスも重要な趣味対象である。亀岡盆地内は京阪京都交通が多数の路線を持つ

 

↑一方で公的には今でも名古屋市民。名古屋ではJR東海中央本線が私のホームとなる

 

 ここまでこのブログでは謎の記事を書き連ねてきたが、しかし私のあらゆる活動は結局のところ趣味の遂行というところに行き着く。私にとって趣味は心臓の鼓動と同じであり、生きる意味とかそういうレベルを超えて私の人生それそのものであると言える。

 

・「推し活」がわからない

 さて趣味と言えば、最近そこかしこで目にするのが「推し活」という言葉である。私は基本的に他人というものに関心はないため別にどうでも良いと言えばどうでも良いのであり、推し活が人生を豊かにするのならば大いにやれば良いとしか思わない。それを大前提としてしかし言わせて頂きたいのだが、私にはどうも「推し活」という概念がよくわからない。

 

 「○○活」という言葉は、私は「必要であるがしかし放置すれば自然には行わない行動を意思の力で行う」という、どちらかと言えばマイナスのイメージを持った言葉だと思っている。私が昨今よく使うのが「ポイ活」であるが、私はポイ活には大いに助けられているし、それもまた一つの趣味のようなものになっていることも事実ではあるが、しかしそうは言ってもやはり、私にとってもポイ活は面倒なものでもある。だから「ポイ活」と言っているのであり、これは「朝活」「就活」「終活」なども同じであろう。

 そこに出てきたのが「推し活」である。一般に趣味とはそんなに面倒なものなのだろうか。いやそういう意味ではないことはわかってはいるつもりではあるのだけど、語感からはしかしそんなことを思ってしまうのである。

 調べていないからこれは完全な推測になってしまうのだけど、おそらく推し活という言葉はアイドルの追っかけとかそういう方面から出てきた言葉なのだろう。私の本拠地たる鉄道趣味とはそもそもあまり縁のない言葉だと認識しているが、しかし鉄道趣味者にも推し活という言葉を使う者は居る。ただこれはいささか極端な事例ではあるとは思うが、私が見た推し活という言葉を使う鉄道趣味者は「鉄道趣味を辞める」と公言し、鉄道趣味なんかやるなとブログやTwitterに書き連ねているというある意味不思議な人物であった。まあいわゆる「かまってちゃん」なのだろうし、そんな者は無視するに限ることはわかっているのだけど、それはともかくとしてその人物の主張を見てみたところ、彼は元々夜行列車が好きだったらしい。そして図書館に通っては全国の交通流動を調べ、日本唯一の定期夜行列車となったサンライズエクスプレスに何度も私財をはたいては「乗り支え」、そしてインターネット上で「夜行列車を大々的に復活させるべきである」という主張をするなどといった「推し活」をしてきたのだそうだ。しかし世の中は動かなかった。なんだこの野郎こんな趣味辞めてやるみんなもこんな趣味やるなよ絶対やるなよ……。私は思った。

 

 なぜこの人物はこんな疲れることをやっているのか?

 

 いやまあ私も人間は愚行をする権利もあると思っているため本当にどうでもよいのだが、しかし趣味とはいつから世の中を動かさなければならないものになったのだろうか。またなぜ自らの主張がそんなにも絶対的に正しいと信じ込むことができるのだろうか。あらゆる意味において私とは対極にある人物であり、だからこそ一生関わることもないだろうしそういう意味では本当にどうでもよいのだが、しかし確かにそういう風潮もまたあるようにも思う。

 

 Twitterを今のアカウントに移行する前のアカウントでは私も多数のフォロワーを擁し、特に交通関連ではその筋の専門家ともある程度の交流を持つまでにはなっていたが、しかしあの交通趣味者・専門家集団の中に属していて辟易したのは、あの業界では「世の中の役に立つ」ということが至上の価値を持つとされていたことである。それ自体は結構なことではあるが、しかし問題は連中の言う「役に立つ」とはつまり、「自らの見解を世の中にゴリ押しすること」でしかないことだ。彼らは自らの見解が中立公正で客観的な唯一の解であると信じ込んでいるため、その見解を普及させることが「世の中の役に立つこと」であり、それに反することは「役に立たないこと」だということになるのである。端的に言って、私は思った。

 

 なるほど、だから日本の公共交通は衰退していくのか

 

と。

 

 「魚は頭から腐る」という言葉があるが、衰退する業界の学者やコンサルの主張を見聞きすると確かにそうだと思うことがある。そして残念なことに、私の愛する鉄道をはじめとする公共交通業界はまさにその頭から腐った業界だと思う。絶望的なのは彼らに対する批判者もまた自らの見解が中立公正で客観的な唯一の解であると信じ込んでいるという意味において同じ穴の狢でしかないことで、私にはもはやキツネと狸が化かし合い合戦をしながら底なし沼に沈んでいく様を見せつけられているようだとしか思えない。だから私はあの業界から距離を置くことにした次第である。そして私自身は一趣味者として、別に世の中は動かさないだろうがしかし空想委員会日本本部に建設局を設置するくらいにはかかわっていきたいものだと思っている。

 

 

・国土交通政策の民主化

 私の趣味はそのような形で良いとしても、しかしながら当たり前の話として、交通機関は人々の生活に欠かせないものであり、それに関わる専門家集団の現況がどうあれそれが無茶苦茶な状態では困るものである。これからもこの日本列島で生きなければならない一人の人間として、交通問題はどのようにしていったらよいのだろうか。

 

 それはもう端的に言って、国土交通政策の民主化を進めるしかないと思う。

 

 そもそも国土交通政策に限らず、私は日本はこれからどんどん民主化していくしかないと思っている。第二次世界大戦の敗北による大日本帝国の崩壊と今のこの戦後日本の衰退は、共に明治維新以来の「愚昧化させた物言わぬ民衆の中央集権統治」という近代日本の統治システムそのものの限界を2度にわたって露呈させたものだと思う。近代日本が飛躍的に成長を遂げた時代=明治期と高度経済成長期は共に人々が学び、科学的思考(≒空想主義的思考)を導入し、そして活発にモノを言った時代でもあった。それに対して近代日本が傾き滅んで行った時代=昭和維新期(第二次世界大戦期)と平成以後は共に通俗道徳の浸透と官僚支配の完成、そして日本の伝統を守るという美名の下に虚構の歴史観が蔓延しその集団幻覚に人々が酔いしれた、まさに現実主義の時代であると総括できるだろう。結局国家というものは事実主義によって成長し、現実主義によって滅ぼされるものなのだ。それは日本においても例外ではないのである。受け入れがたい人が多いだろうが、私は多文化共生主義などというものは誤った思想だと思っている。伝統は博物館の中、歴史書の中にいち早く収容すべきものであり、文化は常に変化していくものである。そして人類の明るい未来は科学的思考に基づく近代化の中にしかない。それはもう、宿命のようなものだと私は思っている。そして国土交通政策もまた、あるべき未来はその中にしかないのだろうと思う。

 

↑西欧が近代そのものかと言えばそんなことはないが、しかし近代化を西欧化だなどといって否定し抵抗する集団に与えられるのはただ滅亡のみだろう。

 

↑そして何より、地域公共交通の再生には沿線住民のアイデアと主体的参与が不可欠であることはこの分野の研究者自身がそう主張しているということは強調してもし足りることのない事実である。今なお鉄道の存廃などの交通問題は事業者と自治体が決めることで沿線住民は口を出すななど言っている連中も居るが、それは私が極めて批判的に見ている専門家集団の見解にも満たない何かでしかない。

 

 では国土交通政策の民主化とは具体的にどういうことか。それはもう人々があるべき交通、あるべき国土の姿を自由に語り合うことから始めるしかないだろう。鉄道趣味用語で言えば実在地系架鉄をやりまくることである。それは「のりもの進化論」で松浦晋也氏が述べていることであるが、実にユニークな見解だがしかしその通りだと私自身思ったものである。

 

 

 そういうことをやっている方は多くはないが、しかし全くのゼロではない。たとえばとはすがたり氏のとはすがたり建設総研はその代表例だと言えるだろう。都市とその郊外に投資を集中すべきであるとする氏の主張も大変ユニークである。

 

tohazugatali.iza-yoi.net

 

 そして私もまたこの列に連なろうとするものである。私が交通機関の未来に貢献できることがあるとするならば、私自身もまた交通に対する見解を述べることにより国土交通政策の民主化を推進するところにあるのだろうと思う。

 

(委・委員長)

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