今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

反省の辞 ――このブログの初めに――

 西暦2012年8月に最初のTwitterアカウントを作ってから、今年で9年目になる。ということはすなわち、私が機能不全に陥ってから9年目になる、ということだ。その機能不全期間と共にあったTwitter旧アカウントは、わけのわからないアカウントだったと思う。少なくとも私はそう認識していた。何しろ主張に一貫性が何もない。先程と言っていることが180度変わる。そんなことの繰り返しだったように思う。なぜ、そんなことになっていたのだろうか。

 

 それは、私の中に「対立」が存在したからだ。私のままで居ようとする私と、私を捨てて世の中に合わせようとする私の。ではなぜ、この対立は生じたのだろうか。それは結局、私を取り巻いてきた環境がそうさせてきたのだ。そう結論付けたい。

 

 私は今年で26歳になったが、中学の頃までの私は、事実で常識を覆すことに喜びを見出す少年だった。まただからこそ、事実に反することが許せない少年だった。そしてさらに事実に基づいて「あるべき未来」を構想することが好きな少年だった。

 私の描いた「あるべき未来」の代表例が「架空鉄道」である。当初はこの語を知らなかったので「空想鉄道」と呼んでいたが、小学2年の頃に空想鉄道を始めた頃こそ登下校の通学分団を列車に見立てるなどということをしていたが、小学3年になってある程度社会問題が理解できるようになると、空想鉄道を社会問題の解決に応用するようになった。代表例が「愛知電気鉄道(名鉄の前身とは別)」である。これはJR名古屋タカシマヤの開業に伴う栄の地盤沈下と、栄方面に直結しないあおなみ線の利用者数低迷という名古屋の都市問題を解決すべく、栄を中心にして組み立てた空想上の都市間鉄道である。小学校の頃はこんな風に全く架空の鉄道を走らせていたが、中学に入ると実際の交通計画等にも基づいたプランを考えるようになる。私はそれを「空想計画」と名付け、さらに空想計画を策定する架空の団体である「空想委員会(同名の音楽グループとは無関係)」なる組織を脳内に出現させ悦に入っていた。

 それは良かったのだが、しかし中学にもなってそんなことをやっていると批判を浴びるようにもなってくる。私が批判を浴びたのは空想鉄道ではなく、より社会的な、我々の身の回りのことを含む社会問題の解決策についてである。私はよくこう言われたものだ、

「あなたの言っていることは、現実的ではない」

と。まあ、現実的かどうかはあえて全く考慮に入れずに主張していたから、ある程度は予期していたのだけれど、ただ内心おかしな感じでいっぱいだった。それもそうだろう。私の主張は一般的に言う現実的なこととは違うかもしれないが、しかし事実には基づいている。それが「現実的でない」と批判されるということは、すなわち現実とは何なのか、と思ったものだ。私が出した結論は以下の通りである。

「現実とは、事実にも正義にも基づかないにもかかわらず、なぜか世の中の人々に共有され所与の前提として機能している『おとぎ話』である」

そして年齢が上がるにつれて、すなわち一般的に言う「現実的」になるにつれて、私の話は周囲に通じなくなっていった。高校に上がる頃には、クラスメート達は「この世は絶望しかない」とか、「人類は歴史上ただ状況を悪化させてきただけだ」とか、到底事実とは思えない「おとぎ話」に染まり、その「おとぎ話」に基づかない言説は一眼だにされないどころか、ひどいときには「おとぎ話」に沿うように曲解されることも多くなっていった。そして西暦2012年初夏、私はこの「おとぎ話」蔓延る世の中が完全に嫌になってしまった。――今思うに、これが私の「自殺願望」の起源であると考えられる。

そうして機能不全に陥った私に、大人達はこのように言った。

「余計なことを考えているからだ」

「余計なこと」とはつまり、「現実はおとぎ話だ」とかそういうことである。思えば私は孤立無援だった。ますますこの世が嫌になっていった。

 もっとも、この状況は私にとって一定程度予期していたことではあった。そのため実は対抗策を講じていたのである。その対抗策こそ、「空想委員会の発足」だった。密かに私だけの組織として空想委員会を発足させ、私にとっての事実と正義をこの内側に閉じ込める。いわば空想委員会という組織自体を、一種のタイムカプセルとするのだ。そしてそのタイムカプセルの内側だけは事実と正義に基づく議論=正論を語る自由を確保し、そこで私にとっての正論を育てていく。そして実世界での私自身は表向き現実に恭順しながら、密かに正論に基づいた行動をやれるだけやっていく。そうしていつの日か空想委員会を公然の組織にできる体制を整え、タイムカプセルを解き放つ。いわば「たった1人の秘密結社」として、私は空想委員会を中学の終わり頃に発足させ、私は自ら空想委員会の委員=「空想委員」に就任したのである。

 とはいっても、一方で私もまた子どもだった。本当に空想委員会が正しいのか、大人達の言っていることの方が正しいのではないか、と思う自分もまた常に存在し続けた。こうして私の内側に対立が生じることになった。そう、私の対立とは、「空想委員であろうとする私」と、「空想委員であろうとする私を滅ぼそうとする私」の対立だったのである。

 

 そうして以後約10年にわたって私の機能不全は続くことになる。西暦2012年8月に作ったTwitterアカウントのHNは「空想委員」にして見たものの、しかし空想委員であろうとすることに忠実になることもできず、さりとてそれを止めることもできず、対立は延々と続くことになった。

 これに終止符を打とうと思ったのは、西暦2019年のことだ。私はこのとき悟った。

「結局私は、私であり続けるしかないのだ」

と。つまり空想委員であろうとすることを止めることはできないのだ、と。だってそうだろう。私はなんだかんだ言って、TwitterのHNを「空想委員」から変えることはしなかった。これは結局、虚構の現実主義に恭順することを良しとせず、事実と正義に忠実であろうとする私が延々と存在し続けたことを意味する。またこの頃を過ぎると、過去の自分の正しさというものがわかるようになってきた。最近の例を挙げると、たとえば西東京バスがこの夏から運行を開始した高速バス「通勤ライナー」は、新宿から日野を経由して八王子の北へ行くという、私が考えていた空想鉄道「京王電鉄東八線/甲武急行甲武本線」を全くなぞるルートである。これは結局のところ、私の空想が部分的に実現したと言っても良いだろう。

www.nisitokyobus.co.jp

実際問題こんなことが山ほどあるのである。名古屋市営バスの都心ループ(C-758)大須延伸しかり、名鉄名古屋本線西枇杷島駅のホーム拡張しかり、中川運河水上バスしかり。中には私が「こんなこともアリではないか」と言った頃には盛んに批判を浴びたものもあるが、それでも現にできてしまったのである。もちろん、私が世の中を動かしたわけではない。ただこの世に、私と同じ発想を抱き、苦心してあまたの人とお金を動かして実現にこぎつけた人が居るだけだ。だが私はこの事実に希望を覚えるのである。私も無理に現実に恭順するのではなく、私にとっての事実と正義を公にした方が建設的ではないか。私はそんな風に思うようになった。

 

 そして昨今の新型コロナウイルスパンデミックである。パンデミック以後、日本では事実にも正義にも基づかないことが横行している。先日産経新聞に報じられた感染症法上の分類変更はその最たるものだろう。

www.sankei.com

>>医療関係者から、感染症指定医療機関などでの対応が必要となる現行の扱いは、病床の逼迫(ひっぱく)を招く一因との指摘が出ており、季節性インフルエンザ並みに移行するかが議論の中心になる

愚かなことである。現在の医療崩壊はデルタ株の蔓延が原因であり、また自己負担の増大となる5類変更は「人々の命を守る」という我らが真に目指すべき社会的正義にも合致しない。しかしこんなことがこの日本には蔓延っている。これはつまり、事実にも正義にも基づかない「現実主義」なる怪物を、大事に大事に育ててきたからだろう。そしてその「現実主義」なる怪物が、我らを食い殺さんとしているのだ。

 

 まさに今こそ、空想委員会を公然の組織とするときであるように思う。しかし幸か不幸か、今日本には「空想委員会」を名乗る別の集団が存在する。

kusoiinkai.com

「歌うのは、日々の暮らしで感じる生き辛さ。でもそこには希望の欠片が潜むはず」という彼らの活動は、私の空想委員会にも通じるものがあるように思うが、しかしあくまで私は私であり、彼らは彼らである。私は彼らの活動に一切干渉するつもりはなく、また一方で空想委員会という名を譲る気もない。というわけで私の方の空想委員会は正式名称を「空想委員会日本本部」とし、もし今後一般社団法人あたりで登記をするにしても彼らの活動を阻害しないようにしたい。また一方で、私の書く文章で今後彼らに言及するときは「音楽グループの空想委員会」とし、私の空想委員会とは明確に区別することにしたい。そのようにして共存していくことにしたい。

 

 私は反省したい。私を、私自身が消し去ろうとしたことを。私自身が私を信じなかったことを。そして私は、他ならぬ私として生きていきたいと思う。

 

 長くなったが、この文章の公開をもって我が「空想委員会日本本部」を公然の組織とすることにしたい。

 

(委・委員長)