今日も回り道

音楽グループの「空想委員会」とは何の関係もありません

国土利用と地方創生(2) 国土と交通網のあるべき形成を考える

kazetosoratokumo.hateblo.jp

 前回の記事で述べた通り、6/27に投稿した↑この記事は私の姉から高い評価を得ている。姉は実際に田舎に移り住み、地方創生を実際に行ってきた実務家であり、その姉からの高評価はネット上での万バズよりはるかに価値がある。この見解の妥当性を確信した次第である。

 

 一方で私はだからこそ、たとえばド田舎に新幹線を引いてそれが地方創生だと主張するような者達に与することはできない。私が思うのは

地域間公平性なる概念は地方創生の敵である

ということだ。東京に必要なものと北海道に必要なものは違うのである。そしてその違いは差別ではなく適材適所というものである。よく誤解されるが、交通手段が需要を創出するわけでないことは国鉄の歴史を見れば明らかである。さも創出したかのように見えることもあるが、それは「潜在需要を顕在化させた」ということであり、それはあるところにはあるがどこにでも眠っているものではない。

 

↑全く仰る通りであり、たとえば昨今公共交通整備の成功事例として喧伝される宇都宮などもあくまで県都クラスの都市の話なわけである。私は宇都宮LRTなどは公共交通整備は東京や大阪などの大都市でのみ効果があるものではなく、スプロール化の進むいわゆる車社会の都市であってもある程度の人口集積がありまた交通流動に適合していれば効果があることを立証したという意味において偉大な事例であると認識しているが、しかしだからと言ってどんなところでもという話ではなく、実際のところ新設LRTが有用なのは宇都宮くらいではないかとも思うところである

 

 これもよく言われるように思うが、しかしその意味を真に考えたことのある者は特に非専門家では非常に少ないのではないかと思うが、実に交通網とは血管と同じである。幹線ルートには太く短い動脈が必要なのであり、そしてその周囲には無数の毛細血管が伸びているべきなのである。動脈が細ければ毛細血管がいくらあっても血液が循環せず、それは動脈が無駄に曲がりくねり長くなっていても同じであるだろう。逆に毛細血管は太くても意味がなく、細くとも多数存在する必要があるのである。

 これはすなわち交通網に当てはめれば、幹線は十分に太くてかつ可能な限り最短ルートで拠点間を結んでいるべきであり、また支線は低コストな規格で多数存在するべきなのである。なぜ支線は低コストでなければならないかと言えば、それは高コストな支線は数を確保できないからである。これが世にごまんと居る自称地方創生論者が勘違いしているところである。彼らは往々にして幹線もなしに支線を張り巡らせようとしたり(※1)、あるいは支線であって然るべき区間に幹線を敷設しようとしたりする(※2)が、それは結局地方創生の足を引っ張るだけなのだ。

 

※1 「リニアよりローカル線を」的な言説がそれ。実際にはローカル線だけ存在しても無意味なのであり、ローカル線を駆逐してでもそれより圧倒的に輸送人員が期待できる中央新幹線にヒト・モノ・カネを回すべきだろう。中央新幹線を取りやめるのならば、それはローカル線ではなくさらに必要な幹線にヒト・モノ・カネを回すためであるべきである

※2 整備新幹線推進派によくある考え方。実際にはフル規格新幹線よりも在来線の方がより多くの町を結べるのであり、また事業期間も少なくなってB/Cも向上するわけである。一方でフル規格新幹線は最短ルートであればこそより長距離において効果を発揮できるのであり、その方がより多くの町において利便性を向上できる。あえて最短ルートを放棄するのならば、それはより建設が容易でB/Cが向上する場合のみに限られるべきだろう

 

 私はかつて掲げられた「国土の均衡ある発展」は、結果として東京一極集中をより加速させたのではないかとさえ思っている。あの結果行われたことはと言えば無秩序に山野を切り開き、環境破壊を引き起こしただけでなく地方都市の健全な都市化をも阻害したということだろう。自家用車の普及・商業施設の郊外移転は歴史的必然ではあるが、しかしそれはもう少し統制的に出来なかったのかとは思うところだ。「国土の均衡ある発展」は領域国家(非都市国家)においてはある程度は必要な概念だと私も思うが、しかしそれはあくまでも非常にマクロ的な話に限定されるべきなのであって、ミクロ的には都市化・集積化を推進し、限界集落はもちろん場所にもよるが基本的に山野に返していけば良いものと思う(※3)。

 

togetter.com

↑「無駄な公共事業」と聞いて私が思い出すものの1つに高速道路のバスストップがあるが、これがとりわけ初期の名神や東名においてはいかにも需要のありそうな場所ほど設置されておらず、需要のなさそうな場所にこそ設置されているのは「国土の均衡ある発展」の結果である。これらが結局停車するバスも無くなって使用されず、一方で近年真に交通需要の多い場所に設置された京都縦貫道の高速長岡京停留所(→阪急京都本線西山天王山駅併設)のような場所はある程度利用されているのは、まさに「リニアよりローカル線を」の末路と本来あるべき交通網整備とはいかなるものであるかを物語っている

 

www.city.nagaokakyo.lg.jp

 

※3 ただ一般に居住地の集約・都市の縮退と集積化という話になると「農村からの撤退」がすぐにイメージされているように思うが、実際には最も撤退を促進されるべきなのは吉川祐介さんが回っておられるような限界分譲地であることは強調しておきたい。農村集落は元々農林水産業の基地なのであって、現在でも住んでおられるような方々は現在でも農林水産業で生計を立てておりその地に居住する必然性の高い方々も多いためその撤退判断はあくまでも慎重になされるべきだと思うが、限界分譲地は吉川さん自身が言っておられるようにもとよりその地に住む必然性も何もなかった場所であり、国土形成史においては農村集落とは比較にならないほど罪深い存在である。ただこれも吉川さんが言っておられることであるが、実際にはそのような分譲地にあえて住もうという方々もおられるのであり、また場所によっては周辺からの転入が相次いでいるところもあるため、たとえば都市の集約においては場所によっては旧市街に拘らず郊外の分譲地にあえて街を移転するというような対応も考えられるべきであり、またそもそも早く手を付けるべきなのは現在でも人々の居住する土地の集約ではなくまずは土地の権利関係の問題をどうにかすることだろう

 

urbansprawl.net

 

 地方創生は往々にして西暦1970年代に登場した「文化的リベラリズム」の観点から言及されるようことが多いようにも思われるが、それもまた地方創生の敵であると思わざるを得ない。文化的リベラリズムとは田中拓道「リベラルとは何か」(中公新書2621、2020年)によれば「経済発展よりも個人の自由な選択を優先した」考え方であり、今一般に左派と聞いて連想されるであろう脱経済成長、脱進歩主義、脱都市化というような私に言わせればまさにこれこそ反動主義であろうと思わざるを得ない思想のことである。この思想が罪深いのは神話によくある下降史観に立脚していることであり(※4)、それにより前近代をともすればユートピアであるかのように喧伝してその時代の労苦を糊塗しており、実際には近代化による経済成長・都市化によって人類の様々な問題が解決したことを「無かったこと」にしてしまうことである。そもそも経済発展と個人の自由な選択は二者択一ではなく、むしろ経済発展こそが個人の自由な選択を可能にした面が極めて多いのである。だからこそ私は田舎に居住しながらも、あくまで現代的な消費社会を肯定し、都市化を肯定し、そして田舎でも消費社会に当然参画できる程度には都市化されなければ田舎に未来などないと確信している。

 もっともこれはだからと言って田舎に東京と同じものを作れと言っているのではない。これは6/27の記事からの繰り返しであるが、東京と同等を目指すべきなのは物理的なものではなく実質的な利便性によるものであるべきである。

 

※4 つまり人間は元々下降史観に生きる生き物なのであって、意識的に進歩主義を心の中に植え付けなければすぐに下降史観が鎌首をもたげて来るのだろう。「今日よりも明日が良くなる」というのは近代化以後の事象であるわけだが、しかし今我々が生きる世の中は近代化以後の世の中なのである

 

 

↑何度でも貼るが、近代化・経済成長が様々な問題を解決したことはヨハン・ノルベリ氏のこの本が何よりも物語っている。しかしそれでもなお人類は「昔は良かった」と思い込みたい生き物なのだ。それはまさに知性によって克服されるべき宿痾であるだろう

 

www.y-history.net

↑前近代をユートピアとする思想の果てにあるものは、まさに地獄としか言いようのない破壊と殺戮なのである

 

 そもそも都市の縮退のような話は人口減少の文脈で言及されることが多いが、私は人口が減少していようが増加していようが国土政策の基本は不変であるべきだとも思っている。人口増加時においては、都市への集住は無秩序な環境破壊に対抗する手段として推進されるべきであり、新たな居住地を切り開く場合でも既存の都市の外縁に付け足すような形で開発されるべきであり、そして新規居住地は人口減少時には速やかに放棄することを前提とすべきだろう。もちろん実際には机上論通りにはいかないものであり、あくまでも重視されるべきは人々の自由と尊厳、そして安全であるべきだが、とりあえず私がこの記事で述べたいことは一般に地方創生と称して推進されているような事象は実際にはむしろ逆効果ですらあると考えられるものも多く、まさにそれが地方創生の足を引っ張っていると考えられるということだ。そしてそれは乗合交通・公共交通の維持・整備の文脈にも通じるものである。

 

www.youtube.com

↑近年の都市開発と言えばタワーマンション批判も根強いが、私はこのような代物を山野に作るよりはタワーマンションの方がよほどマシだと思えてならない。そもそも人は元々群れを成す生き物なのであり、都市公害問題が解決されるまでは都市は極めて住みにくいところであったがそれでも万難を排して都市に集住してきた生き物なのだ。都市化批判なるものは結局、クジラに陸に住めと言うに等しい言説なのだろう

 

↑近年は民主党政権からの逆噴射により「立憲民主党が勝てないのは高速道路整備を推進しないからだ」などというような主張が左派からなされることも多いが、実際のところ選挙で勝利しているのはこのような主張を行う政治家であることは確認しておきたい。亀井亜紀子氏は山陰新幹線を批判して山陰本線に高速蒸気機関車列車を走らせるべきだとも主張しておられるが、山陰のような地域においては在来線重視・新幹線批判の姿勢は私としても支持したいところである。もっとも高速蒸気機関車列車は技術的問題点も多いため、実際のところは普通列車の増発、特急「スーパーおき」の再改良、観光列車の運行あたりに予算をつけていただければと思う。

 

www.j-cast.com

 

 またそもそも民主党政権はたとえば小泉内閣が止めた新名神草津~高槻についてもB/Cを再計算し建設続行とされた高槻~神戸よりもむしろ効果が高いことを突き止めた上で着工認可を出すなどしており、少なくとも道路整備という意味においては結果としては悪くなかったとも付言しておきたい。

 

 

【余談】

 どうにもとっちらかった記事であるが(汗)このブログはあくまでも私の現時点の思索を強引にでもまとめたというか吐き出すためものであり、かなりの部分において思いつくままに書いており、また読者の存在はあまり想定していないのである。その点ご容赦頂きたい。

すべてを敵に回すだろう

 8/20は名古屋に帰ってきたが、それにしても8月に入ってから活動が停滞している。理由は様々だが直近の理由は腹痛が続いているからだ。そろそろ医者に行きたい。

 

 それにしても西暦2020年、すなわち「空想歴1年」からの私の人生というものは、私の人生最大の変革期であると思わざるを得ない。これが何を意味するかといえば、つまり私の見解というものはこの時期に大きく変革しているのであり、そしてその変革は今でも続いているということである。それはすなわち現在もまた大きく変革し続けているということであり、ほんの少し前の見解と今の見解が大きく相違していることはごまんとある。それはまた同時に敵味方の認識も大きく変革しているということであり、特に先の都知事選が終わってからというもの「左派」というものへの認識は大きく変更を余儀なくされている。私が前回の記事で空想主義思想というものについて述べたのはここに繋げるためであり、つまりこれからの私はより空想主義に対して忠実になっていくのであり、それはつまり既存の党派性からは乖離せざるを得ないというわけだ。今Twitterのヘッダー文に記載している内容から読み取れる私の党派性は例えば「左派」とか「鉄道マニア」とか色々あるだろうが、だからと言って左派の味方をするとか鉄道マニアの味方をするとか思われては困るのである。

 

 実際今私がTwitterを見ていて思うことは、今後私はおそらくすべてを敵に回すだろう、ということだ。おそらくすべてのフォロワーがどこかで反発する見解を私はこれから述べることになるだろう。そしてまたそもそもの話として、今の私のTwitterアカウントはヘッダー文にある通りの「情報収集アカウント」としての色彩をますます強めており、その結果閲覧の比重は相互フォロワーよりも主として片フォローの各界の専門家に大きく傾いている。それは前回の記事でも書いた通り空想主義思想の根底には「客観的事実の追求」という概念があるのであり、それは結果として各界の専門家の見解を重用することになるのは当たり前の話である。そして今後私の見解はそうして追求された客観的事実に基づくものとなり、それはすなわち「あまりにも当たり前で何の面白味もない見解」か「誰もが見て見ぬふりをしていた、誰も見たくなかった見解」かのどちらかに少なくとも8割以上はなるだろうということである。

 

↑商業開発の実務に多く携わって来られたpomさんは今私がTwitterで注目している各界の専門家のお1人である。その言葉はあまりにも重い。言うまでもないが商業施設に限らず、鉄道でも何でも本当にこの通り「妥当なものとは面白くないもの」なのだ。逆に言えば素人が見て面白いと思うようなものは、大体妥当ではないのである。なおpomさんと私は相互フォローだが、ただただありがたい限りである。

 

 

 事実の追求とは本質的に孤独な行為である。それは往々にして誰も見たくなかったことをわざわざ掘り起こすという行為であり、また自己の上位置換を探し求めるという行為でもあるからだ。おそらくこれは社会的地位が高い者、すなわちプライドが高い者ほど耐え難い行為であるはずである。SNSを見ているとたまに事実主義を掲げる者達に出くわすが、彼らが大体間違っているのは事実を他者を叩きのめせるこん棒だと思い込んでいるからである。実際には事実が叩きのめすのは”馬鹿な他人”ではなく自分自身である。それは哲学の祖・ソクラテスが最後は処刑されたことが何よりも象徴している。

 

note.com

↑最近の私の大きな変革点と言えば、その1つは倉本圭造氏の記事を読んだことである。この記事は都知事選に際し、蓮舫氏が思ったより神宮外苑に熱心であることが伝わってきたが故に、そろそろ重い腰を上げて神宮外苑再開発とは何なのかということをまとめようとしたところ、この記事に出会ったことにより私がまとめるまでもないことを知ることになったというものである。客観的事実の追求とは自分の上位置換をわざわざ探し求める行為なのだ、ということを改めて認識させられた。もっとも私と倉本氏は見解が全く同じかと言えばそうでもないが、ただその認識の近さ、問題意識の近さにはやはり驚かされたと言わざるを得ない。実をいうと家庭内でも私の認識は私の姉の認識とも結果として似通ったものとなっており、だから先日の地方創生に関する私の記事などは誰よりも私の姉から高い評価を得ているのであるが、それはうれしく思う反面やはり客観的事実に基づく見解は結局オリジナリティに乏しい、似通ったものにならざるを得ないのだということを認識させられている。つまり逆に言えばオリジナリティの高い見解、革新性の高い見解などというものは往々にして妥当ではないということであり、これが残酷なまでに明らかになっていくのがスマホSNSの普及に代表される情報革命以後の世界というものであり、そしてまた左翼なるものは少なくとも長い目で見れば消え去らなければならないものなのだ、ということもまた認識せざるを得ない。

 

 

 そしてそれでもなおこの道を進まなければならないのは、この道の先にしか未来はないと確信しているからである。結局のところある課題を解決するのは客観的事実のみであり、人類に裁定を下すのは地球の物理法則なのである。今後私が味方を作るとしたら、それはこの前提を共有できる者達に限られるだろう。

空想委員会とは何か――今改めて考える

 風邪が治りつつある。つまり私が今再び動き出そうとしているということだ。それに際して私は、私の在り方というものを今一度改めて考えている。

 

・空想委員会とは何か――今改めて考える

 私について考えるということは、つまり空想委員会について考えるということだ。私という人間の特質は私の諸活動を空想委員会という形に取りまとめ、その組織運営という形式で以て自己統治を図っていることである。

 この体制の起源は今からもう四捨五入すれば20年も前のことになるが、私が中学生だったある日にこの「空想委員会」なる組織を立ち上げたことに始まる。だが現行体制の直接的起源は西暦2020年、即ち「空想歴元年(空1年)」に空想委員会が「現実からの解放」という目標の下、中央会議の下に4部局を置く官僚制組織として再構成されたことに始まる。現行体制になる前、つまり空想歴が始まる前、まだ空想委員会が官僚制組織として確立していなかった時代は、私という人間は深刻な迷走状態にあった。その迷走を終わらせ、私の人生を第1に私の満足の行くものにし、そしてその満足を軸により責任ある個人として実社会で活躍することができるようにするため、私は空想委員会の下に人生を再構築することにしたのである。

 

 中学時代の私の過ちは、空想委員会を非公開の組織とし、そしてその目的を文章に書き残さなかったことである。空想委員会の当初の目的は私の内心の自由を守ることにあったはずだが、その当初の目的は日常生活の中で失われてしまい、長らく空想委員会は目的を見失って迷走していた。空想委員会の迷走は実社会における私の迷走として現れることになった。そして私は15年もの時間を空費した。その代償はあまりにも大きいと言わざるを得ない。空想歴は現在5年目を迎えたが、今なお私の言動に不安定さが残るのは長すぎた迷走の後遺症である。可及的速やかに解消したいが、長すぎた過ちは正すのも時間がかかるのだ。それはやむを得ないが、しかしこれを解消することは誰よりも私自身が望んでいることである。

 

 現在の空想委員会は空想主義思想の下、「現実からの解放」という目標に向けて私の総力を結集させようとしている。ここで重要なのは、「空想主義思想」も「現実からの解放」も、どちらも私オリジナルの概念であるというところだ。なぜこうしなければならなかったかと言えば、それは私が何も信仰することができなかったからである。

 人は一般に社会に存在する何かを至高のものとし、それを基準にして善悪を構築するものである。たとえばローマカトリックを信仰している人々はローマ教皇の御言葉を至高のものであるとし、それを基準として善悪の体系を構築している。それは私も試みた方法である。あの長い迷走を何らかの神を信仰することで終わらせることができれば、私は喜んでそうしただろう。だが私は知った。それは、私は何も信仰することができない人間なのだ、ということだ。

 何かを信仰するとは、即ち善悪の核を他の何者かに委ねるということである。他者がそうすることは別に構わない。ローマ教皇天皇陛下アッラーの神でも御仏でも何でも良いが、そうした何かを至高のものとして信仰することができるのは、私はとても幸福なことだと思う。そうすることができる人々は、ぜひともそうして頂きたい。だが、誠に不幸なことに、この私はそうすることができなかったのである。いかなる神も私のすべてを納得させることはできなかった。私のある部分は納得しても、ある部分が必ず反駁を見つけ出すのだ。このように既存のいかなる宗教も、いかなる思想も、私のすべてを統合する核にはなり得なかったのである。

 

 では、私の善悪の核はどこにあるのだろうか。私の思想性の根源はどこにあるのだろうか。私のすべてが納得できた概念は2つである。1つは「客観的事実」であり、もう1つは「普遍的正義」である。

 客観的事実とは「私の意志とは無関係に私の外部に存在する物理的事象」のことであり、物理学的事実と言い換えても良いものである。私を含むホモサピエンスという動物は地球という星の上で生きるより他ない存在であり、その地球を支配する物理現象という基準はどうあがいても外れることのできない絶対の基準である。これに反する一切はどのような言葉を尽くしても無意味であり、これから解き放たれる方法はただ死ぬことしか存在しない。

 普遍的正義とは「いかなる民族、いかなる宗教を信仰する人々であったとしても、多数決を取れば正となるであろう正義」のことであり、この世のあらゆる宗教、あらゆる思想、あらゆる倫理の大多数が正義とする正義のことである。たとえば「人を殺してはならない」という正義は日本国においては刑法第199条に規定されているが、この罪は恐らくあらゆる国家の刑法に規定されているであろうし、また宗教においてもたとえば旧約聖書において預言者モーセシナイ山で授かった「十戒」にも含まれているものである。和辻哲郎倫理学とは「人が人であるための学」であるとしたが、その言葉に倣えば普遍的正義とは「人が人であるための基準」であると言うことができるだろう。

 

 

 このことからわかることは、私は「人間であること」を唯一絶対の基準としていることである。逆に言えば、私は人間であるという事実の下に自由なのだ。あとは私の好きなようにすれば良い。これが私という人間の思想性である。そしてこれこそが空想主義思想の根底にあるものであり、この自由を実際に勝ち取りまたそれを維持することこそが「現実からの解放」なのである。

 私という動物は、生物学的には「ホモサピエンス」という学名で呼称される。この名はラテン語で「知恵ある人」という意味である。つまり人は知恵を有するが故に人なのである。人が知恵を有するのは思考するからである。思考は「空想」という形で表出される。つまりある人間の空想は、その人間の本質そのものであると言える。だから私は「空想」という言葉を旗印とする。そしてその空想を実空間に可能な限り実現させるため、私は現実に対して挑戦する。それが「現実からの解放」という戦いであり、空想委員会はそのために私の総力を結集させようとするのだ。

 

www.y-history.net

 

 それは当然客観的事実に反するものであってはならず、また普遍的正義を実現させるものでなければならない。私の空想を実空間に可能な限り実現させようとするのは私の利益のためであるが、しかし私もまたこの世に存在する一人の人間であり、その私の利益になることは多くの人々の利益と矛盾しないはずである。とりわけ私はこの世で生きることに様々な困難を抱えており、その私ですら生きやすい社会を実現させることができれば、それは恐らく今よりもより多くの人々にとって生きやすい社会を実現することになるはずである。その理想に向けて、私は私の趣味を原動力として突き進んで行くのである。

対立の内包

kazetosoratokumo.hateblo.jp

 7/24の記事で、非公開ブログの方では去る4月より「対立の内包」をいよいよ可能とすべく空想主義思想について取りまとめていたという話をチラッとしたが、今回はなぜそんなことになったのかということについての記事となる。

 

 始まりはと言えば3/18のこの↓ツイートにさかのぼることになる。

 これはたまたま立憲民主党支持者諸氏がIDR Labsなる政治価値観テストをやっておられたために私もやってみたら、「自由主義社会主義」と診断されたというものである。

 これは驚いた。それは自己認識では相当自由主義寄りの人間だと思っていたためである。ただ同時に納得した自分も居た。というのも私は自民党でも維新の会でもなく、あえて立憲民主党を支持するような人間だからである。立憲は社会主義政党ではないが、しかし左寄りではあるわけであり、当然それはまた私も同じなわけである。

 というわけで自由主義社会主義者を名乗るのも良いかもしれなかったが、とはいえ私は「社会主義者」という呼称にはいささか抵抗があるくらいには右寄りの側面を有している。さりとてここでせっかく社会主義者だと診断されたのだから、頭ごなしに否定するのではなくどうにかして活かしたい。このようなアンビバレントが発生したため、これはどちらかに統一するのではなく「対立の内包」を行うべきではないか、と思ったわけである。

 

・「社会主義」を考える

 

 3/18の診断以来私は社会主義というものについて考えるようになったが、私が昨今思うこととしては

日本にはまともな自由主義勢力が存在しないと言われるように、まともな社会主義勢力もまた存在したためしがないのではないか

ということだ。そしてそれゆえに日本社会における社会主義という概念へのイメージが過度に悪化しているというところまで含めて、実は自由主義と同様の問題を社会主義もまた抱えているのではないか、という発想に至っている。

 今ファクトを提示することができないのだけれどどこかで読んだ記憶があるのだが、フランスでは美術館に入ることは基本的人権であるという。また多くの国において公共交通機関(乗合交通)の整備に熱心なのは左派勢力だが、その公共交通機関とは最低限の生活交通のみならず、高速鉄道まで含まれるものと認識している。このように諸外国の左派勢力(社会主義勢力)には最低限の医療や福祉の拡充だけではなく、「豊かさのための再分配」という発想があるように見受けられるのだ。一方で日本の左派勢力はと言えば最低限の医療や福祉の拡充に注力し、人々を多様な社会活動にいざなうような事業・政策は「贅沢」として批判する傾向があるように思われる。それにより結果として「社会主義勢力が社会権を軽視している」という不思議な状況になっており、またそれにより支持されるものも支持されなくなっているのではないか、と私は昨今思っているのである。

 

 もっとも今回の記事については何ら出典が貼られていないことからも明らかなように、現時点では私の脳内に発生した思い付きの域を出ないものである。私の思い付きが正しいのか間違っているのかも含め、今後学習を進めていきたいと思う。

人間不信の原点を考える

 処方された薬の効果か熱は36℃台まで下がったが、相変わらず頭が重く喉が痛くてだるい。多分これがしばらく続くことになるだろう。

 

 さて今回のブログ記事は前回に続く形で、私の人間不信がどこから来ているのかを考えてみたい。最初から結論を書いておけばそれは

「わからない」

というのが本当のところである。なぜ私がここまで人間不信を抱いているのかは実際のところよくわからない。よくわからないが、しかし思い当たるものがないわけでもない。

 

 何が思い当たるかと言えば

家庭内での孤立

である。

 私は家族の中に趣味や価値観を共有できる者が居ない。そのため私は長らく

「あなたの言っていることは理解できない」

と言われ続けてきた。どうも世間一般では絶対的な味方の代名詞と言えば「母親」らしいが、私も母には大変甘えてきた(→今でも甘えている)面もあるものの、とはいえその母も長らく私が趣味でも時事問題でも何か話そうとするたびに

あなたの言っていることはお母さんにはわからないから、他の人に話した方が良い

と言われ続けてきた。これが私の人格形成に深刻なダメージを与えていることは明白だろう。つまり家庭内でのコミュニケーションが育まれていないため、私のコミュニケーション能力が適切に育まれていないというわけである。

 これが変わり始めたのはわずか3年前のことである。私がようやく精神科通いを開始し、その診療の席に私が母をあえて同席させたことによる。この歳になって母と医者通いとはどうなのだろうかとも思うが、私の親子関係はこうでもしてやり直していかないといけないものなのだろうと思っている。

 

 もちろん問題は母だけではなく、そして考えれば考えるほどに込み入った話となる。私が少し思うのは、私の両親はなまじ「旅行が好き」であるからこそ、私の交通趣味を理解できなかったのではないか、ということである。一応鉄道が好きなことくらいは理解されているから色々と旅行には連れて行ってもらったが、そのためこの年代では珍しくブルートレインへの乗車実績が豊富なのは良いのだけれど、とはいえそう言う観光資源として既に社会的に受容されているものではない、

何の変哲もないただの日常の中を走る定時乗合交通に乗りまくるのが好き

というのはなかなか理解できるものではなかったらしい。これもようやく理解され始めたのはつい最近のことである。

 

↑私の家族に限らず、私の趣味は理解しにくいものなのだろうとは思う。Twitterで全国公共交通巡りを実況していても一般的な観光地やローカル鉄道と比較してこういうローカル路線バスは載せてもさっぱり反響がないのが常なわけだが、私の趣味の中核は一般的な観光地や観光列車のようなものではなくむしろこちらの方なのである。

 「旅行好き」を自称して観光地やローカル鉄道のツイートばかりに反応してこういう地味な路線バスの話題には見向きもしないフォロワーも今の私のアカウントにも居るのだけれど、そう言う人は一体私に何を期待しているのだろうかとは正直思う。

 

↑6/1の「のりのりバス京都」では桂坂ニュータウン内の京都市営バス大減便のツイートと観光特急のツイートでは「いいね」の顔ぶれが全く違うのであるが、私にとって好印象なのはもちろん桂坂の方に反応を下さるような方であることは言うまでもない。他人の趣味趣向をとやかく言うのは私の主義に反するが、ただ京都市営バス6/1改正で観光特急にしか興味がないというのは、つまりその人物はいくら旅行好きを名乗っていてもそれは単に「消費」の対象としてその土地に関心を持っているだけであり、その土地に住む住民の暮らしには何ら興味がないということだろう。私はそのような人間にはなりたくないものである。

 

↑なお京都市営バスの観光特急については、私のツイではあえて好意的に書いたものの、TAKA Kawasaki氏によりこのように既存の観光客向け路線バスとの整合性の無さが既に指摘されているものである。TAKA Kawasaki氏は北陸新幹線大阪延伸の件でも必読レベルの内容を繰り返しツイートしておられるため私も微力ながらたまにRTするなどしているけれど、なぜかあまりバズらないのが不思議。結局人々は地味な「問題の真相」ではなく、派手な空中戦を楽しんでいるだけなのだ……と私はさらに人間不信を募らせていくわけである。

 

 相変わらず頭が重いこともありまとめに入りたいが、この記事をどうまとめたら良いのかは私にもわからない。とりあえず人間不信についてはどうにかこうにか低減させつつ、それがあったが故に培われたものを活かしていきたいとは思う。

人間不信の克服

 7/25からの風邪はサーズ2(旧称:新型コロナウイルス)によるものだったようである。いつまで症状が続くかは不明だが、これで当面はあまり出歩けなくなった。春以降停滞している全国乗合交通巡りをさらに先送りせざるを得ないのは心苦しいが、一方でこれを機に様々な事をより腰を据えて整理したいと思っている。

 

・人間不信の克服

 

 私の人生最大の過ちはと言えば、それは空想委員会を非公開組織化したことだろう。これによって私という人間は大変風通しが悪くなり、外からは本質的なことが何も見えなくなり、それにより様々な誤解や軋轢が生じ、私自身何を目指していたのかすらわからなくなって長い迷走のトンネルの中に入ることになった。その後遺症はこのブログにも表れている。それは低い更新頻度と過度に攻撃的な言葉遣いである。私は心理的基盤に

「他人とは何を言ってもわかり合えない」

という絶望感が置かれているため、何かを思ってもそれを発言しようというインセンティブに乏しく、発言しても「どうせ何を言ってもわからないだろう」と皮肉やら何やらが膨大に入り混じるというわけである。これにより一応空想委員会を組織してもう15年以上は経つというのに、何一つろくなことは成し遂げられていないという体たらくが生じているわけである。

 

 どうしても考えざるを得ないのは、生駒の公共交通を守る会さんとの対比である。方や極めて切実な地域の課題に立ち向かう集団、方や中学生の趣味の延長のような存在自体が冗談のような集団(?)では根本的に出発点も目的地も何もかも違うことはわかっているが、さりとて素人の手弁当の集団がわずか半年程度で公共交通機関の維持存続という大きな目標を成し遂げているのを見ると、一体私は15年以上もかけて何をやっているのだろうか、とどうしても思ってしまう。何がこれほどまでに違うのだろうか。極めて多くの違いがあるだろうが、最大の違いは

「味方を作る道を選んだか、他者との対立の道を選んだか」

の違いだろう。非公開組織とする、ということは根本的に他者を敵だとしか見なしていない、ということである。それではどうあがいても何事も成し遂げることができないのは明白なのだ。

 

 情報発信が必要である。どうせわからない、という前に説明を尽くすことが必要である。ここに至るまでに私はあまりにも多くの敵を作ってしまった(※1)が、今ここからでもやり直していきたい。

 

※1 こう思っていること自体が人間不信そのものなのだが。なお旧アカウントでフォロワーの多くを占めていた同年代のオタク層をほとんど切ったのは今でも正解だったと思っている。

 

↑全くその通りであり、だからこそ私も15年前から内にこもらずにもっと外に向けて発信するべきだったのだ。もっともネット上の個人アカウントも公開されているとはいえ所詮引きこもり部屋みたいなものだから、本当に実社会に影響力を与えるのならばネット上で終わることなく然るべきところに話を持ち込むなどするべきなのだが

私と艦これ――だって艦これ、そうじゃねえもん――

 どうも突然風邪をひいたようである。熱が38.8℃あって頭が重い。こういうときはPCでウェザーニュースLIVEをつけっぱなしにして、スマホで艦これ攻略wikiを見るに限る。

 

wikiwiki.jp

 

 こういうときにぼんやりと考えられるのはやはり艦これである。これこそ私の趣味の一つに艦これが存在する意義であるとすら言えるだろう。なぜ艦これなのか。今回はそれをまとめてみたい。

 

・現実世界との距離感

 

 艦これの魅力を問われたら、私ならまずこう答える。艦これは創作物であるが、現実世界とも遠く薄くつながっている。それこそがまさに魅力だと言える。

 

 私は創作物については、基本的に悲劇を求める。ここで言う悲劇とは単に悲惨な物語という意味ではなく、アリストテレスが「詩論」の中で語っている「賢者の物語」という意味である。

 

 

 人はなぜ悲劇を求めるのか。それは喜劇が悲惨な現実からの目くらましを提供するのに対し、悲劇は現実に立ち向かう勇気を読者に提供するからだ。たまに創作物は喜劇だけで良いのだというような主張が語られることもあるが、それはつまり現実に対して何もかも諦めてしまったということだろう。そういう人間がこの世に存在するのは自由だが、私はお近づきにはなりたくないものだと強く思う。たとえばTwitterで現実の有様を全肯定してそれが必然なのだと「解説」して回っている連中も居るが、私はそういう人間はこちらからブロックすることも頻繁にある。そういう人間の主張はどれほど事実性が高くともより良い社会を求めるという観点からすれば害悪でしかないからだ。そしてそういう人間は往々にして、現実を絶対視するあまり知らず知らずのうちに矛盾する主張をやらかしているものである。なぜなら、この現実世界は当たり前のように矛盾しているからである。そして現実世界はどれほど忠誠を誓ったとしても、何ら恩賞を与えることなくある日突然我らを切り捨てるのだ。なぜなら現実世界とは何ら血の通わないシステムそのものだからである。システムに都合が良いうちはある程度の恩恵を受けられるかもしれないが、システムにとって不都合になったらその瞬間に見放されるだけである。現実世界に忠誠を誓ったところでろくなことにはならない。現実世界からはただ「解放」のみを考えるに限る。そしてそれこそが人類の普遍的な在り方というものである。人類は現実世界に立ち向かい、より良い社会を求める生き物だからだ。だからこそ人ははるか昔アフリカ大陸を出て、農耕牧畜を開始し、文明を築き上げてきたのである。その歴史に連なるこそこそ人間の本来の在り方というものであり、どれほどもっともらしいことを垂れ述べようがそうしないのはそれは人ではなく、寄生虫として生きることを選んだということだ。私はそんな寄生虫に成り果てるくらいなら、陰謀論新興宗教でも信じ込んでいた方がまだマシだとさえ思う。

 

 少し話が逸れたが、艦これは単なる美少女ゲームではなく現実世界と繋がる回路を有する存在である。そこに艦これの「悲劇性」を見出すことができる。一方で、艦これはもちろん現実世界の一部ではない。繋がる回路を有するとはいえ、その回路は遥か昔に途絶えている。この距離感が艦これの魅力であり、だからこそこういう体調不良のときに情報収集を行っても精神がかき乱されるようなこともなく、のんびりと眺めているにふさわしいというわけである。私の趣味は艦これ以外は現実世界とあまりにも一体化し過ぎているか、あるいは何の接続回路も持たないかのどちらかである。何の接続回路も持たない作品も見ることは見るが、しかしもし艦これがなかったら私の創作趣味は既に消滅しているのではないか、とさえ思う。

 

・オタクの欲望からの解放――「今日も柱島泊地」の意義

 

 さて、その艦これで私は小説「今日も柱島泊地」を執筆しているわけであるが、なぜそんなことをしているのだろうか。

 その理由はと言えば、既存の艦これ創作は艦娘があまりにも「オタクの欲望の客体」になり過ぎているからである。そしてその結果悲劇として描かれているはずの物語が喜劇にしかなっていないと言わざるを得ないからだ。艦これの”悲劇”の構造は概ね以下の通りである。

1.艦娘は差別されている

2.提督(プレイヤー)だけが味方である。だから艦娘は提督だけに懐く

3.艦娘達はただ実際の兵士や軍艦を艦娘に置き換えただけの状態で戦い、命を落としたり大けがをしたりする。またはその可能性がある状態で戦う

4.提督は艦娘を生還させようとするが、その力は及んだり及ばなかったりする。力及んで艦娘が生還できた場合は提督はちやほやされ、生還できなかった場合は他の艦娘から慰めを受けることができる

5.たまに艦娘の非倫理性が言及されることもある

 こういう創作物を好きな方には申し訳ないが、私はこういう創作物には何ら読む価値を見出すことができない。1と2は明らかに

「そんな可哀そうな○○ちゃんに優しくしてあげる優しい俺ら」

に自己陶酔するための設定であろうし、3はそれだとなぜ艦娘が運用されているのかの理由付けが全くできていないとしか言いようがなく(※1)、それは結局のところ4に繋ぐための代物だとしか言いようがなく(※2)、そして5は改めて言及されるまでもなく見ればわかるレベルの話である。これでは少女にちやほやされるために少女達に過酷な運命を課す愚か者の物語であり、それはつまりアリストテレスがいうところの「喜劇」だと言わざるを得ないだろう。

 

※1 普通に兵士として戦うなら、なぜ成人男性ではないのか? ジュネーブ条約子どもの権利条約も何もかも無視して、しかも女子を戦わせているのは一体どういう意味があるのか?

※2 そもそも論として提督と艦娘達がラブラブだったら、普通の軍組織としてはまず成立しないと言わざるを得ないだろう。なぜならば、軍隊の指揮官とはつまり部下に害をなす存在だからだ。吉田満の「戦艦大和ノ最期」における臼井大尉の言葉を引用したい

「ダカラヤッテミヨウジャナイカ 砲弾ノ中デ、俺ノ兵隊ガ強イカ、貴様ノ兵隊ガ強イカ アノ上官ハイイ人ダ、ダカラマサカコノ弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レナドトハ言ウマイ、ト貴様ノ兵隊ガナメテカカランカドウカ、軍人ノ真価ハ戦場デシカ分カランノダ イイカ

 つまり、軍隊の指揮官は尊敬はされるべきだろうが、善人だと思われてはならないのである。

 

 

 別にこういうのが好きなら、どうぞご自由にとしか言い様がない。元より艦これはオタクの欲望を満たすための代物である。だからその需要に応えるのは本来任務であるとも言える。

 だが私は思うのだ。

「これでは艦これの魅力を描くことができていない」

と。そもそも艦これが本当にただオタクの欲望を満たすためだけの存在ならば、私はそもそも艦これをプレイすることすらなかっただろう。だが、艦これはそれだけではないのである。私のような人間でも楽しめる「悲劇性」が艦これにはあるのだ。そしてそれがあるからこそ、艦これは11年も続いているのではないか。つまり艦これには、まだ可能性が眠っているのである。私はそれを引き出すことに挑戦したいのだ。

 

・公式設定を見直す――だって艦これ、そうじゃねぇもん

 

 ここで言う「公式」とはゲームとアニメのことである。艦これの特徴はその世界観が明確には描かれないことだが、私が思うのはプレイヤーが書いた艦これ創作と公式がどうも食い違っているのではないか、ということである。

 特に明瞭に描かれたのはアニメ第2期「いつかあの海で」である。あの物語に、艦娘を差別する者は誰も出てこなかった。絶望的戦況下ではあったが、提督はあくまでも艦娘の生還に重きを置いているようであり、部隊内でも生還しつつ除隊した者達に後ろ指を指すような者はおらず、むしろ

「銃後の奴を守らねばならん」

と気勢を上げるような状態であった。ではなぜ艦娘は戦っているのか。それは

「未来に繋ぐため」

なのだ。だから艦娘は戦うが、しかしその後はあくまでも生還しなければならないのである。これは実際の軍組織、特に「其ノ栄光ヲ後毘ニ伝エントスル」ために生き残った艦を将兵もろとも沈めるためにこそ作戦を展開したとしか思えない旧日本海軍の在り方とは真逆であり、むしろそれを否定しているとすら言えるだろう。

 

 

 そして、本家ゲーム版も実際こんな内容なのである。一応DMMの公式サイトでは艦娘は「国のために」戦っているらしいが、実際のところプレイヤー=提督のなすべきことはと言えばゲームの内容としては敵を撃破するためというよりも、むしろ艦娘の生存こそが職務なのではないかと思わざるを得ない。艦娘はそもそも出撃させなくても何のペナルティもないし、出撃させても「大破撤退」さえ徹底すれば1人の犠牲も出すことなく戦闘することができ、それは本土を背にした防衛戦であったとしても、主力艦はもちろん駆逐艦海防艦1隻のためですら大破撤退を何のペナルティもなく行うことができるのだ。一体この作戦の影では少女1人のためにどれだけの血が流れているのかと思わずにはいられないが、しかしそちらは何ら描かれることはないのである。

 

 それは軍隊としてはあり得ないことである。しかし、私はむしろこの方がしっくり来る。そもそも艦娘自体があり得ない代物なのである。ならばそれを運用する軍組織も、あり得ないものであって然るべきなのだ。一体艦これ世界とは何なのか。それは

「最悪の状況下でも最低限の倫理を守ろうとする世界」

であると定義できるだろう。少年兵はジュネーブ条約子どもの権利条約に違反する存在であり、中でも少女を戦わせるなどあらゆる蛮行をやりつくしてきたはずの人類ですら、未だなし得たことのない蛮行である。少年兵は最悪の児童労働だと言われるが、ならば艦娘は最悪の中の最悪だろう。だがどんな地獄の底でも人は何らかの善を成そうとするはずである。私は、それを描きたいのだ。

 

 これは本質的に孤独な戦いである。なぜならば「今日も柱島泊地」という試みは、それはオタク達のど真ん中でオタクの欲望を否定するような試みだからだ。私は別にオタク達と敵対したいわけではないのである。それが楽しいのならばそうすればよい。だが私はそれを楽しいとは思えなかった。そして恐らく私のような人間も、どこかには居るはずである。私はそのような「誰か」に向けて、本作を描きたいと思う。そしてもしこれがリアルじゃないとか、そう言ってくる何者かが居た場合はこう言い返したい。

「だって艦これ、そうじゃねえもん」

私は戦争を描きたいのではない。艦これを描きたいのだ。

 

 今後の展開についてであるが、第3章までは2018年版の第1話~第3話を大幅に引き延ばしたような物語とするつもりである。現在の第1章のサブタイトル「着任、そして」は2018年版では第1話のサブタイトルであったように、第2章は旧第3話と同じく「彼女達の肖像」、第3章は旧第2話を引き継ぎ「その日、鎮守府正面海域」というサブタイトルを予定している。ただ現在は第5話の前半までは書きあがっているが、公開がいつになるかは現在未定である。